病院を出ると、颯太は自然と少し早足になった。真田先生はその横を軽い足取りでついて歩く。街路樹の間から差し込む陽射しが地面に木漏れ日を作り、どこか穏やかな休日の雰囲気が漂っていた。
「前に先生を外に連れて出たのは、秋にさしかかる頃でしたよね」
颯太がふと思い出したように話しかけると、真田先生は空を見上げて軽く頷いた。
「ああ、そうだったな。あのときも空気が澄んでて気持ちよかった。だけど、こうしてまた外を歩いてると、季節の移り変わりってやつがしみじみ感じられるな」
「そうですね。すっかり冬になりました」
颯太が笑顔で言うと、真田先生は肩をすくめて苦笑した。
「幽霊になる前は、俺の頭の中なんて患者や手術、それから次のカンファレンスや学会のことで常にいっぱいだったからな。季節の移り変わりなんて、ほとんど気にも留めてなかった。暑いのはいやだとか、雪が、降れば移動が大変だとか、そんなもんでな」
颯太は真田先生のその言葉に驚いたように眉を上げる。
「先生でもそんな感じだったんですか?僕はてっきり、仕事だけじゃなくてプライベートでも全部完璧にこなしてる人だと思ってました」
「はは、そんなわけないだろう。現役の頃の俺は、まあ、今思えばもったいなかったしれないな。景色なんて移動の車の窓から眺めるぐらいで、きれいだななんて思う暇もなかった。季節の話題なんて、患者への問診や雑談で使うくらいで興味もなかったから」
真田先生はふっと目を細め、道端に咲く花をちらりと見やりながら続けた。
「けど、こうして幽霊になってみると不思議なもんだな。患者を救うことの大切さはもちろんだが、それ以上に、俺たちが生きているこの世界そのものが、どれほど美しいかってことに気がつく。あのときは考えもしなかった」
「先生……」
颯太は、真田先生の横顔を見つめた。その表情には、どこか懐かしむような、そして少しだけ切なさを含んだ笑みが浮かんでいる。
「だからな、颯太。お前にはちゃんと、そういうことも感じられる医者になってほしい。患者を助けるのは大切だが、自分の人生もちゃんと楽しめ。そうじゃないと、俺みたいに後で後悔するぞ」
その言葉に、颯太は少し考え込むようにうつむいた。仕事に没頭するあまり、周囲のことを忘れがちだった自分を省みる。
「そうですね……僕もまわりがみれるようにならないといけません。患者さんを救うのが最優先だけど、それ以外の大切なことを見落とさないように」
真田先生は軽く手を振り、「ああ」と応えた。
二人はそのまま歩き続け、やがて街の喧騒が少しずつ遠のいていく。目的地である墓地の静かな佇まいが近づいてきた。そこには、颯太が今も心の中で生き続ける父親の存在が待っている。
颯太は道端の花壇に目を向けながら、ふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「真田先生、今まで聞けなかったんですが……先生って、彼女とかいたんですか?」
何気ない調子で放った言葉だったが、それまで軽やかだった真田先生の足がピタリと止まった。その反応に気づいた颯太は振り返り、真田先生の顔を見た。普段は飄々としている真田先生が、珍しく少し言葉を詰まらせている。
「ああ……まぁ……」
真田先生はポケットに手を突っ込み、視線を横に逸らしながら曖昧に返事をした。
「すみません…ぶしつけでした」
真田先生のいつもと違う様子に気づき、言葉を続けるべきか迷う。
「ああ、まあな……いたっちゃ、いたよ。だけどな……仕事に追われて、どうにもならなかった。それだけだ」
真田先生は軽く肩をすくめてごまかすように笑ったが、その目は遠くを見つめているようだった。颯太はその表情に何かを感じ取りながらも、深く追及するのはためらわれた。
「……そうなんですね。先生の仕事ぶりを聞いていたら、確かにプライベートの時間を作るのは難しそうですね」
颯太はそう言って歩き出し、横に並ぶ真田先生をちらりと見た。
「でも、それって先生らしいっていうか……患者さんのことを一番に考えてたんだろうなって思います」
その言葉に、真田先生は一瞬驚いたように目を見開いた。そして、いつもの調子を取り戻すようにふっと笑い、肩を軽く叩いた。
「おいおい、お前に褒められる日が来るとはな。気持ち悪いこと言うんじゃない」
「いや、褒めたつもりじゃないですけど……」
颯太が苦笑いを浮かべると、真田先生も少し声を上げて笑った。。
しばらく歩いた後、真田先生は静かに言葉を続けた。
「実は彼女がいたんだ。来年の春、結婚することになってた。もう10年も付き合ってたからな。よくまぁ仕事人間の俺にあいそをつかさなかったと感心するよ」
颯太は驚きの表情を浮かべた。これまで仕事一筋で情熱を注いできた真田先生に、そんなプライベートな一面があったとは思いもよらなかったのだ。
「10年…ずいぶん長い付き合いですね」
自然に口をついて出た言葉に、真田先生は小さく頷きながら、少し遠い目をした。
「まぁな。でも正直、ほとんど会えなかったよ。仕事にかまけてデートなんて数えるほどだったし、誕生日だってまともに祝ったことなんかない。それでも待っててくれたんだよ、あいつは」
真田先生の声はどこか無理に明るく振る舞っているようだったが、その表情には苦笑の奥に隠された深い感情が見え隠れしていた。
「今、どこにいるんですか?」
颯太が一歩踏み出しながらそう尋ねると、真田先生の肩が一瞬ピクリと動いた。そして、笑顔を保とうとしたのかもしれないが、その口元がかすかに歪むのが見えた。
その時だった。
「おーい、颯太!」
墓地の入り口から母、美千代が大きく手を振りながら呼びかけてきた。その声に、颯太は思わず振り返る。
「母さん」
短く返事をしたものの、再び真田先生の方を向いたときには、彼はすでに視線を外していた。気まずそうに地面を見つめ、肩を落としているように見える。
「さぁ、行こう」
真田先生がそう言いながら軽く手を振る。その声には諦めたような響きがあった。
「でも…」
颯太が言いかけたが、真田先生は静かに首を横に振り、微笑んでみせた。
「颯太、どうしたの?」
美千代の声が近づいてくる。颯太は頭を振り、考えを振り払うようにして母の元へ歩き出した。
神崎家の墓と刻まれた墓石の前に、颯太と母親、美千代が立った。周囲は静寂に包まれ、風がわずかに枝葉を揺らす音だけが聞こえている。墓石にはうっすらと陽射しが反射し、その表面の石目が鮮明に浮かび上がっていた。
「お父さん、今年は少し遅れてしまってごめん……」
颯太は静かに呟きながら、手にした線香をゆっくりと火で灯した。その手元を美千代は穏やかな目で見守っている。
父親の命日は9月だ。つくつくぼうしの声が響き渡り、夏の終わりと秋の気配が交じり合うあの季節。今年は医師として多忙な日々を過ごしていた颯太は、墓参りのタイミングを逃し、ようやく今の時期になってしまった。颯太は心の中で遅れてしまったことを詫びながら、静かに手を合わせた。
ふと目を開けて墓石に視線を移すと、石の表面が丁寧に磨き上げられていることに気づいた。花立てには新鮮な花が生けられており、色とりどりの花びらが静かな墓地の空間を優しく彩っている。母親がどのくらいの頻度でここを訪れているのかは知らなかったが、その様子からは、父親への変わらぬ思いと誠実な気持ちが伝わってきた。
「母さん、いつも来てるの?」
颯太がそう尋ねると、美千代は線香を墓前に置きながら静かに微笑んだ。
「週に一度くらいかしらね。お父さん、きれい好きの寂しがり屋だったから……きれいにしておかないと怒られちゃうわ」
冗談めかして笑う美千代の横顔には、懐かしむような表情が浮かんでいる。
颯太はその言葉に、父親が生前どんな人だったかを思い返した。穏やかで優しい父親だった。医師としての彼の生き様は、颯太がこの道を選ぶきっかけでもあった。
「父さん、まだまだ僕には追いつけないけど……頑張ってるよ」
墓石に向かって小さく呟きながら、颯太はそっと拳を握り締めた。風が吹き抜け、線香の煙がゆっくりと空へ立ち昇っていく。
「お父さんも、きっと見守ってくれてるわよ」
美千代の柔らかな声が耳に届くと、颯太は小さく頷いた。
美千代は手に持った花を墓石に供えながら、そっと言葉を続けた。
「でもね、颯太。あんたも忙しいのはわかるけど、自分のことも大切にしなさいね。お父さんも、それを一番望んでるわ」
颯太は一瞬目を伏せたが、再び墓石を見上げて、頷いた。
二人は静かに手を合わせ、祈りを捧げた。冷たい風が吹き抜け、線香の煙が揺れる。颯太は目を閉じながら、父への感謝とともに、これからの決意を心の中で呟いた。
祈りを終えた後、母親がふっと息をつき、地面に置いていたバッグを拾おうと前かがみになった。その瞬間だった。
「……っ!」
美千代の体がピクリと硬直し、その場で動きを止めた。次の瞬間、彼女は苦しげに背中を押さえながら立ち上がろうとしたが、すぐに膝をつき、うずくまった。