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第5話

「…母さん?」



颯太は驚いて駆け寄ったが、美千代は顔をゆがめ、荒い息をつきながら震える声で答える。



「背中が……ものすごく痛い……腰から……肩の方まで……」


その言葉に、颯太の脳裏にすぐにいくつかの診断が浮かんだ。だが、目の前の母の苦しみ方が尋常ではないことが一目で分かる。


「息を吸うと……痛みが増して……ぐっ…」



美千代は背中を両手で押さえながら、ゆっくりと体を丸めた。顔は青白くなり、額にはじっとりと汗が浮かんでいる。


「母さん!大丈夫だから落ち着いて!呼吸して!」



颯太は母の肩に手を添え、背中をさすりながら声をかける。しかし、母親の痛みは次第に広がり、彼女は苦しげに腰をねじるようにして体を動かそうとする。


「ああっ…!!背中だけじゃなくて……お腹の方も……痛い!!」


彼女は肩を押さえながら顔をしかめた。まるで体の中から何かが裂けるような痛みを訴えている。


「母さん、それ以上動かないで!」



颯太は冷静さを保とうと必死だったが、心臓が早鐘を打つように脈打つのを感じた。この痛みの広がり方、母の症状……。


「大動脈解離……!?」


声に出すことはしなかったが、医師としての知識が瞬時にこの結論を導き出した。背中から腰、肩にかけての激しい痛みは、血管が裂けるような痛みそのものだ。


「母さん、今すぐ救急車を呼ぶ!しっかりして!」



颯太はすぐにスマートフォンを取り出した。母の体がわずかに痙攣するように震え、彼女は苦しげに息を吸い込む。


「痛い……痛い……!」



美千代は顔を覆いながら訴えるが、その声はかすれて弱々しい。


「大丈夫!すぐ助けが来るから!」



墓地の静けさの中で、母の苦しむ声と颯太の緊迫した声だけが響いていた。風が再び吹き抜ける中、颯太の祈りと行動が母の命を繋ぐためのすべてとなった。

颯太は必死にスマートフォンで通報しようとするが、震えてうまく押せない。母の手を握り、なんとか冷静さを保とうと努めていた。しかし、目の前で苦しむ母の姿を見ると、心臓が締め付けられるような感覚に襲われ、胸の奥で動揺が膨れ上がる。


「母さん、大丈夫……俺が……」



言葉は震え、額から汗が滲む。冷静になろうとしても、頭の中で様々な最悪のシナリオが渦巻き、手足が震えているのが自分でも分かった。

そのときだった。


「おい、颯太!落ち着け!」



鋭い声が響いた。まるで頭の中を直接叩かれたような強い一喝に、颯太はハッと顔を上げる。視線の先には、真田先生が立っていた。その表情はいつになく険しく、目には強い意志が宿っている。


「ようやく聞こえたか…。お前、医者だろうが!目の前の患者が誰であろうと、動揺してどうする!」



颯太の肩を掴むようにして真田先生が叫ぶ。その声には、颯太がこれまで見たことのないほどの力強さがあった。


「わ、わかってます…」



颯太は振り絞るように言葉を返す。しかし、真田先生はすぐさま声を重ねた。


「お前が冷静にならなくてどうする!患者の命を守れるのは、今ここにいるお前しかいないんだ!」


真田先生の言葉が鋭く胸に刺さる。颯太の中で渦巻いていた動揺と恐怖が一瞬で消え去り、医者としての使命感が静かに蘇ってくる。


「しっかりしろ、颯太。ここにはお前しかいない。母親を助けるのはお前だ」


その言葉に、颯太は深呼吸をして、自分を落ち着けようと努めた。肩に置かれた真田先生の手の感触は感じないはずなのに、不思議とその存在の重みが心を支えているように感じられた。大きく何度も深呼吸し、頬をたたく。


「……ふぅ…先生、ありがとうございます」



颯太は震える指でスマートフォンを握り直し、緊急通報の番号を押した。耳元で鳴る呼び出し音が、まるで永遠に続くかのように長く感じられる。やっとのことで繋がると、女性オペレーターの落ち着いた声が聞こえた。


「こちら、119番。火事ですか?救急ですか?」



「救急です!50代女性が突然、激しい背中と腰の痛みを訴えています!肩やお腹にも痛みが広がっていて、呼吸が荒く冷や汗をかいています!」



颯太の声は強張っていたが、なんとか症状を簡潔に伝えようと努めた。


「意識はありますか?」



「はい、ありますが、痛みがひどく会話ができません!」



母親がうずくまりながら、苦しそうに顔を歪めているのを見て、颯太の胸が締め付けられる。


「現在の場所を教えてください」



「市内の霊園です。入口からすぐの神崎家の墓地の近くにいます!」



颯太は周囲を確認しながら、できるだけ具体的に場所を説明した。


「分かりました。救急車を向かわせます。到着するまでの間、患者さんを楽な体勢にさせ、安静にしてください」



「分かりました。お願いします!」


電話を切った瞬間、颯太は母親の元に膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。



「母さん、大丈夫だから。救急車がすぐ来るからね!」



「冷静になれ。深呼吸だ」


真田先生と目をあわせ、頷く。目の前の母親の状態を見つめ、医者としての自分を取り戻す。


「母さん、痛いのは背中だけ?それとも広がってる?」



颯太は母親に優しく問いかけた。


「背中から……肩と腰に……お腹も痛い……」



苦しげに答える母親の声は弱々しい。颯太はすぐに判断を下した。


「母さん、仰向けにならないで!そのまま楽な姿勢でいて!背中に負担がかかると危ないから」


母親の姿勢を調整しながら、冷静に声をかけ続ける。


「痛みはどのくらい強い?10が一番強い痛みだとして、どれくらいだと思う?」



「……10……間違いなく10……」


母親の顔は青白く、冷や汗が額から滴り落ちている。手足が冷たくなり始めているのを確認し、颯太の中で危機感がさらに高まった。


「母さん、大丈夫だよ。救急車がすぐ来るから。それまでゆっくり呼吸して、できるだけ力を抜いて」



颯太は自分が焦ることで母親の不安を煽らないよう、穏やかな声を意識した。

真田先生が横から口を挟む。



「脈を取れ、血圧は下がってるはずだ。お前なら分かるはずだろう」


颯太は母親の手を取り、脈拍を確認する。速くて弱い脈を感じ、冷静に分析する。



(血圧が急激に低下している。おそらく左大動脈の破れが広がっている可能性がある……)


「母さん、頭を少し低くするよ。足を少しだけ上げるからね」



頚動脈への血流を確保するために、軽く体位を調整する。


「痛み、増してない?」



「……痛いけど……変わらない……」


母親が辛そうに答えるのを見て、颯太はさらに細かく観察を続けた。呼吸が荒く、皮膚は冷たく湿っている。彼の脳裏には次にやるべきことが次々と浮かぶが、今できるのは、救急隊が到着するまでこの状態を維持することだけだ。


「颯太、あとは救急隊が来たら、状態をすべて伝えるんだ。それまで、母親の意識が保てるように声をかけ続けろ」



真田先生の助言に従い、颯太は母親に優しく話しかけ続けた。


「母さん、絶対大丈夫だからね。すぐに病院で治療できるから。痛みがひどくなったらすぐ教えて」


その時、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。颯太は母の手を握りしめながら、小さく呟いた。



「もう少しだよ、母さん。必ず助けるからね」


救急車のサイレンが徐々に近づいてくる中、颯太は母の手をしっかり握りながらスマートフォンを取り出した。旭光総合病院の代表番号に電話をかける。震える指で番号を押しながら、焦燥感を必死に押し殺した。


「はい、旭光総合病院です」



冷静な受付の声が耳に届く。颯太は急ぎながらも明確に状況を伝える。



「こちら神崎颯太です。心臓外科の木村先生につないでください!緊急です!」


「少々お待ちください」



保留音が短く流れる間も、颯太は母の様子を確認し続けた。額の冷や汗が増え、呼吸は浅くなっている。早くしないと。その思いが彼を突き動かす。


「神崎くん?どうしたんだい?」


受話器の向こうから木村先生の落ち着いた声が聞こえた瞬間、颯太の胸が少しだけ軽くなる。


「木村先生、僕の母が突然背中から腰、肩にかけての激しい痛みを訴えています。おそらく大動脈解離の可能性が高いです!」


颯太の声は張り詰めていたが、明確に症状を伝えた。


「大動脈解離か……場所は?」



「今、市内の霊園にいます。救急車を要請済みですが、旭光総合病院への搬送を許可してもらえますか?」


木村先生はすぐに答えた。



「もちろんだ。今すぐ受け入れの準備をする。到着したらICUを確保してCTを回す。救急隊にもその旨を伝えてくれ」


「ありがとうございます!」



電話を切ると同時に、救急車の赤いライトが見えた。颯太はすぐに手を振り、隊員たちを呼び寄せた。


「こちらです!患者は50代女性、突然の激しい背中と肩、腰の痛みを訴えています。大動脈解離の可能性があります!」



隊員たちは素早く担架を準備しながら、颯太の説明に耳を傾ける。


「意識はありますか?」



「はい、ありますが痛みが強く、冷や汗がひどいです。脈は速くて弱い。先ほど旭光総合病院に搬送許可を取りました。そこでCTと治療の準備が進められています」


救急隊のリーダーが顔を上げた。



「あっ…なるほど…搬送先については、現在指示を仰いでいますが……」



颯太は即座に声を重ねた。


「僕は旭光総合病院の心臓外科医です。このまま搬送してください。大動脈解離が疑われる以上、緊急手術が可能な病院でなければ対応できません!」


隊員たちは互いに視線を交わし、リーダーが無線で指示を確認する。数秒後、彼は大きく頷いた。



「分かりました。旭光総合病院へ搬送します」


母を担架に移し、救急車に乗せる間も、颯太は息をつくことなく母の様子を観察し続けた。



「母さん、頑張って。絶対に大丈夫だから」



微かに目を開けた母が力なく頷く。その姿を見て、颯太は改めて心に誓った。


「絶対に助ける」


救急車がサイレンを鳴らしながら霊園を出発した。中では、颯太が母の手を握りしめ、ただひたすら無事を祈り続けていた。


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