目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第2話

医局を出た颯太は、静かな廊下を一歩一歩踏みしめながら歩いていた。壁に映る自分の影をぼんやりと見つめ、木村先生の言葉が頭の中を巡る。心の奥底にほのかな温かさが広がりながらも、明日への緊張感がじわりと膨らんでいた。


「どうした、妙に物思いにふけってるな。木村のあれか?飲みに誘われなかったのがそんなに寂しかったか?」


不意に後ろから聞こえてきた声に、颯太は思わず振り返った。そこには、幽霊の真田先生がいつもの飄々とした様子で立っていた。片手をポケットに入れ、もう片方で肩を軽くすくめて見せる。


「そ、そんなことないですよ!飲みに誘われなかったぐらいで寂しがったりしませんよ!あまりお酒も飲めませんし…」


颯太は苦笑しながら歩みを再開した。真田先生も軽やかな足取りでその隣を歩きながら、視線を廊下の天井に向ける。


「ふーん。そういえば、霧島由芽とはどうなんだ?いい雰囲気じゃなかったのか?」


真田先生の突然の一言に、颯太は足を止めそうになりながら慌てて答えた。


「そ、そんなんじゃないですよ。由芽は昔からの友達で、頼りになる同僚です。それだけです」


「へぇ?そりゃまた、律儀な言い方だな。あの子は、お前のことをよく見てる。俺だって時々、ふっと視線を送ってるのが分かるぞ?」


「やめてくださいよ!か、勘違いですってば。そういうことは考えたくても、今は仕事で精一杯で……」


「あの子も大変だなぁ…」


そう言いながらも、由芽の笑顔や、時折見せる真剣な横顔が頭をよぎり、颯太の声はどこかうわずってしまった。真田先生はつ何かをぶつぶつとつぶやきながら、颯太のその様子を楽しむようにニヤリと笑い、話題を切り替えた。


「まぁいい。お前が素直になるのはまだ先ってところか。それより、お前の頭の中にあるのは、鷹野先生のことだろ」


颯太はその言葉にハッとし、真田先生に視線を向けた。


「……分かりますか?」


「当たり前だ。お前が考え込むことなんて、たかが知れてる。父親の事件のことだろ?」


颯太は歩みを少し緩め、静かに息を吐いた。


「はい……。鷹野先生が退職してしまって、もう真相が闇の中に落ちてしまいそうで……。僕、父さんの…真田先生のお兄さんの真相を調べたくて。でも、その手がかりがなくなっていくような気がして……」


その声には、諦めと焦燥が入り混じっていた。真田先生はポケットから手を出し、顎に手を当てる仕草をした。


「確かにな。鷹野先生は、あの件で何か知っていたはずだ。だが、移動したからってそれが全て終わるわけじゃない。お前が動けば、まだ何か掴めるかもしれないぞ」


「動くって……僕に何ができるんでしょうか…」


颯太は立ち止まり、真田先生に向き直った。その目には迷いが浮かんでいる。真田先生はそんな颯太を真っ直ぐに見つめた。


「お前は医者だ。そして、神崎航太郎先生の息子だ。周囲を見て、話を聞いて、真実を掘り起こせる力がある。今はただ、逃げるな。それだけだ」


颯太はしばらく言葉を探していたが、やがて小さく頷いた。


「……そうですね。僕が諦めたら、何も変わらないですもんね」


「そうだ。お前が父親を信じているなら、その信念を医者としても、人間としても貫け。さぁ、そろそろ帰れよ。これ以上ここにいると、誰かに怪しまれるぞ」


真田先生は片手をひらひらと振りながら、ふっと微笑んだ。


「明日はお前、休みだろう?ゆっくり休めよ」


その言葉に、颯太は「あっ」と小さく声を上げ、何かを思い出したように口を開いた。


「そういえば、明日父のお墓参りに行くんですが……真田先生も一緒に行きませんか?」


真田先生は少し驚いたように目を見開き、その後、興味深げな笑みを浮かべた。


「俺もか?」


「いや……別に、先生のことを気にしすぎかもしれませんけど……。少しは外の空気を吸ってもらえたらなと思って……」


颯太は照れくさそうにそう言いながら、視線を落とした。真田先生はその言葉にしばらく黙り込んでいたが、やがて大きく頷いた。


「いいのか?そういうところ、相変わらず不器用でお人好しだな、お前は」


「どうせ僕一人ですし、先生が来ても特に問題ありません。それに、父も先生のことを喜ぶと思います」


「そうだな。なら、連れて行ってもらおうじゃないか。お前の父さんも、きっと俺に文句を言わず迎えてくれるだろ」


真田先生は軽く肩をすくめながら、いたずらっぽく笑った。


「じゃあ、明日の朝、墓地に向かう前に少し準備をしてから迎えに来てくれよ。俺も久々に外の景色を見てみたい」


「わかりました」


颯太は嬉しそうに微笑みながら、明日の予定を頭の中で思い描いた。そして真田先生もまた、軽い調子ながらどこか嬉しそうにその場を後にした。


自宅に帰ると、台所から心地よい包丁の音と出汁の香りが漂ってきた。


カウンター越しに台所を覗くと、母・美千代がエプロン姿で鍋の前に立っている。颯太は笑みを浮かべながら声をかけた。


「母さん。ただいま」


美千代は手を止めて振り返り、少し驚いた表情を見せた後、柔らかく微笑んだ。


「おかえり、颯太。ずいぶんおそかったのね」


颯太はキッチンに近づきながら椅子に腰を下ろし、気楽な調子で答えた。


「うん。明日休みだから、その準備とか色々してたら遅くなったんだ」


「あら、明日休み?颯太のシフトチェックしてなかったわ。何か予定はあるの?」


美千代は鍋の蓋を開け、香りを確かめるように湯気に顔を寄せた。颯太は少し躊躇しながら言葉を選ぶように答えた。


「お墓参りに行こうと思って」


その言葉に、美千代は驚いたように顔を上げ、思わず手を止めた。


「え?そうなの?奇遇ね。私も明日休みで、お墓参りに行こうと思ってたのよ」


「そうなんだ」


颯太は少し照れくさそうに目をそらしながら微笑む。母の隣に立ち鍋を覗き込むようにして聞いた。


「母さん、それ何作ってるの?」


美千代は蓋を閉め、スプーンを手に取りながら答えた。


「お父さんが好きだった筑前煮よ。今夜寝かして明日お父さんに持っていこうと思って」


「ああ……父さん、好きだったもんね」


颯太はどこか懐かしむように呟きながら、テーブルに肘をついた。


「ほんとは命日にお参りに行きたかったけど…。だいぶ過ぎちゃったな」


そう言いながら申し訳なさそうな表情を浮かべる颯太を、美千代は優しい目で見つめ、スプーンをお皿に置きながら首を振った。


「お父さんはそんなこと気にする人じゃないわ。私たちが元気でいることが何よりだって言ってたもの。じゃあ明日、一緒に行く?」


美千代の言葉に、颯太は一瞬考え込むように視線を落としたが、少し間を置いて首を振った。


「あー……ちょっと病院寄ってから行くから、先に行ってて」


「病院?勤務先?」


美千代は眉を少しひそめながら問いかける。その声には心配する色が混じっていた。


「うん、ちょっと気になることがあってさ」


颯太の言葉を聞くと、美千代は納得したように軽く頷き、微笑みを浮かべた。


「そう。じゃあ現地集合ね。帰りにランチでも行きましょう。由芽ちゃんも誘えばよかったわ~」


「さすがに由芽もお墓参りは楽しくないと思うけど…わかった。現地集合で」


颯太も笑顔を返しながら立ち上がると、美千代はスプーンを持ち直し、鍋の中身を静かにかき混ぜ始めた。その動作は嬉しそうだ。


「気をつけてね。無理しないようにね」


美千代の柔らかな声が颯太の背中にかけられる。颯太は「ありがとう」と短く返し、軽く手を振って部屋を後にした。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?