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第11話

颯太は院内PHSの音で目がさめた。慌てて起き上がり時計を見ると朝の4時。母に何かあったのだろうか。颯太は白衣を着ながらPHSに出ると、それは木村先生からだった。


「神崎君、ごめんね。すぐに来れるかな?」


いつもの穏やかな声。颯太は急いでICUへ向かいながらPHSを切り仮眠室を飛び出した。木村先生の声は穏やかだったものの、早朝に呼び出された理由が気になり、心臓が早鐘を打つように脈打っている。


廊下を駆け抜けながら、母の顔が頭に浮かぶ。手術が無事に終わったとはいえ、術後のリスクがゼロではない。再解離や合併症の可能性――医者としての知識が、さまざまな最悪のシナリオを脳裏に描き出していた。


「大丈夫、大丈夫……木村先生がいる」



自分にそう言い聞かせながら、颯太はICUの自動ドアの前で足を止め、深呼吸を一つした。そして、扉が開くと、薄暗い照明の中で動き回るスタッフたちの姿が目に入った。


「木村先生、何かあったんですか?」



颯太が駆け寄ると、木村先生が母のベッドサイドで振り返った。


「神崎君、来てくれてありがとう。お母さんのバイタルは安定している。ただ、少し血圧が上下しているのが気になってね」



木村先生は母のモニターを指差しながら説明を続けた。

颯太が画面を見ると、収縮期血圧が少しずつ上下に揺れているのが分かった。心拍数や酸素飽和度には異常はないが、このわずかな変動が気になる。


「この血圧の変動、何かの前兆でしょうか?」



颯太は真剣な表情で尋ねる。

木村先生は頷きながら答えた。



「その可能性がある。今のところ、心膜腔や大動脈の周囲に新たな液体貯留は見られない。ただ、この時間に起きたのが気になって呼んだんだ。神崎君の目でも確認してほしいと思ってね」


颯太は母の顔をじっと見つめた。彼女の表情は穏やかで、人工呼吸器の音が規則的に響いている。だが、彼女を支えているモニターの小さな異常が、息子であり医者である彼を不安にさせる。


「念のため、エコーで心膜や大動脈周囲を確認します。モニターの変動だけで判断するのは危険です」



颯太はそう提案し、木村先生も短く頷いた。


「それがいい。看護師さん、エコーの準備をお願い」



木村先生の指示で看護師が迅速に動き始める。

準備が整い、プローブを母の胸部に当てると、モニターにリアルタイムで心臓とその周囲の画像が映し出された。颯太は目を凝らし、心膜腔や大動脈周囲に異常がないか慎重に観察する。


「心膜腔に液体の貯留はありません。人工血管の接合部も問題なさそうです。ただ……」



颯太が言葉を止めると、木村先生が画面を覗き込んだ。


「ただ?」



「弓部大動脈付近に少し血流の乱れが見られます。偽腔への逆流がごくわずかですが、発生している可能性があります」


木村先生は数秒間画面を注視し、冷静な声で言った。



「確かに少し気になるが、今すぐの危機ではなさそうだ。ただ、このまま放置すると問題が大きくなる可能性はある。血圧をさらに安定させるための治療を考えるべきだな」


「降圧薬の投与を少し調整してもいいかもしれません。収縮期血圧をもう少し低めに維持すれば、偽腔への負担を軽減できるはずです」



颯太は提案し、木村先生は満足そうに頷いた。


「そうだね。看護師さん、降圧薬の調整を始めてくれ」


看護師が動き出し、降圧薬の投与量が慎重に調整された。数分後、モニターに映る血圧の波形が徐々に安定していくのが確認できた。


「これで様子を見よう。神崎君、いい判断だった。ごめんね、安心して休むといい」



木村先生がそう言うと、颯太は母の顔を見つめながら小さく息を吐いた。


「ありがとうございます、木村先生。でも、もう少しだけここにいさせてください」



その言葉に木村先生は肩をすくめ、微笑みながら頷いた。颯太は小さく頷き、母の横でモニターの安定した波形を見つめながら、静かにその場に立ち続けた。


ICUの静けさの中、時間はゆっくりと流れていた。颯太はモニターの波形を見つめながら、母の安定した心拍を確認するたびに小さく息を吐き、安堵を感じていた。血圧の変動も降圧薬の調整で抑えられ、夜が深まるにつれて、モニターは穏やかな波形を保っていた。

隣で木村先生が看護師と軽く言葉を交わし、術後の経過について追加の指示を出している。その姿を見て、颯太は改めて感謝の気持ちを抱いた。


「母さん、ちゃんと安定してる……よかった」


心の中で静かに呟き、目を母の顔に向けた。人工呼吸器の規則的な音が微かに聞こえる中、母の表情は穏やかだった。まだ目を覚ますには時間がかかるだろうが、その顔を見ているだけで、少しだけ緊張がほぐれるような気がした。

時計の針が朝の6時を指した頃、木村先生が手をポンと颯太の肩に置いた。



「神崎君、このまま容体が安定すれば、大きな問題はないだろう」


颯太は小さく頷き、深く息を吸い込んだ。



「ありがとうございます。でも、これからも油断せずに見守ります」


「そうだね。でも、少し休んだほうがいい。今日は外来の仕事もあるんでしょう?」


木村先生が笑いながらそう言うと、颯太は苦笑いを浮かべた。


「はい……こんな日でも、仕事は待っていますから」


木村先生は肩をすくめるように笑いながら、モニターに目を向けた。



「患者は待ってくれない。それが医者の宿命だ。さあ、準備して行ってきなさい。僕も10時頃まではいるから」


颯太は母の顔をもう一度じっと見つめ、心の中で「すぐにまた来るから」と呟いた。そして、ICUを出て更衣室に向かい、白衣を整えた。


病院の廊下には、早朝の清涼な空気が漂っている。外来の診察室に向かう途中、颯太は胸の中で今日の予定を頭に浮かべていた。術後の母の容体を気にしつつも、外来の患者に集中する必要がある――それが医者としての責任だと自分に言い聞かせていた。


「おはようございます、神崎先生」



看護師が挨拶をしてくる。颯太は微笑みを返した。



「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


診察室に入ると、すでに朝の準備を終えたスタッフたちが待っていた。電子カルテが立ち上がり、最初の患者のリストが画面に表示されている。


「今日は午前中だけで10人以上の予約がありますね」



看護師が資料を確認しながら言う。颯太はスケジュールを見て軽く頷いた。



「分かりました。一人一人にしっかり対応していきましょう」


椅子に腰を下ろし、深呼吸を一つした。母の手術は終わったが、医師としての一日はこれから始まる。白衣の袖を整えながら、颯太は診察室のドアの向こうにいる患者たちの顔を思い浮かべた。


「よし、始めよう」



小さく呟き、颯太は次の仕事に集中するべく意識を切り替えた。


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