目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第1話

鷹野先生が旭光総合病院を退職してから1ヵ月がたった。

その影響は院内にも少しずつ現れている。鷹野先生がいるだけで緊張感が生まれ、医局を引き締めていた。いなくなった今、医局内の空気はやや穏やかになったものの、彼が担当していた患者たちのフォローや業務の分担が他の医師たちにのしかかっていることは事実だ。

やはり、鷹野先生の存在は大きかったのだろう。


院内の倫理委員会での審議の結果、鷹野先生は院内での立場を完全に失った。末道さん側も「訴訟は望まない」と公正証書を通じて手打ちを提案したが、条件として、今後一切、末道光さんや旭光総合病院に迷惑をかけないことを明記させた。


「医師免許はく奪もあり得る状況でしたが、何とかそこまでは至らなかったようです」


後日、木村先生が颯太に話してくれた内容だ。その声には安堵とともに、一抹の複雑な思いが込められていた。


鷹野先生が退職を余儀なくされたことに対して、院内にはさまざまな声があった。彼の非を責める者もいれば、彼の腕を惜しむ者もいた。しかし、その声も院長が下した解雇という通達によって、消えていった。


そして、鷹野先生は離島の診療所で勤務することになった。


「来年の1月から離島か…。鷹野にとって新しい道になるといいけど」


木村先生が呟いたその言葉は、どこか寂しさも含んでいた。それは颯太にとっても同じだった。鷹野先生との確執があったとはいえ、彼の能力や指導の厳しさが自分を成長させた一因であることも確かだったからだ。

真田先生にそう話せば「甘い!甘すぎる!」と一刀両断させられそうだが、颯太はそう思っている。

いつか鷹野先生をこえたい。鷹野先生を見返したいと颯太の中に火がともったこともまぎれもない事実なのだ。




「はぁ…助けられてよかった…」


木村先生は額の汗を袖で拭いながら医局の扉を押し開けた。その顔には、疲労の色とほんの少しの達成感が入り混じっている。颯太はデスクでカルテを見ていたが、その声に気づき、すぐに顔を上げた。


「お疲れ様です。かなり長引きましたね」



「うん。結局5時間くらいかかっちゃったね」


控えめに声をかけると、木村先生は苦笑交じりに頷いた。そのまま彼は迷うことなくデスク横の箱に手を伸ばし、中から青いドリンクを取り出す。


「これこれ!これ飲んだら全回復だから」


ボトルのキャップを勢いよく外すと、木村先生は一気に飲み干す勢いで喉を鳴らした。ごくごく、と音を立てながら飲み干す様子はいつみても驚かされる。颯太はその様子を見ながら、自然と口元に笑みを浮かべた。


「先生、それ、もうちょっとゆっくり飲んだ方がいいですよ。喉、痛めますよ」



冗談交じりに言うと、木村先生は肩をすくめて笑った。



「ああ、そうだね」


木村先生は笑いながら飲み終えたボトルを手にしながら椅子に深く腰を下ろし、背もたれに体をあずけ、天井をあおいだ。


「緊急手術は、本当に何度やっても慣れないな…でも、助けられてよかった。ほんとそれだけだよ」


「そうですね。それだけで疲れが吹っ飛んじゃいますよ」


木村先生と颯太が話していると、医局の扉が再び開いた。そこから現れたのは、木村先生よりもさらにぐったりと疲れた様子の藤井先生だった。彼は肩を落としながら、ゆっくりと医局に足を踏み入れ、ひとまず壁際に寄りかかる。

颯太はその姿を見てすぐに声をかけた。



「お疲れ様です。大丈夫ですか…?」


藤井先生は片手を挙げて颯太を制止し、首を軽く横に振る。そして、ため息混じりに口を開いた。


「ああ…俺はただの補佐だったのに…木村先生、鷹野先生とはまた違う意味ですごくて…」


藤井先生はちらりと木村先生の方を見た。木村先生はその言葉を聞いても気にした様子はなく、空になったドリンクのボトルのラベルを剝がしながら、苦笑している。

颯太は首を傾げた。


「違う意味…ですか?」


「ああ」


藤井先生は肩をすくめて説明を続ける。


「鷹野先生は、完全に計算し尽くして進むタイプだった。それに対して、木村先生は…用意周到なんだが、なんていうか直観的というか…その場で判断するというか」


木村先生は「ちょっと失礼じゃない?」と苦笑しながらも、特に反論する様子もない。


「でも、それがすごい。正直、手術中に『これ本当に大丈夫か?』と思う瞬間があったけど、終わってみたら最善の道をすすんでるんだ」


藤井先生は再びため息をつきながら、頬をかいた。颯太は少し考え込むようにして、木村先生を見た。


「たしかに…経験と才能なんですかね。やっぱりすごいなぁ」


木村先生はその言葉に照れたように微笑みながら頷いた。


「ありがとう。藤井先生、神崎先生、それは期待値上げすぎだよ~。みんなもう終業でしょ?飲みに行く?」


木村先生が目をきらきらさせて立ち上がる。藤井先生はそのやり取りを聞いてあからさまに眉間にしわを寄せた。


「いえ、もう体力の限界なんで帰ります。木村先生も明日、午前は救急外来担当ですよね。おとなしく帰って寝てください」


藤井先生はさきほどまでの穏やかな表情からいつもの無表情に戻り、更衣室へ消えていった。呆気にとられた木村先生と颯太は思わず吹き出してしまった。医局には、穏やかな笑い声が響いていた。


木村先生が、空になったドリンクのボトルを手に取りながら立ち上がった。


「神崎先生も藤井先生も、前よりずっと明るくなったよね。なんか嬉しいよ。少し肩の力が抜けて、いい顔してる」


その言葉に、颯太は驚いた。普段は冗談交じりに話す木村先生の、その柔らかくも真剣なトーンに、胸の奥が温かくなるのを感じる。


「ありがとうございます。いつも弱気で不安ばっかりで…つい暗い顔になっちゃうんですよね」


謙虚な言葉を口にする颯太に、木村先生は笑いながら首を振った。


「いやいや、その評価は自分に厳しすぎるんじゃない?それにね、僕が言いたいのは、内面から出る雰囲気と顔なんだ。昔はなんかこう、眉間にしわ寄せて『頑張ります!』って力んでたのが、最近は自然に笑えるようになってる」


木村先生は、わざとらしく眉間にしわを寄せた真似をして、笑いながら続けた。


「そんな風に怖い顔されると患者さんも緊張しちゃうからね。今の君はいい意味で柔らかくなったよ。それって、患者さんにも伝わるんだよ」


颯太は少し照れくさそうに頷きながら、「ありがとうございます」とだけ返した。


「それにしても、こうやって後輩の成長を感じられるのって、本当に嬉しいことだね。まあ、あんまりしつこく飲みに誘うと、なんとかハラスメントって言われちゃうから、僕もそろそろ帰るよ」


木村先生は冗談めかしながら、颯太に向かってウインクをして見せた。そして、ちらりと時計を確認すると、軽く手を振りながら更衣室の方へと歩き出した。


「神崎君も早く帰りなよ。明日は休みでしょ?ゆっくり休んで」


更衣室の扉が閉まる音が響き、静かになった医局に一人残された颯太は、木村先生の言葉を噛みしめるようにデスクに目を戻した。その温かな余韻が、彼の疲れた心を少しだけ軽くしてくれるように思えた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?