目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第14話

「ええ。神崎医師については、いくつかの問題が病院でも取り上げられています」


受話器越しの鷹野先生の声は穏やかだったが、言葉の一つ一つが孝弘の胸に重く響いた。


「問題とは、どういう意味でしょうか?」


「ご存知ないのも無理はありません。彼はまだ若い医師ですし、これが初めての大きな症例になるでしょう。ただ、彼の父親が以前この病院に関わっていた医師で…」


「父親が医師だった…」


「はい。ただ、その父親、神崎航太郎は、昔、患者さんとの信頼関係をめぐる問題を起こし、病院を辞めざるを得なかったんです。その影響で、息子である神崎医師にも、何かと影が差しているようで…」


「あぁ…なんとなく聞いたことのある名前です」


「具体的には申し上げられませんが、一部の患者さんや同僚から、不安の声が上がっているようです。最近では、末期の患者さんとの対応でトラブルがありました」


孝弘は言葉を失った。光を任せるには、少し心許ないのではないか、という疑念が心の中に芽生える。


「そのトラブルというのは…」


「ある患者さんがいたのですが、担当をしていた神崎に対して、最後の最後で治療を受けるべきか迷わせるような言動があったと聞いています。その患者さんは結果的に治療を受けることなく亡くなり、院内で問題が持ち上がりました」


「そんな…」


「もちろん、若い医師には多くの課題が出るものです。ですが、末道さんのケースはそれでは済まされません。光さんとお腹の赤ちゃん、二人の命がかかっているのです。これが、神崎医師の経験を越えた症例であることは間違いありません」


鷹野先生の言葉に、孝弘は胸を締め付けられるような思いを感じた。一人娘である光の命がかかっている以上、最善の選択をしなければならない。そのために、より経験豊富で信頼できる医師に任せるべきだという考えが頭をよぎる。


「先生、ではどうすればいいのでしょうか」


「末道さんが担当医変更を申し出てくだされば、私が正式に治療を引き継ぐことができます。私のチームはこういった症例を数多く経験しています。お任せいただければ、光さんの命を救うために全力を尽くしますよ」


「…わかりました。妻と相談して決めます」


孝弘は電話を切り、深く息を吐き出した。書斎の静けさが、やけに重く感じられる。高野先生の言葉、そして光の顔が思い浮かんだ。そして…翌日、病院に向かったのだ。


「私は、あの電話のせいで、娘の命を預ける相手を間違えたのかもしれない…」


孝弘は顔を手で覆い、深く息を吐き出した。その言葉に、木村先生も表情を曇らせた。


「神崎先生のことを信じる余地が、初めから私にはなかった。それどころか、不安を煽られてしまったんだ…」


颯太は静かに聞いていたが、拳を強く握りしめていた。鷹野先生がそんな手を使っていたことを知り、悔しさと怒りが胸を駆け巡る。

木村先生が優しく問いかけた。


「末道さん、鷹野先生は具体的にどんな話を?」


孝弘は顔を上げ、重い声で鷹野先生との電話の内容を一つひとつ振り返りながら語り始めた。

孝弘は顔を上げ、言葉を絞り出すように続けた。


「鷹野先生は、神崎医師の父親の話を持ち出してきた。彼の父親がかつて問題を起こし、病院を辞めさせられたことがあると言われたんだ。それに、最近は神崎先生が患者さんをそそのかして、治療を遅らせて死なせたと…。そんな話を聞かされて、どうして娘を安心して任せられるだろうか…」


孝弘の妻も、小さく頷きながら口を開いた。


「私もあの時、夫からその話を聞いて、不安になってしまったんです。経験不足の医師に大切な娘を任せていいのかって…。鷹野先生なら信頼できそうだと思って…」


木村先生は神妙な顔つきで話を聞きながら、静かに問いかけた。


「神崎くん、君のお父さんの件は確かに過去にあった問題だが、それを患者さんの家族に持ち出すなんて…鷹野先生は、どこまで自分の利益を優先しているんだ」


颯太は静かに拳を握りしめた。


「父が過去に問題を抱えたことは事実です。ただ、それを僕に背負わせるのは違う。僕は父とは別の医師であり、僕自身の道を歩んでいます。それでも患者さんの不安を煽るような行動を取るなんて…許せません」


木村先生は颯太の言葉を聞いてから、孝弘に向き直った。


「末道さん、神崎先生が今回の手術でどれだけ懸命に動いたかは、私が保証します。彼は確かに若いですが、あの手術で光さんとお孫さんを救うために本当に必死でした」


孝弘は俯き、しばらく沈黙したあと、再び顔を上げた。


「神崎先生、私はあなたのことを知ろうともせず、鷹野先生の言葉だけを信じてしまった。こんな言い方をするのは失礼かもしれないが、私にはあなたがどんな医師か、手術を見て初めてわかった。…本当に感謝しています」


颯太はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「ありがとうございます。ただ、僕はまだ未熟です。今回の成功は、僕一人の力ではありません。木村先生や他のスタッフの支えがあったからこそ、ここまで来られました」


孝弘は深々と頭を下げ、木村先生にも感謝の言葉を述べた。しばらくして彼はそっと妻の手を取り、部屋を後にした。


医局に戻る途中の廊下で、木村先生が歩みを緩め、颯太に語りかけた。


「神崎くん、よく言ったね。あそこでああやって堂々と患者さんの家族に向き合うのは、若手にはなかなかできないことだよ」


颯太は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに苦笑した。


「正直、自分でも何を言ったのか、あまり覚えていないんです。ただ、患者さんやそのご家族に信じてもらえる医者でありたいって、それだけを考えていました」


木村先生は満足そうに頷きながら続けた。


「それでいいんだ。信頼を得るのは簡単なことじゃない。でも、今日の君の姿勢は確かに末道さんのご家族の心に届いたはずだ。これからもその気持ちを忘れずにいてほしい」


颯太は木村先生の言葉に励まされ、改めて深く頷いた。


「ありがとうございます、木村先生。僕はまだまだ未熟ですけど、これからも全力で患者さんに向き合っていきます」


廊下を歩く二人の間に、一瞬の静寂が訪れた。木村先生はふと立ち止まり、颯太の肩に軽く手を置いた。


「ところで、神崎くん。君のお父さんの話だが…」


颯太の表情が硬くなった。その変化に気づいた木村先生は少し言葉を選びながら続けた。


「君の父親のことは、医局でも少し話題になっている。当時を知らない医者も多い。でも、誰しも過去の過ちに囚われるわけじゃない。君自身の努力が、そういった偏見を覆していくはずだ」


颯太は一瞬目を伏せたが、再び顔を上げ、木村先生に真剣な眼差しを向けた。


「父のことは僕が背負うべきだと思っています。でも、僕は僕なりに頑張って、いつか父の影を超えてみせます」


木村先生はその言葉に満足げに微笑み、再び歩き出した。


「いい心構えだ。さて、医局に戻って休もう。君も疲れただろう?」


「はい。でも、疲れ以上に、今日は多くのことを学べました」


二人は医局へと向かう廊下を歩きながら、医者としての責任と成長について語り合った。その背後には、真田先生の幽霊が静かに微笑みながら彼らを見守っていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?