手術室の緊張感はピークを迎えつつも、徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。弓部大動脈の修復を終えた木村先生は、人工心肺からの離脱準備を指示するため、看護師たちに短く声をかけた。
「心臓を再稼働させる準備。全員、モニターを注意して」
人工心肺装置が規則正しく動作し続ける中、スタッフたちは心臓の再始動に向けた作業を迅速に進めた。血流の切り替えは、少しのズレも許されない。モニターの波形が細かく調整され、血圧と脈拍が微調整される。
「心筋保護液の排出を開始。温水を注入し、心臓温度を正常に戻す」
木村先生の声が室内に響き渡り、看護師が素早く準備を進めた。温水が注入されると、冷たく静止していた心臓の色が徐々に変化し始める。
「全員、心拍再開に備えて」
木村先生が鋭い声で指示を出す。颯太は緊張で固くなりそうな自分を戒めながら、手元に集中した。
「心臓の再始動は……」
看護師の声が途切れる。その瞬間、静止していた心臓が微かに動き始めた。最初は小さな痙攣のような動きだったが、徐々に強さを増し、規則的な鼓動が確認される。
「心拍再開しました!血圧も安定しています!」
看護師が報告し、モニターの波形が正常に戻る。
しかし、木村先生は一瞬も油断せず、鋭い目つきで心臓の動きを観察した。
「まだ気を抜けないよ。大動脈の接合部と弁の機能を確認しよう」
颯太も同じように手元に目を落とし、心臓の動きを注視した。人工血管の接合部は問題なく機能しているように見えたが、心臓全体の動きに微妙な違和感を感じ取った。
ほんのわずかな、違和感だ。
「木村先生……少し心拍が弱い気がします」
颯太が低い声で告げると、木村先生も表情を引き締めた。
「確かに。心筋の動きが完全ではないね。おそらく心膜腔の圧迫が影響している可能性があるね」
その言葉に、颯太はすぐに心膜腔を観察した。すると、わずかだが液体が再び溜まり始めているのを発見した。
「心膜腔に血液が少量残っています!心タンポナーデのリスクがあります!」
颯太が指摘すると、木村先生がすぐに指示を飛ばした。
「心膜腔ドレナージを再度行おう!液体を完全に排出して、心臓への負担を軽減!」
颯太は再び自分の心臓が高鳴るのを抑えるように深呼吸をして、ドレナージ用のチューブを挿入し、心膜腔内の液体を排出する作業を始めた。慎重に動かしながら、液体がスムーズに流れ出ていくのを確認する。
「ドレナージ完了。液体の残量なし。心膜腔内、クリアです」
颯太が報告すると、木村先生が再び心臓の動きを観察した。
「よし、心拍が安定した。これで心臓の機能が完全に戻った」
真田先生が微かに笑いながら颯太に囁く。
「いいぞ、颯太。お前の判断が母親の命を救ったな!」
颯太は小さく息を吐き、緊張で固くなっていた肩の力を少しだけ抜いた。手術室の中には、ようやく静かな安堵が広がりつつあった。
「大動脈の接合部、弁機能ともに問題なし。これで手術は終了」
木村先生の声が響き、スタッフたちが静かに喜びを分かち合うように頷き合った。
颯太は母親の顔を思い浮かべながら、心の中で呟いた。
「母さん……乗り越えたよ」
手術室の中には、ようやく静かな安堵が広がり始めていた。大動脈解離の修復手術はすべての工程を終え、母親の心臓は再び正常な鼓動を刻み始めている。人工心肺からの離脱も順調に進み、モニターの波形は安定を示していた。
木村先生が深く息をつき、颯太に目を向けた。
「これで手術は完了だね。胸を閉じよう」
颯太はその言葉に力強く頷き、目の前の母の姿をみつめる。全身を包む疲労感はあったものの、それ以上に達成感と母親を救えたという安堵が胸を満たしていた。
「胸骨を元に戻す。ワイヤーを準備して」
木村先生が指示を出し、看護師が迅速にワイヤーを渡した。胸骨を固定するためのステンレスワイヤーを慎重に扱いながら、胸骨を元の位置に戻していく。
「左右対称に固定。力を均等に分散させるよ」
木村先生の指示に従い、颯太も補助を行う。胸骨が正確に整列するように調整しながら、ワイヤーを適切な位置に締めていく。その作業は地道で繊細だったが、一つ一つが確実に進められた。
「よし、胸骨の固定は完了。次に筋層と皮膚を閉じよう」
木村先生がメスを置き、縫合用の針と糸を手に取った。筋層を丁寧に縫い合わせながら、皮下組織へと作業を進める。
颯太も手元を見つめながら、補助的な作業を進めていた。その時、真田先生の声が耳元で響いた。
「颯太、最後まで気を抜くな。ここでの細かい作業が術後の回復に大きな影響を与えるからな」
「はい、分かっています」
颯太は静かに答え、手元にさらに意識を集中させた。
「皮膚の縫合に入る」
木村先生が最後の指示を出し、皮膚を閉じる作業が始まった。縫合針が皮膚を通るたびに、少しずつ手術の終わりが近づいているのを感じる。看護師たちも手際よくサポートを続け、縫合は順調に進んでいった。
「これで皮膚の縫合も完了だ。ドレーンの固定も確認」
看護師が頷き、ドレーンが適切に固定されていることを再確認する。すべてが終わると、木村先生が短く息をつきながら言った。
「手術は終了。みんな、お疲れ様」
颯太は手袋を外しながら母の顔を見つめた。まだ麻酔が効いているため眠っているが、その表情はどこか安らいでいるように見えた。
真田先生が満足そうに微笑み、颯太の肩を軽く叩いた。
「よくやったな、颯太。お前がいなければ、この手術は成功しなかったかもしれない」
「ありがとうございます、先生……」
颯太は真田先生に小さく頭を下げ、胸の中で静かに感謝の言葉を呟いた。
手術台の上の母親の命が、確実に繋がっている――その事実が、何よりの報酬だった。
手術が無事に終わり、麻酔が効いたままの母親が看護師たちの手で慎重に手術台からストレッチャーに移される。心電図モニターやドレーンが付けられた状態のまま、母親の体は安定しているように見えたが、颯太の胸にはまだ安堵しきれない緊張が残っていた。
「ICUに運ぼう」
木村先生が短く指示を出し、看護師たちが動き出す。ストレッチャーの周囲には、輸液やドレーン、モニター機器を持ったスタッフが付き添い、慎重に廊下へと運び出されていく。
颯太は手袋を外しながら、そっと母の顔を見つめた。まだ目を閉じて眠るような表情だが、胸が穏やかに上下しているのを見て、その命が繋がっていることを実感する。
「母さん……よかった…」
小さく呟き、ストレッチャーが手術室を出ていくのを見送る。扉が閉まる瞬間まで、その後ろ姿を目で追っていた。
ストレッチャーが完全に見えなくなると、手術室内は一瞬の静寂に包まれた。スタッフたちがそれぞれの持ち場を整えながら、ようやく肩の力を抜き始めていた。
颯太は深く息を吐き、木村先生や周囲のスタッフたちを見渡した。その目には感謝の思いが宿っている。
「皆さん、本当にありがとうございました!」
颯太は深々と頭を下げた。颯太が手術以外で大きな声で頭を下げるのは初めてのことだ。その姿に、スタッフの一人が微笑みながら言った。
「神崎先生、お疲れ様でした。大変な手術でしたが、無事に終わって本当によかったですね」
別の看護師も続けて声をかける。
「お母様の回復を心からお祈りしています。神崎先生も少し休んでくださいね」
木村先生は腕を組みながら軽く頷いた。
「神崎くん、本当によくやったね。身内の…それも、自分の母親の手術に入るのは相当なプレッシャーだったはずだよ。最後まで冷静に処置をしていたね。胸を張っていい」
「ありがとうございます、木村先生」
颯太は再び頭を下げた。その声には疲労感の中にも確かな達成感が滲んでいた。
手術室の片隅で、真田先生が満足そうに笑いながら颯太を見ていた。
「颯太。日々の努力の成果が出ていたな。体力、技術…それに精神力。素晴らしかったぞ。しかし、全身管理も含めて、これからが第二ラウンドだ。気を引き締めていこう」
颯太はその声に心の中で静かに応えた。
「先生…ありがとうございます」
母親を救うための長い戦いは、確かに大きな山場を越えた。だが、これから始まる術後の管理や母親自身の回復を見届けるまで、彼の使命は続いていくのだ。
颯太は最後に深く息を吸い、静かに手術室を後にした。