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第8話

「よし、大動脈弁の評価に入ろう」


木村先生の低く冷静な声が手術室に響いた。人工心肺が規則的に血液を循環させる音が耳に残る中、颯太は改めて手元に意識を集中させた。母の命を繋ぐ次の重要なステップが始まる。


「大動脈弁の状態を確認するよ。弁逆流がどれほど進行しているか…」


木村先生が慎重に大動脈弁を露出させ、その構造を観察した。


「弁尖が肥厚している。弁の形状が著しく変形しているね。これでは完全な閉鎖ができず、大量の逆流が起きるのも当然だな」


木村先生の声にはわずかに緊張が滲んでいた。

颯太は弁の状態を確認しながら、小さく息を飲んだ。


「大動脈弁の再形成が必要ですね。弁の支持組織が損傷しています……弁尖を修復するか、場合によっては弁付き人工血管への置換が必要です」


「そうだね。だがまず、弁尖の形状を整える。再形成で対応できる可能性を探ろう」


木村先生が短く指示を出し、再形成の準備に入った。

颯太は指示に従い、弁尖の縫合を補助した。弁尖を適切な位置に戻す作業は細かく、極めて慎重な技術が求められる。しかし、その時だった。


「弁尖の一部が裂けています。これ以上の再形成は難しいかもしれません!」


颯太が声を上げた瞬間、木村先生が手を止めて弁を注視した。


「これは……弁付き人工血管に置換するべきだな。だが時間がない。迅速に準備しよう!神崎くん、素晴らしい観察力だよ」


看護師たちが動き始める中、真田先生の声が耳元に響いた。


「颯太、ここが勝負だ。木村先生の指示通りに動くだけじゃなく、お前自身の目と判断力を信じろ。母親を救えるのはお前たちだけだ」


「分かりました……!」


颯太は自分を鼓舞し、人工血管の準備に取り掛かった。

人工血管を設置し始めたその時、再びモニターがアラームを鳴らした。


「心膜腔に圧力が高まっています!出血が再発している可能性あり!」


看護師の声に、木村先生が鋭く振り向いた。


「神崎くん!心膜の確認を急げ!」


颯太はメスを手に取り、心膜を慎重に観察する。そこには微量だが出血が確認できた。


「心膜からの漏れがあります。補強が必要です!」


木村先生が即座に指示を出す。


「縫合補強を行う。君が対応してくれ!」


颯太は焦る気持ちを抑え、縫合の準備を進めた。だが、手元が震える。母親を助けたいという思いが彼の冷静さを乱しているのを、自分でも感じていた。

母親の命が自分の手の中にある。


「落ち着け、颯太。深呼吸だ。お前ならできる。大丈夫だ」


真田先生が優しく励ますように声をかけた。

颯太は深く息を吸い込んだ。そして、血管壁を補強しながら確実に縫合を進める。血液の漏れが徐々に収まり、モニターの波形が再び安定した。


「縫合完了です!出血はありません!」


颯太が報告すると、木村先生が短く頷いた。


「よし、人工血管の設置を続けよう。これで大動脈弁逆流も解消されるはずだ」


颯太は真田先生の方をちらりと見た。真田先生は誇らしげに微笑み、軽く頷いていた。


「よくやったな、颯太」


母親の心臓が再び正常な機能を取り戻すための準備が整いつつあった。颯太は手元に視線を戻し、次の工程に集中するべく意識を切り替えた。


「次に弓部大動脈への対応にうつる」


木村先生の声が手術室に響く。人工血管の置換が完了し、大動脈弁逆流も修復されたが、弓部大動脈への影響を無視するわけにはいかない。解離が弓部に及んでいる以上、脳への血流を守らなければならない。


「選択的脳灌流を実施する」


木村先生が即座に指示を出すと、看護師たちが準備を進めた。颯太は緊張感を感じながらも、脳灌流のプロセスに集中する。弓部の主要動脈がすべて脳に繋がっているため、この作業の精密さが脳保護の鍵を握る。


「右総頚動脈にカニュレーションを行う」


木村先生が指示を出すと、颯太はすぐに動いた。メスを手に取り、右総頚動脈を露出させる。細い血管を扱う作業は緊張を伴うが、颯太の手は驚くほど安定していた。


「カニューレを挿入」


颯太がカニューレを挿入し、人工心肺からの血流が右総頚動脈を通じて脳に送られるように調整する。モニターに表示された脳の血流量が安定するのを確認し、木村先生が短く頷いた。


「次に左総頚動脈だ」


木村先生の指示に従い、颯太が慎重に作業を進めた。左総頚動脈にカニュレーションを行い、血流を確保する。さらに、脳保護を強化するために左鎖骨下動脈へのカニュレーションも追加する。


「全ての脳への血流が安定しています」


看護師が報告すると、木村先生が一息つきながら指示を続けた。


「体温をさらに低下させる。深部低体温に移行しよう」


体温を低下させることで、脳の代謝を抑え、血流が一時的に途絶えた場合の損傷を最小限に抑える役割がある。この処置は命を守る最後の砦となるのだ。


「体温32度まで低下確認」


スタッフの報告に、木村先生は深く頷いた。

しかし、その時またしても想定外の事態が起きた。


「右総頚動脈のカニュレーション部位で血流が不安定です!流量が低下しています!」


看護師の声に、木村先生が即座にモニターを確認した。


「カニューレの角度が変わっている可能性がある。調整が必要だ」


木村先生が動こうとしたその瞬間、真田先生が颯太に向けて囁いた。


「颯太、ここはお前がやれ。細かい調整が必要だが、お前ならできる」


「はい。……僕がやります」


颯太は勇気を振り絞り、右総頚動脈のカニュレーション部位に手を伸ばした。心臓の鼓動は止まったままだが、彼の心の中で血流のイメージがはっきりと浮かび上がる。


「カニューレを少し手前に引き、角度を変えます……流量を確認してください!」


颯太が調整を行うと、モニター上で脳血流量が徐々に回復する。


「脳血流、安定しました!」


看護師の報告に、木村先生が目を丸くして颯太を見つめ、短く頷いた。


「すごいよ。神崎くん。よくやった。これで脳への血流が保たれた。次に進もう」


真田先生が横で小さく笑い、低く呟いた。


「いいぞ。これで母親の脳を守る準備は整った。あとはこの勢いで最後まで乗り切れ」


颯太は真田先生の言葉に小さく頷きながら、次の工程に備えるべく視線を再び手元に戻した。

木村先生が深く息を吸い込み、視線を手元に戻した。


「脳血流が安定した、弓部大動脈の解離部分を修復する。次が手術の最難関だ」


弓部大動脈は複数の動脈が脳と腕へ分岐している要所だ。この領域での作業には、繊細な技術と的確な判断が求められる。颯太も木村先生の隣で身を正し、手元に集中する。


「解離の境界を明確にしよう。偽腔と真腔を見分け、どちらが機能しているかを確認しなくては」


木村先生が低い声で指示を出す。颯太はメスを手に、弓部の解離部分を慎重に露出させた。裂けた大動脈が鮮明に視界に入る。


「木村先生、ここです。偽腔が弓部の起点付近で拡張しています。真腔がほとんど圧迫されています」


颯太が報告すると、木村先生が真腔に沿って指を動かした。


「ここを基準に人工血管を設置する。弓部の動脈を一時的に遮断してから作業に入ろう」


「分岐動脈の遮断準備完了!」


看護師の声が響き渡り、人工心肺装置がさらに調整される。弓部の動脈から一時的に血流を遮断することで、修復作業の安全性を確保するのだ。


「人工血管を持ってきて」


木村先生が命じると、看護師が慎重に人工血管を手渡した。解離部分を完全に切除し、人工血管で置換する準備が進められる。

しかし、ここでまたしても予想外の事態が起きた。


「弓部の分岐動脈近くで新たな出血が確認されました!」


看護師の報告に、木村先生の顔が緊張で引き締まった。


「出血箇所を特定して!」


颯太がすぐに動き、視線を凝らすと、分岐動脈の基部付近に出血が見られた。血管壁が脆弱になり、圧力に耐えきれず破れたのだ。


「止血ガーゼを!」


颯太が叫び、素早く手を伸ばして出血部位を押さえた。木村先生がサポートに入るが、出血量が多く、手元が見えづらい状況が続く。


「このままでは止血できません……補強材を追加すべきです!」


颯太が提案すると、木村先生が短く頷いた。


「そうだね。準備しよう!」


看護師が補強材を用意し、颯太は木村先生と連携しながら破れた部分を補強するように縫合を進めた。血液が滲む中、縫合針が正確に進むたび、モニターの波形が少しずつ安定していく。


「止血完了。血流が安定しています!」


看護師が報告し、室内に一瞬安堵の空気が広がった。


「よし、人工血管の設置に戻ろう」


木村先生が改めて指示を出し、弓部大動脈の人工血管置換が再開された。颯太も補助作業に全力を尽くし、真田先生が背後から囁く。


「よくやった。山場を越えたな。だが、まだ気を抜くな。この作業を完璧に終えなければ、すべてが無駄になる」


「はい」


颯太は静かに答え、手元に視線を戻した。人工血管が適切な位置に設置され、弓部の修復が確実に進んでいく。分岐動脈の接合も無事に終わり、モニターの波形が安定した状態を維持していた。

木村先生が手を止め、短く息を吐いた。


「これで弓部大動脈の修復は完了だ。人工心肺からの離脱準備に入ろう」


颯太は深く息を吸い込みながら、胸の中に湧き上がる安堵を感じた。だが、次の瞬間にはそれを押し込み、再び手術台に集中する。母の命を救うための戦いは、まだ終わっていない。


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