三日後の午前、院内のカンファレンスルームでは、重要な会議が行われていた。会議の主題は「末道さんの治療過程と今後の課題」。司会を務めるのは木村先生で、医局のメンバーが一堂に会していた。
木村先生は開会の挨拶を簡潔に述べた後、資料を手元で整えながら話し始めた。
「まず、末道光さんの手術における経緯を振り返ります。今回の症例は非常に複雑でしたが、チーム全員が尽力し、母子ともに命を繋ぎ留めることができました。現在、光さんは意識を取り戻し、集中治療室で経過を見守っています。本当に大変な手術でした。手術内容等は資料をご確認ください。今日、議題に出したのは、患者さんとご家族からもいただいた意見についてです」
そう言いながら、木村先生は資料の一部を画面に投影した。そこには、孝弘が直筆で書いた報告書の写真が表示されていた。
「これは末道さんのご家族から提供された資料です。孝弘さんから、今回の手術に関する感想と、鷹野先生との事前のやりとりが詳細に記されています。内容は非常に具体的で、鷹野先生がご家族の不安をどのように煽ったか、明確に記述されています」
会議室に緊張が走る。資料の内容に目を通す医師たちの間からは、鷹野先生に対する失望の声が漏れた。
木村先生は話を続ける。
「さらに、集中治療室にいる光さんからも手紙を預かっています。これは神崎先生宛のものですが、内容は皆さんにも共有させていただきます」
木村先生が手紙を読み上げた。
「神崎先生へ
手術の日、先生が必死に頑張ってくださったことを母から聞きました。私自身はまだ体が動かないけれど、息子がNICUで元気に育っていることを知り、感謝の気持ちでいっぱいです。先生がいなければ、私は今ここにいなかったかもしれません。これからも先生のような医師に助けられる人が増えることを願っています。
末道光」
読み終えた木村先生が手紙をテーブルに置くと、室内にはしばし静寂が訪れた。木村先生は続ける。
「続いて、村上さんの奥様と、村上さんの元部下である渡辺さんからも手紙が届いています。神崎先生への感謝の意が込められていますので、こちらも紹介させていただきます」
木村先生は手紙を一つずつ丁寧に読み上げた。
村上夫人からの手紙:
「夫が生前に、神崎先生がどれだけ真剣に向き合ってくださったか、繰り返し感謝を話しておりました。最期まで彼を支えてくださったことに、心より感謝申し上げます」
渡辺さんからの手紙:
「村上さんから、あなたの仕事への姿勢を聞いていました。先輩からの最後の教えを私たち若い世代に伝え、私も神崎先生のような信念を持った若者を育てたいと感じています」
読み終えると、木村先生は颯太に目を向け、穏やかに微笑んだ。
「神崎くん、これらの声を胸に留めて、これからも患者さんと向き合い続けてほしい。君はまだ若いが、この経験が君をさらに成長させるはずだ」
颯太は目を伏せながらも、しっかりと頷いた。
「ありがとうございます。僕にできることを、一歩ずつやっていきます」
会議室には、颯太の言葉に心を打たれた医師たちの温かな空気が流れていた。
木村先生は会議室全体を見渡し、次の議題に移った。
「さて、この会議の最後に、今回の手術とそれに伴う一連の出来事を踏まえ、我々が今後どのように対応していくべきかを話し合いたいと思います。鷹野先生の行動に関しては、院内倫理委員会で調査が進められていますが、患者さんやその家族の信頼を取り戻すためには、我々全員の努力が必要です」
医師たちはそれぞれ考え込むように視線を落としたが、数人が静かに頷いた。
「まず、治療方針の決定プロセスの透明性を高める必要があります。チーム全体での合意形成が欠けていた今回のケースは、我々全員にとって大きな教訓です」
木村先生の言葉に、医師たちは真剣な表情で聞き入った。颯太は静かに手を挙げ、発言を求めた。
「今回の件で、患者さんとのコミュニケーションの重要性を改めて痛感しました。僕自身、もっと多くの知識を得て、自信を持って家族の方々に説明できるようになる必要があります。そのためには、先輩方の指導を仰ぎながら、一つひとつ学んでいきたいです」
木村先生は微笑みながら、颯太に頷いた。
「その心意気が大切だよ、神崎くん。若手の意見や行動が、チーム全体を前に進めるだろう。今回の君の行動がそれを証明してくれた。これからも率直に意見を出し、行動に移してほしい」
会議室の雰囲気は次第に明るさを取り戻し、医師たちはそれぞれの決意を胸に刻むように静かに頷き合った。
光の手術から一週間が経ったある午後、颯太はふと一息つこうと屋上に足を運んだ。冬の澄んだ空気が頬を冷たくかすめるが、空の青さはどこか清々しさを感じさせた。
手すりにもたれかかりながら、颯太は目を閉じて深呼吸をする。すると、背後から静かな声が聞こえた。
「どうだ、少しは肩の荷が下りたか?」
振り返ると、そこには幽霊の真田先生が立っていた。相変わらず白衣を着た姿で、風に髪を揺らしながら微笑んでいる。
「真田先生…肩の荷…まぁ、少しだけ。でも、まだまだ課題が山積みです」
颯太は苦笑いしながら答えた。真田先生はその答えに満足そうに頷くと、颯太の隣に立ち、景色を眺めた。
「末道さんの容体は安定しているようだな。今日はリハビリで歩いていたようだし」
「はい。術後の経過は順調で、感染症の兆候もありません。光さんも回復が進んでいて、リハビリも頑張っています。まだ観察治療室にいますが、今のペースなら一般病棟に移れる日も近いと思います」
颯太の声には安堵の色が混じっていた。それを聞いた真田先生は小さく頷き、目を細めて微笑む。
「そして、お子さんだな。あの小さな命も、どうやら元気に育っているらしいじゃないか」
「ええ。32週未満で生まれましたから、まだ退院は少し先になりますが…。幸い、NICUでのケアが功を奏していて、栄養も取れて体重も増えています。末道さんが退院する頃には、一緒に退院できるかもしれません」
颯太の表情には希望が滲んでいた。真田先生はそんな彼をじっと見つめ、感慨深げに言った。
「そうか…。二人の命を繋いだんだな、神崎颯太。お前があの日、恐れずに一歩踏み出したからこそ、今がある」
その言葉に、颯太はしばし沈黙し、手すりを掴んだ自分の手をじっと見つめた。
「僕一人じゃありません。チームのみんなが支えてくれたからです。真田先生がずっと見守ってくれていたことも…」
「そうだろう?俺は天才だからなぁ!」
真田先生は冗談めかして笑ったが、どこか誇らしげだった。
颯太もつられて笑い、冬の空気の中、しばし二人は無言で景色を眺めた。
颯太もつられて笑い、しばし二人は無言で景色を眺めた。遠くから聞こえる街のざわめきが、静かな病院の屋上に響いていた。
「そういえば、聞いたか?」
真田先生がふと話題を変えるように言った。
「聞いたって、何のことですか?」
「鷹野先生だよ。あいつ、島の診療所に転勤することが決まったそうだ」
その言葉に、颯太は驚きで目を見開いた。
「島の診療所…ですか?急ですね」
「ああ、末道さんの手術の後、一度も出勤していないだろう?院内では患者のフォローに追われて、みんなが大変な思いをしている。あいつがいなくなった方がむしろスムーズだ、なんて言う奴もいるくらいだ」
颯太はその話を聞きながら、鷹野先生の青ざめた顔を思い出していた。あの手術の直後から、彼の姿を見ることはなかった。
「…なんだか、逃げたみたいで少し悔しいです」
颯太が呟くように言うと、真田先生はやけに楽しそうな顔をした。
「なにを甘いこと言ってんだ。あいつはお前を陥れようとしたんだぞ。やられたらやり返す!倍返しだ!」
聞き覚えのあるセリフに颯太は思わず吹き出した。真田先生はこれまでで一番のドヤ顔で笑っている。
「あはは、そうですね。倍返し、できたかもしれません」
「まぁでも、あいつもあいつで、何か事情があったのかもしれない。お前が追い詰めたわけじゃない。責任を感じる必要はないぞ」
「僕が責任を感じるべきなのは、もっと他にあります」
颯太は力なく笑った。
「父のこととか…」
真田先生は少し黙り込んだあと、ゆっくりと口を開いた。
「航太郎先生の事件の真相は、まだわからないままだ。証拠も証言も曖昧で、誰が真実を隠しているのかさえ掴めない」
その言葉に、颯太の胸の奥が重たくなった。父がかつて何をしたのか、何があったのか。それが明らかにならないまま、時間だけが過ぎている。
「それにしても、鷹野先生がなぜお前をあそこまで追い出そうとしたのかも謎のままだな」
真田先生は目を細めて遠くを見つめた。
「お前の父親が絡んでいたからか、それとも単純に嫉妬だったのか…。本人に聞ければ一番早いんだがな」
「でも、もう聞く機会はないでしょうね」
颯太は苦笑した。
「島の診療所なんて、そう簡単に連絡も取れない場所に行くんですから」
「そうだな」
真田先生は頷き、少し寂しそうに笑った。
「けれど、こう考えるんだ。お前がここに残って、全力で患者に向き合う姿を見せる。それがあいつに対する最大の復讐になるってな」
颯太はその言葉を聞き、わずかに笑みを浮かべた。冷たい風がまた頬をかすめたが、心の奥には小さな灯がともったようだった。
「ありがとうございます、真田先生」
「俺はただの幽霊だ。お前が頑張る限り、どこにだってついていくさ」
颯太はもう一度、遠くの景色を見つめた。そして、自分にできることを全力でやり抜く決意を胸に、屋上を後にした。