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第7話

颯太は手術着に袖を通しながら、深く息を吐き出した。これから挑むのは、母親の命を救うための一世一代の手術だ。これまで経験したどの手術よりも重い責任が、彼の肩にのしかかっている。


「神崎くん、準備はいいかい?」


木村先生が横に立ち、手術用のキャップをかぶりながら静かに声をかける。その表情はいつも通りにこやかだが、その奥には緊張感が滲んでいる。


「はい。必ずやり遂げます」


颯太は力強く頷き、自分を奮い立たせるように拳を握った。


「そうだね。君なら大丈夫だと信じてるよ。第一執刀医としての判断はすべて僕が下すことになるけど、君には全力で支えてもらうよ」


木村先生の言葉には、期待と信頼が込められている。

手術室の自動ドアが開き、清潔な白い光が颯太の視界に広がった。中に足を踏み入れると、そこにはすでに準備を終えた看護師や麻酔科医たちが待機していた。手術台の上では母親が静かに横たわり、全身麻酔が施されている。

颯太は母親の顔に視線を落とし、一瞬だけ立ち止まった。


「母さん……絶対に助けるから」


胸の中でそう誓うと、強い意志を込めて手術台に近づいた。

ふと視線を上げると、真田先生がいつの間にか隣に立っていた。手術着こそ着ていないが、厳しい表情で颯太を見つめている。


「颯太。お前の知識と技術をすべて出し切れ。俺もいるから、安心して集中しろ」


真田先生の言葉に、颯太は静かに頷いた。


「心臓血流停止の準備、進んでいます!」


看護師の報告が響き渡り、手術室内に緊張感が一気に高まった。人工心肺装置の作動確認が行われ、モニターには母親の脈拍や酸素飽和度が表示されている。

木村先生が手を挙げ、全員の視線を集めた。


「では、始めよう。人工心肺の装着と低体温循環停止の準備を進める」


その声に応えるように、スタッフたちが一斉に動き出した。颯太は手術台の横に立ち、自分の役割を頭の中で整理する。真田先生がそっと囁く。


「冷静に。この手術は時間との勝負だ」


颯太は頷き、メスを手にする。手術室の中は完全に集中力の場となり、すべてが彼らの技術と判断力にかかっていた。

手術室内は緊張感に満ちていた。スタッフたちは一瞬の無駄もなく動いている。


「胸骨正中切開に入る」


木村先生の厳かな声が響く。

颯太は深く息を吸い、手元に意識を集中させた。木村先生がメスを手に取り、胸骨の中心に正確に切開を入れる。皮膚、皮下組織、胸筋が慎重に切り開かれ、胸骨が露わになる。


「胸骨鉗子」


木村先生が指示を出すと、看護師が素早く鉗子を手渡す。鉗子を胸骨の切開部に挿入し、徐々に胸骨を広げると、胸腔内が視界に広がった。心臓が薄い膜に覆われてわずかに動いているのが見える。


「心膜を切開する」


木村先生は鋭い眼差しで心膜の位置を確認し、さらに慎重に切り進める。膜を切り開き、心臓が完全に露出した。颯太はその動きを食い入るように見つめながら、呼吸を整えた。


「次は人工心肺を装着する準備に入る。右大腿動脈と右房にカニュレーションだ」


木村先生が指示を出すと、スタッフたちはすばやく動き始めた。


「大腿動脈を露出するぞ」


木村先生の指示に従い、颯太はメスを持つ。右大腿部の皮膚を切開し、周囲の組織を注意深く剥離して動脈を露出させる。血管鉗子を慎重に動脈に挿入し、出血を最小限に抑えながらカニューレを装着する。


「血流確認、問題なし」


スタッフの報告に、木村先生が短く頷いた。

次に、右心房にカニュレーションを行う準備に移る。


「右房カニュレーション。少しでもズレると血流が不安定になる。慎重に行こう」


木村先生の指示を受け、颯太は慎重に心房の壁を切開し、カニューレを挿入する。手元が震えないように意識を集中しながら、一連の動作を正確にこなした。


「よし、人工心肺を稼働させよう」


木村先生が指示を出し、スタッフが人工心肺装置を作動させる。モニターに新たな波形が映し出され、血液が装置を通じて循環し始めた。


「全身血流、安定。心臓停止の準備に入る」


人工心肺による循環が安定すると、心筋保護液が心臓に注入され、心臓が徐々に静止していった。室内は緊張感を保ちながらも、一瞬の静けさが訪れる。

真田先生が颯太の横で静かに囁いた。


「いいぞ、颯太。ここまでは順調だ。この調子で行け」


颯太は小さく頷き、再び手術台に視線を戻した。母親の心臓は止まったが、人工心肺がその命を繋いでいる。この状況が、自分たちの技術と判断力にすべてがかかっていることを改めて実感する。


「次に進むよ。解離部分を露出」


木村先生の言葉が、次の工程の始まりを告げた。

心臓が完全に静止し、人工心肺が全身への血流を担っている状況の中、木村先生が鋭い声で指示を出した。


「解離部分の露出に入る。心臓を持ち上げる準備を」


颯太は緊張感を抱えながらメスを持ち、木村先生の指示に従って解離部分の露出を手伝った。心臓を慎重に持ち上げ、裂けた大動脈が視界に入るようにする。偽腔と真腔がはっきりと区別できる状態になると、颯太の胸に冷たい汗が流れた。


「思った以上に範囲が広いですね……」


颯太は低い声で呟いた。

木村先生が短く頷き、指先で偽腔の拡張部分を指し示す。


「上行大動脈全体に加えて、弓部の一部まで解離が進行している。これでは脳への血流も脅かされている可能性が高い」


そのとき、看護師がモニターを確認しながら声を上げた。


「血圧が不安定です!人工心肺の流量を調整します」


真田先生が後ろで厳しい表情を浮かべた。


「神崎くん、ここが正念場だ。解離範囲が広がっている場合、偽腔の拡張を放置するとすべてが台無しになる。迅速に動こう!」


木村先生は鋭く声を飛ばした。


「まずは偽腔への血流を遮断する。結紮用の糸を!」


颯太は冷静さを保とうと努めながら、結紮用の糸を木村先生に手渡した。だがその瞬間、偽腔から突然わずかな出血が起こった。


「出血です!」


看護師が叫ぶ。偽腔の壁が薄くなりすぎており、裂け目が広がってしまったのだ。


「止血ガーゼを!」


木村先生が叫び、颯太がすぐにガーゼを取り出し、出血部分を押さえる。だが、血液がわずかに滲み出てくる。


「これ以上裂けたら危険だ……!」


木村先生の表情に一瞬の緊張が走る。

そのとき、真田先生が颯太に囁くように言った。


「颯太、大丈夫だ。ここでお前の技術が試される。偽腔の縫合を木村先生と連携してやれ。冷静にいけ。お前ならできる」


「はい!」


颯太は大きく息を吸い込み、縫合用の糸を手に取った。木村先生の動きに合わせながら、偽腔の裂け目を慎重に縫い合わせていく。

それはこれまでのどの手術よりも正確で素早い。その動きを見て思わず真田先生が笑ってしまうほどに。


「縫合完了!」


颯太が声を上げると、モニターの波形が徐々に安定するのが見えた。


「いいね。その調子だよ!」


木村先生が声をかけ、再び指示を飛ばす。


「次に真腔を確認!周囲の大動脈を整えて、人工血管の設置準備に入るよ!」


颯太は汗を拭う間もなく、次のステップに備えた。想定外の事態を乗り越えた手応えを感じつつも、さらなる緊張が胸を押し上げてくる。

真田先生が再び低く囁いた。


「颯太、まだ気を抜くな。この手術は始まったばかりだ」


颯太は小さく頷き、視線を再び裂けた大動脈に向けた。


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