翌朝、颯太はいつもと同じように目を覚ました。本当は寝坊してしまいたかったが、いつもの癖で同じような時間に目が覚めてしまった。朝の静けさの中、リビングへ向かうと、母・美千代が背中を少し丸めてソファに座っていた。手には湿布を持ち、背中を伸ばしながら腰に当てようと試みているが、どうにも上手くいかないようだ。
「母さん、おはよう。何してるの?」
颯太が声をかけると、美千代は驚いたように顔を上げ、少し照れくさそうに笑った。
「あら、颯太。おはよう。もう少し寝てるかと思ったわ。なんか、腰が痛くて湿布を貼ろうと思ったんだけど、届かなくてね」
「腰?昨日の台所仕事で無理したんじゃないの?貸して、俺が貼るよ」
颯太はすぐに湿布を受け取り、美千代の後ろに回り込んだ。美千代は肩を軽くすくめながら、小さく笑う。母は若いころから看護師として働いている。職業病なのか、腰痛も慢性的なものだ。
「ありがとう。でも、これくらい自分でできると思ったんだけどね、歳かしら」
「無理しないでよ。俺がいるときは、俺に頼ればいいんだから」
颯太は湿布を丁寧に剥がし、美千代の腰にそっと当てた。その手つきは優しく、湿布がピタリと貼り付くように何度か軽く押さえる。美千代はその感触に少し驚いたように言った。
「意外と慣れてるのね。初めてお医者さんって感じがしたわ」
「まあ、病棟でおばあちゃんたちに湿布貼ってると慣れるよ。あれ?母さん、肩にも湿布があるけど、そこも痛いの?」
颯太は湿布の袋を見つけながら、美千代の背中を軽く覗き込んだ。美千代は少し肩を回しながら小さくため息をつく。
「そうなの。寒くなってきたからかしら?最近、肩も凝りがちでね……年のせいか、体があちこち痛くなっちゃっていやね」
「肩も貼りなおすよ。じっとしてて」
颯太は軽い調子で言いながら、肩に湿布を貼る準備をした。湿布を持った手を止め、一瞬母の肩をじっと見つめる。
「……何だか、少し張ってるね。母さん、最近無理してない?」
「大丈夫よ。看護師の仕事は立ち仕事が多いから慣れたものよ。湿布があれば十分よくなるわ」
美千代は軽く笑って言ったが、その笑顔に少し疲れが滲んでいるのを颯太は見逃さなかった。彼は軽く首をかしげながら、湿布を丁寧に肩に貼った。
「本当に無理しないでよ。何かあったらすぐに病院行くんだよ?」
「はいはい、わかりましたよ、お医者様」
美千代はおどけたように返しながら、軽く肩を回して湿布の冷たさを感じていた。
「ありがとう、颯太。湿布貼ってもらうのなんて久しぶりね。なんだか、ちょっと安心したわ」
「いつでも手伝うよ。父さんも、母さんが健康でいるのが一番喜ぶと思うしさ」
颯太はそう言いながら軽く笑い、湿布の袋を片付け始めた。美千代は一瞬視線を落とし、何かを思い出すように小さく頷いた。
「そうね……元気でいることが一番ね」
颯太は母の服をなおしてあげてから、自分の準備を終えると、「行ってきます」と美千代に声をかけて家を出た。冷たい空気が頬を撫で、まだ静けさの残る街を小走りで病院へ向かう。
病院の正面玄関に到着して中に入ると、颯太は真田先生の姿を探して辺りを見回した。すると、いつもの軽い調子で、真田先生が奥から歩いてきた。
「おーい、颯太。待たせるとはいい度胸だな。俺様をいつまで立たせる気だ?」
「すみません。でも幽霊も立ってて疲れるんですか…?」
颯太が肩をすくめて笑うと、真田先生は「あー…疲れないな」と軽く手を振り、二人並んで病院の売店へ向かった。
売店に入ると、温かな店内にほんのり漂う焼き立てパンの香りが二人を迎えた。颯太がペットボトルを手に取ろうと冷蔵棚の前で立ち止まると、ふと視界の隅に見覚えのある姿が映る。茶色のカーディガンを羽織り、小さなトレイにサンドイッチとおにぎりを乗せているのは霧島由芽だった。
「由芽?」
声をかけると、由芽は驚いたように振り返り、すぐに微笑んだ。
「あ、颯太。お疲れ様。今日はお休みじゃなかった?緊急で呼び出し?」
「いや、ちょっと気になることがあって寄っただけ。それより、由芽はお昼ご飯?」
颯太がトレイを指差すと、由芽は「そうなの」と頷いた。
「午前中に末道さんのリハビリにつき合って、一緒に運動してたからおなかすいちゃった!これからナースステーションで食べようと思ってたの」
「末道さん、リハビリ頑張ってるね」
「ええ。少しずつだけど、体力も戻ってきてる感じがする。彼女、すごく努力家だから、私も頭が上がらないわ」
由芽はトレイを持ったままふっと優しい笑顔を浮かべた。
「他の患者さんはどう?鈴木さんとか」
由芽は一瞬考えるように視線を上に向け、それから少し眉をひそめた。
「鈴木さんは、体調に波があるみたいね。今日は検査の予定が入ってるけど、心配ね。父親も来てくれてるけど、あまり頼らないようにしてるみたい」
「そうか……。また明日様子を見に行ってみるよ」
颯太がそう言うと、由芽は軽く頷きながらトレイを持ち直した。
「そうしてくれると助かる。患者さんたちがあなたの顔を見ると、安心するみたいだから」
「そうかな。自分じゃよく分からないけど……ありがとう」
颯太が少し照れくさそうに笑うと、由芽も微笑み返した。その様子を見ていた真田先生が、にやりと笑って口を挟む。
「おやおや、若い二人がいい雰囲気だな。こりゃ俺は退散するべきか?」
真田先生の軽口が耳元で響くたび、颯太は顔をしかめながらも、由芽に怪しまれないよう努めて平静を装っていた。幽霊の声はもちろん由芽には聞こえていない。颯太はおおっぴらに反論することもできず、仕方なく真田先生の言葉を聞き流しながら冷蔵棚から飲み物を手に取る。
ふと腕時計を確認した颯太は、口を開いた。
「じゃあ、俺行くよ。時間があんまりないから」
由芽は、颯太の突然の行動に驚いたように目を丸くして、手に持っていたトレイを少し引き寄せた。
「え?今から出かけるの?もしかして……デート?」
その言葉に、颯太は一瞬固まり、顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「いやいや!違うってば。父さんのお墓参りだよ」
颯太は急いで否定しながら、額に手を当てる仕草をしてから続けた。
「母さんも休みだったから、一緒に行く予定なんだ。現地で待ち合わせしてる」
「あ、そうだったんだ。そっかそっか……デートじゃなくてよかった」
由芽は少し安心したように息をつき、照れ隠しのように視線を逸らした。その様子を見て、颯太もようやく気を取り直し、軽く笑った。
「母さんがね、『由芽も誘えばよかった』って言ってたよ。また母さんと食事でも行ってあげてよ。すごく喜んでたから」
由芽は颯太の言葉に微笑みながら、少し考えるように口を開いた。
「もちろん!私も休みだったら一緒に行きたかったな。残念。あっ、そういえば、この前会ったとき、美千代さんが『最近血圧が高いのよね』って言ってたんだよね。あまり気にしすぎることじゃないかもしれないけど、颯太も気にかけてあげて」
その言葉に、颯太の表情が一瞬引き締まる。
「血圧が高いって……初耳だな」
「薬の話からだったかな?たまたま話してくれたの。そんなに深刻そうではなかったけど……颯太、お医者さんなんだから、少し注意して見てあげてね」
由芽は軽く笑いながら言ったが、その優しい眼差しには本気で心配する気持ちが滲んでいる。
「分かったよ。ありがと」
「じゃあ、また」
「うん、気をつけて」
由芽がトレイを持って小さく手を振るのを見てから、颯太は飲み物を購入し、売店を後にした。歩きながら、末道さんのことや鈴木さんのことを考えながら、足を進めた。
背後では、真田先生のいたずらっぽい声がまた聞こえる。
「なんだ、親公認ってやつか。颯太、奥手に見えてやるじゃないか。やっぱり、お前には彼女みたいに芯の強くて頼れる女性が必要だってことだろう」
「先生、本当に余計なことばっかり……」
颯太はぼそりと呟き、再び気を取り直して歩き出した。