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第10話

手術室を出た颯太は、廊下を歩きながら無意識に拳を握りしめていた。母の手術が終わったという事実が頭では分かっているものの、心の中にはまだ不安と緊張が渦巻いている。すれ違うスタッフに挨拶をする余裕もなく、彼は一歩一歩を重く感じながら更衣室のドアを開けた。

ドアが閉まり、一人きりになると、緊張で張り詰めていた体から一気に力が抜けた。手袋を外した指先が震えているのが自分でも分かる。颯太はそのまま壁にもたれかかり、膝が崩れるようにして床に座り込んだ。


「はぁ……怖かった……」



その言葉が小さな声となって口からこぼれた。視線は床に向けられ、両手は力なく膝の上に投げ出されている。


「あの瞬間……もし判断を間違えていたら……」



脳裏に蘇るのは、手術中の危機的な状況の数々だ。偽腔の出血、心膜腔への血液漏れ、人工血管の設置の難しさ――すべてが母親の命を左右する瞬間だった。


「母さんを失うんじゃないかって……ずっと怖くてたまらなかった」



言葉を紡ぐたびに、目尻に熱いものがこみ上げてきた。彼の中に押し込められていた感情が、一気に溢れ出してくる。

颯太は拳を握りしめ、声にならない叫びを噛み殺すように唇を噛んだ。



「もし僕が失敗していたら……母さんは……」



想像するだけで胸が張り裂けそうになる。自分が医者として至らないせいで最愛の母を救えない――そんな恐怖が、手術中ずっと心の片隅に居座っていたのだ。いつだったか…夢でそんな夢を見たこともあった。


「でも……助かった……助けられたんだ……」



震える声でそう呟くと、頬を伝う涙が手術着を濡らす。彼は手のひらで顔を覆いながら、嗚咽を漏らした。

その時、ふと耳元に穏やかな声が響いた。



「颯太、お前はすごい。俺は自分の母親を前に冷静になることはできないはずだ」


振り返ると、真田先生が微笑みながら壁にもたれて立っていた。その表情は誇らしげで、優しさに満ちている。


「先生……」



颯太は涙を拭いながら、かすれた声で呟いた。


「お前が冷静に戦ったから、母親は救われたんだ。この経験を次に繋げるんだ。医者として成長するために」


真田先生の言葉が颯太の心に静かに染み渡った。涙で霞む視界の中、彼は深く息を吸い込み、少しだけ顔を上げた。


「ありがとうございます、先生」


真田先生は颯太の横にそっと座り、ただそれ以上は何も言わず、隣に座っていた。


颯太はひとしきり泣き、心の奥底に溜まっていた感情を吐き出した後、深く息を吐き出して立ち上がった。目元を袖で拭い、ロッカーから清潔な制服を取り出す。手早く着替えを済ませると、颯太は母が運ばれたICUに向かうため、静かに更衣室を後にした。


廊下を歩くたびに、手術中の場面がフラッシュバックのように蘇る。緊張の連続だった数時間が嘘のように静まり返った廊下。だが、まだ母の状態を自分の目で確かめるまでは、完全な安心感を得ることはできない。


ICUの扉が自動で開くと、目の前に見慣れた背中があった。木村先生が手術着のまま、母のバイタルモニターをじっと見つめていた。その横には看護師が控え、輸液や投薬の調整を行っている。


「木村先生……」


颯太が声をかけると、木村先生は振り返り、いつもの落ち着いた表情を見せた。


「ああ、神崎くん。少し休んでいるのかと思ったけど…大丈夫かい?」


木村先生の声には、わずかに労いの色が含まれている。


「はい。少しだけ、更衣室で休ませてもらいました。でも、どうしても母さんの様子が気になって……」


颯太は視線を母に向けた。モニターには安定した心拍と血圧が映し出されている。呼吸も人工呼吸器で安定しているようだ。


「母の状態はどうですか?」


颯太が緊張した面持ちで尋ねると、木村先生は短く頷いた。


「ああ、今のところ安定しているよ。血圧も脳血流も問題ないね。術後の出血や血栓の兆候も今のところ見られない。ただし、48時間は予断を許さないよね…。血管の再解離や臓器の血流障害が起こるリスクがあるから」


木村先生の説明に、颯太は真剣な表情で頷いた。


「ありがとうございます。木村先生がこうして管理してくださって、本当に感謝しています。」


木村先生はふっと息をつき、颯太の方を見た。


「僕はやるべきことをしただけだよ。でも、神崎君……今日の動きは見事だったね。手術中、何度も冷静さを失いそうになる場面があったはずだけど…それでも最後まで踏みとどまり、母親の命を救った。それは簡単なことじゃないよ。それに技術面も素晴らしかった」


颯太は驚いたように木村先生を見つめた。木村先生は普段からよく褒めてくれるがこんな風にまっすぐ褒められたのは久しぶりだった。


「ありがとうございます。でも……手術中は、何度も怖くて……僕が間違えたら木村先生の足を引っ張ると思って。母が助からないかもしれないって、その思いばかりでした」


木村先生は少しだけ口元を緩めた。


「その恐怖を乗り越えたからこそ、君は一回り大きくなった。医者としての成長には、こういう経験が必要なんだろうね」


颯太は静かに頷き、母の安らかな表情を見つめた。隣で心配そうに付き添う看護師たちの姿が目に入る。


「木村先生、僕もここで母の様子を見守らせてください。まだ落ち着かないので……」


そう言うと、木村先生は小さく笑った。


「うーん。いいけど、大丈夫?明日からはまた忙しくなるよ。母親だけではなく、他の患者も待っているし。少し仮眠室で休んできたら?何かあったら院内PHSで電話するから」


その言葉に、颯太は小さく微笑み、頷いた。


颯太は仮眠室の薄暗い静けさの中、ソファに体を沈めた。背中が柔らかいクッションに触れると、それだけで全身の疲労が一気に押し寄せてくるのを感じた。両手を持ち上げてみると、まだ微かに震えていた。その震えが、手術中の緊張がどれほど大きかったのかを物語っている。


「大丈夫……大丈夫……」



颯太は小さく呟きながら、拳を軽く握ったり開いたりしてみた。それでも完全には収まらない震えに、もう一度深呼吸をした。自分に言い聞かせるように、ゆっくりと目を閉じる。

暗闇の中、手術中の光景がまぶたの裏に浮かび上がる。偽腔の出血、大動脈弁の修復、人工心肺への切り替え――すべてが母の命を救うための戦いだった。颯太はその一つ一つを思い出し、胸に湧き上がる恐怖と達成感の入り混じった感情に向き合った。


「よくやった……助けられた……」



そう呟くと、心の奥底にあった焦りが少しだけ和らぐような気がした。

だが、その安堵の中にも不安が混じっている。手術は成功したが、母の回復が順調に進むとは限らない。術後の管理や予期せぬ合併症――医者として知識を持っているからこそ、考えずにはいられない。


「考えても仕方ない……今は休もう」



自分に言い聞かせるように、ソファの背もたれに頭を預ける。静かな仮眠室の空気が、少しずつ体を包み込んでいく。

その時、まるで心を見透かすような声が耳元で響いた。



「颯太、お前はよくやった」


目を開けると、目の前に真田先生が立っていた。淡い光に包まれた姿はどこか現実離れしていて、疲れ切った颯太の心に静かに染み渡る。


「先生……僕、大丈夫でしたか…?ちゃんと…動けてましたか…」



颯太はまるで子どものように問いかけた。その声には、母を救えたという確信と、それでも拭えない不安が混じっていた。

真田先生は優しく微笑み、颯太の隣に腰を下ろした。



「ああ。最高だった」


その言葉に、颯太は少しだけ肩の力を抜いた。



「でも、母がこの先どうなるのか……心配で……」


「心配するな。お前はすべてやり切った。あとは母親自身の力と、医療チームの助けに任せろ。今は、お前が休むことが一番だ」


真田先生はそう言いながら、颯太の肩にそっと手を置いた。その手の感触は不思議と温かく、颯太の心を包み込むようだった。


「分かりました……少しだけ休みます」



颯太はそう答え、再び目を閉じた。仮眠室の静けさが心に染み渡り、緊張で固まっていた体が少しずつ解けていく。真田先生の姿が次第に霞んでいく中、颯太はようやく眠りに落ちた。

その夢の中で、母が微笑みながら「ありがとう」と言う姿を、彼はぼんやりと見ていた。


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