救急車のサイレンが響き渡る中、颯太は母の手を握りしめ、旭光総合病院へ急行した。母は目を閉じたまま荒い呼吸を続けている。意識はあるものの、痛みが彼女の体力を削っているのが明らかだった。
「母さん、もう少しだよ。もうすぐ到着するから」
颯太はそう声をかけるが、胸の中では焦燥感が膨れ上がる。時間との戦いだ。それを痛感していた。
やがて救急車は旭光総合病院の救急搬入口に滑り込み、ドアが開く。担架が降ろされると同時に、颯太は外で待っていた木村先生の姿を見つけた。木村先生はすでに手術着に着替えて待機してくれていた。
「木村先生!」
颯太は駆け寄りながら、担架を押す救急隊員たちと並んで足を早める。
「神崎君、大丈夫。すぐに検査にいけるよ。まずは状況を報告してくれるかな」
木村先生の冷静な声に、颯太は息を整えながら説明を始めた。
「今朝、母が腰と肩の痛みを訴えていました。ただ、そのときは動けていたので軽い疲れかと思い、注意していませんでした。午後、墓地でバッグを拾おうと前かがみになった際、突然背中から肩、腰にかけて激しい痛みを訴えました」
木村先生は鋭い視線を向けながら頷く。颯太はさらに続けた。
「呼吸も荒く、冷や汗をかいていて、脈拍は速くて弱い状態でした。痛みは10段階で10と答えています。おそらく大動脈解離だと判断し、救急車を呼びました」
「そうか、よく対応したね。今の状態は?」
「搬送中も痛みは続いており、冷や汗と青白い顔色は変わりません。意識はかろうじて保っていますが、痛みでほとんど話せていません」
木村先生は母の顔を見つめながら、短く指示を出した。
「CT室に直行しよう。伝えてあるからね。まずは画像を撮って状態を確認しよう!」
颯太も母の担架に手を添えながら、医療スタッフと共に病院内へと駆け込む。木村先生が周囲のスタッフに向けて的確に指示を飛ばす声が響く中、颯太は母の手を握りしめたまま、深呼吸をして冷静さを取り戻した。
「母さん、病院についたからね」
母親のまつげが微かに動き、弱々しいながらも頷くのが見えた。
手術の準備が整うまで、母の命をつなぎ止める――その思いで、颯太は力強く母の手を握り続けた。
母が担架ごとCT室に運ばれ、検査が開始された。颯太はガラス越しに見守りながら、木村先生の横に立つ。彼の心臓は早鐘のように鳴っていたが、木村先生の存在が颯太の焦燥感を少しだけ和らげていた。
数分後、CTの画像が画面に表示されると、木村先生は素早く画像をチェックし始めた。
「手術室の準備を!」
木村先生が看護師に指示を飛ばす。画面に映し出された画像を見ながら、木村先生が低い声で言った。
「見事に典型的な……大動脈解離。スタンフォードA型」
颯太も画面に目を向ける。そこには、大動脈の内膜が裂けている様子が鮮明に映し出されていた。
CT画像がモニターに映し出され、木村先生は鋭い目で画像を確認した。
颯太も画面に視線を向けると、そこには裂けた大動脈の様子が鮮明に映し出されていた。上行大動脈の内膜が裂け、その裂け目により偽腔が形成されている。真腔は圧迫されて著しく狭窄し、血流が阻害されているのが一目で分かった。
「上行大動脈から大動脈弓まで解離が広がっている。偽腔が大きく膨張していて、真腔が圧迫されている状態だ」
木村先生の指先が画像の特定の部分を指し示す。
さらに画像を拡大すると、偽腔には明らかに血流が流れ込んでおり、薄くなった血管壁が今にも破裂しそうに見える。
「大動脈弁の逆流も始まっているな。おそらく大動脈弁の機能が損なわれ、心臓に負担がかかっているはずだ」
木村先生の声には緊張が滲んでいる。颯太も喉を鳴らしながら次々と症状を読み取った。
「心膜腔に液体が貯留しています。出血が心膜に漏れている可能性が高いですね。心タンポナーデに進行する危険性もあります」
心膜腔に貯留した液体は、心臓を圧迫し始めており、心臓の収縮機能が著しく低下する心タンポナーデを引き起こす兆候が見られた。さらに画像を下方にスライドさせると、腹部大動脈の偽腔拡張も確認された。
「腹部の血流も危険だ。腎動脈の周囲で偽腔が広がっている。腎臓や腸間膜動脈の血流が阻害されている可能性があるな」
木村先生の指摘に、颯太は小さく頷いた。隣にいる真田先生もぶつぶつと所見をつぶやいていて、颯太もそれに頷きながらひろいあげる。
「それに…臓器への血流が低下している兆候があります。これ以上進行すれば、多臓器不全のリスクが高いです……」
二人の間に一瞬の沈黙が流れる。画像に映る解離の範囲と重症度が、母の命が危機的状況にあることを示していた。木村先生は鋭い目つきのまま、画面から顔を上げた。
「すぐに手術だ。この状態では、手術以外に助ける方法はない。チームを整えて対応に入ろう」
颯太は深く息を吸い込み、母を救うために医師として、そして息子として何をすべきかを考えた。木村先生が画像から視線を外し、手術室の方向に顔を向けた。
「神崎くん、この状態を見た通り、君のお母さんはスタンフォードA型の大動脈解離だ。大動脈弁逆流も起きているし、心膜腔への出血がある。このままでは心タンポナーデで心停止を起こすのは時間の問題だ」
「はい。すぐに上行大動脈を置換する術式が必要ですね。弓部まで解離が広がっていますから、脳への血流も確保しなければなりません」
颯太は冷静さを装って答えたが、内心では緊張が高まっていた。これほど大きな解離の手術が、母親にどれほどのリスクを伴うかを熟知しているからだ。
木村先生が短く頷き、手術の具体的な方法について話し始める。
「まず、人工心肺を使用する。心臓を一時停止させて上行大動脈を完全に取り替える。今回は人工血管で置換する方法を取る。ただし、大動脈弁逆流が重度ならば、大動脈弁を再形成するか、弁付き人工血管での置換も検討する必要がある」
颯太は即座に応じる。
「脳保護のため、選択的脳灌流も併用するべきです。弓部への影響が見られる以上、脳虚血のリスクを最小限に抑える必要があります」
木村先生は颯太の提案に満足そうに頷く。
「そうだね。脳保護を徹底しながら、迅速に置換を進めよう。できるだけ体温を低下させて、全身保護を図る必要もあるから」
その時、颯太の耳元に真田先生の声が聞こえてきた。
「颯太、もう一つ追加で提案しておけ。このケースなら、偽腔の血流も確実に遮断しないと再解離のリスクが高い。人工血管の設置後、偽腔の流入部位を縫合しておくことを提案しろ」
颯太は一瞬戸惑いながらも、真田先生の意見を思い切って口にした。
「木村先生、人工血管の設置後、偽腔への血流を遮断するため、流入部位を縫合する方法も加えるべきではないでしょうか?」
木村先生が少し驚いた表情を見せるが、すぐに目を細めて考え込む。
「確かにその通りだ。偽腔の拡張が進めば再解離の可能性が高まる。時間はかかるが、それを実行しよう」
真田先生が後ろで微笑みながら呟く。
「よし、いいぞ颯太」
颯太は内心で真田先生に感謝しつつ、木村先生の指示を待つ。
「では決まり。人工心肺を準備し、体温を低下させた上で上行大動脈の置換、弁逆流の処置、さらに偽腔の流入部位の縫合を行う。弓部への対応も状況を見ながら進めよう」
木村先生の声が厳かに響き渡る中、颯太は自分の中で覚悟を固めた。この手術が母親の命を繋ぐための最後のチャンスなのだ。
意を決したように深呼吸をし、颯太は木村先生の横に歩み寄った。
「木村先生……僕も、この手術に入らせてください」
木村先生の動きが一瞬止まり、厳しい目つきで颯太を見つめた。その視線には、彼の決意を見抜こうとする力が宿っていた。
「神崎くん、君が医者である以上、この状況でそう要求をしてくる気持ちは分かる。でも、患者は君の母親だ。身内の手術には入れないのが決まりだろう?」
木村先生の声には、少し苛立ちが滲んでいる。手術まで時間の猶予がないのだ。
「分かっています。でも、僕も力になりたいんです!」
颯太の声には必死さが込められている。
「颯太くん、君は冷静だと思っていたけど、これは感情的になっているだけじゃないのかい?」
木村先生は腕を組みながら低い声で続けた。
「君が手術に入れば、最悪の場合、判断が鈍る可能性がある。医者として、それがどれだけ危険か理解しているだろう?鷹野先生の…あの時のことを忘れたわけじゃないよね?」
その言葉に、颯太は一瞬詰まったが、すぐに真っ直ぐ木村先生を見据えた。
「確かに僕は母を救いたいという気持ちでいっぱいです。でも、足手まといにならないように、少しでも助けになる自信があります。それに……母は僕がここにいることで安心できるはずです!」
木村先生は溜息をつき、少し間を置いてから呟いた。
「分かってるかい?この手術は君の母親の命を左右するだけじゃない。君自身の医師としての評価やキャリアにも影響を与えることになるよ」
その瞬間、颯太の耳元に真田先生の声が聞こえた。
「颯太。感情的になるな。ただし、もっと冷静に自分が必要な理由を説明しろ。お前が医者として冷静に戦えることを、ちゃんと証明するんだ」
颯太は深く息を吸い込み、さらに強い声で続けた。
「木村先生、僕は冷静にこの手術に臨むつもりです。母を助けたいという思いはもちろんありますが、それ以上に、この大動脈解離の手術において、僕の知識と技術が必要だと信じています!僕は大学時代、海外にいた時も大動脈解離の手術に携わりました。私情をさしおいても、僕でも役に立てると思います!どうか、お願いします」
颯太が深く深く頭を下げる。
木村先生は再び鋭い目で颯太を見つめたが、その奥には少しの迷いが見えた。
「…神崎君、本当に冷静でいられる自信があるのかい?一度でも取り乱したら、その瞬間に手術室から外すからね。それでもいいね?」
「はい。その覚悟はできています!」
颯太の力強い声が木村先生の心に響いたのか、彼は短く息を吐き、微かに頷いた。
「分かった。君をセカンド助手として手術に入れる。ただし、感情に流されるようなら、すぐに外すからね。問答無用だ。それを肝に銘じておきなさい」
「ありがとうございます!」
颯太は深く頭を下げ、目に浮かぶ涙を必死にこらえた。木村先生の言葉は厳しかったが、その裏には颯太への信頼が確かに感じられた。
「さあ、手術の準備だ。時間がない。心を整えよう」
木村先生がそう言い残し、手術室へ向かって歩き出した。颯太も気を引き締め、母を救うために、医師としての全力を尽くす覚悟を胸に刻んだ。