会議室内の空気が一瞬で張り詰めた。鷹野先生は目を見開き、硬直したように椅子に深く座り直した。孝弘の怒りの矛先が完全に自分に向けられたことに動揺していた。
「あなたは最初から、神崎先生を貶めるつもりだったんじゃないのか!」
孝弘の低く響く声が会議室全体に広がる。彼の目は鋭く鷹野先生を睨みつけた。光の母親も鷹野先生をじっと見つめている。
「私が神崎先生に不信感を抱いたのは、あなたが吹き込んだからだ!『彼の父親の過去』だの、『未熟な医者』だのと言って、信じ込ませた…いや、信じさせられたんだ!」
鷹野先生は一瞬視線を逸らし、冷静を装おうとしたが、その顔には明らかな動揺が浮かんでいた。額にはうっすらと汗がにじみ、手元で握りしめたボールペンが軋む音を立てた。
「末道さん、落ち着いてください。私はただ…」
「黙れ!」
孝弘は鷹野先生の言葉を一喝で遮った。その声には明らかな怒りと失望が込められていた。
「娘の命が危うくなったのは、あなたが担当を引き継いだからだ!神崎先生がいたからこそ、娘も孫も助かったんだ!あなたにはその責任をどう取るつもりなのか、聞かせてもらおうじゃないか!」
鷹野先生は返す言葉を失い、視線を床に落とした。谷中先生が静かに割って入った。
「末道さん、落ち着きましょう。私たちは全力を尽くして治療にあたりました。今回の結果に対しては院内で話し合いますから…」
木村先生も穏やかな声で続けた。
「神崎先生が末道さんを救うために最後まで全力を尽くしてくれたことは、私たち全員が認めています。しかし、このような状況が生まれた原因については、院内でも改めて検討し、然るべき対応を取る必要があるでしょう。それに光さんと赤ちゃんはまだ予断を許さない状況です」
孝弘は一度息を深く吸い、怒りを抑えるように拳を握りしめた。そして再び颯太に向き直り、頭を下げた。
「神崎先生、本当に申し訳なかった。私があなたを信じきれなかったばかりに、こんな事態を招いてしまった。それでも、あなたが娘と孫を救ってくれたこと…心から感謝している」
颯太は孝弘の深い謝罪に驚き、すぐに手を前に差し出しながら言葉を返した。
「末道さん、どうか顔を上げてください。私はただ、目の前の患者さんを助けたい一心で全力を尽くしただけです。それが医師としての務めですから」
その言葉に、孝弘はゆっくりと顔を上げ、少しだけ柔らかな表情を見せた。しかし、彼の目は依然として鷹野先生に鋭い視線を向けた。
会議室内は再び静まり返り、全員がそれぞれの思いを胸に秘めながら、今回の出来事の重みを痛感していた。
そのままカンファレンスは終了となり、真っ先に鷹野先生が部屋を出て行った。やはり表情の抜け落ちたような青ざめた顔をしていた。光さんの夫の健一さんはこれから新生児科から話があると言われ、NICUへむかった。谷中先生は院内ピッチで出産の呼び出しがあり出て行き、カンファレンス室には、木村先生と颯太、孝弘と孝弘の妻が残った。
重たい空気が室内を包む中、孝弘は一息ついて静かに言葉を紡いだ。
「…鷹野先生の態度、そして自分の態度に失望しました。しかし、それ以上に、今日の手術でお二人がどれだけ尽力してくださったか…、心から感謝しています」
孝弘の妻も夫の言葉にうなずき、涙を浮かべながら話し始めた。
「私たち、最初は本当に不安だったんです。この病気がどれだけ怖いものなのかも分かっていませんでした。まして妊娠中の手術なんて…。でも、今日こうして娘が命をつないでいること、それに孫も無事だなんて…、本当に奇跡です。神崎先生、木村先生、ありがとうございました」
木村先生は穏やかに微笑みながら、夫妻に向かって軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、奇跡を起こしたのは私たちではありません。光さんが頑張ったからこそ、ここまで来られたんです」
木村先生のその言葉に、孝弘は深く頷いた後、颯太の方に視線を向けた。
「神崎先生…先ほども言いましたが、娘と孫を救ってくれたこと、本当に感謝しています。そして…改めてお詫びします。担当を変えてほしいなどと愚かなお願いをして、あなたを疑うようなことを言ってしまい…恥ずかしい限りです」
孝弘の言葉は誠実で、頭を深々と下げる彼の姿からその思いが強く伝わってきた。颯太は慌てて手を振りながら答える。
「そんなことありません。本当に大切な娘さんを思ってのことだったと思います。末道さんも、そしてご家族の皆さんもこうして無事でいることが、僕にとって一番嬉しいことです」
孝弘は顔を上げ、微かに笑みを浮かべた。しばらく沈黙した後、彼は再び重い声で口を開いた。
「私は…鷹野先生を信じすぎていたな…」
孝弘の沈んだ声に、木村先生が首を傾げた。
「信じすぎていた…?末道さんが入院した頃、鷹野先生から何か言われたんですか?」
孝弘は少し躊躇しながらも、重い口調で語り始めた。
「はい…光が入院したその日の夜、一本の電話がかかってきました。それは、鷹野先生からでした」
孝弘の言葉を聞きながら、颯太は静かに耳を傾けた。彼の表情が硬くなり、記憶を掘り起こすように目を伏せる。
孝弘はその日、夜遅くまで書斎で仕事をしていた。書類の山に目を通しながらも、どこか気持ちが落ち着かない。娘・光が突然入院したという知らせを受けたばかりで、病状について詳しく聞く時間もなく、妻の美代子と顔を合わせても会話は弾まなかった。
そんなとき、書斎のドアを軽くノックする音が聞こえた。美代子が顔を覗かせる。
「あなた、病院から電話よ。お医者様が直接お話ししたいって」
「病院から?わかった」
孝弘は立ち上がり、リビングの電話を取った。
「もしもし、末道です」
「末道さん、夜分遅くに申し訳ありません。私は光さんの入院先で心臓外科医をしています、鷹野と申します」
低く落ち着いた声が受話器越しに響く。名前を聞いてもピンとこなかったが、医師から直接電話が来ることに驚き、孝弘は耳を傾けた。
「鷹野先生ですか。娘がお世話になっています」
「いえ、私の方こそ、ご心配でしょう。今日は少し気になることがあり、お父様に直接お話ししたいと思いまして…」
「気になること…ですか?」
その一言に、孝弘の胸がざわついた。もしかして、光の容体に何か重大な問題があるのではないか。
「はい。光さんの病状についてです。光さんのケースは非常に特殊で、今後の治療方針について慎重に検討する必要があります。ただ…」
鷹野先生の声が一瞬途切れる。
「ただ、現在の担当医では経験不足が懸念されると思っています」
「担当医…ですか?」
孝弘は戸惑った。光がどの医師に診てもらっているのか、まだ詳しい説明を受けていない。
「ええ。神崎という若手医師が光さんの担当に任命されています。正直に申し上げると、こういった難しいケースを処理するには経験が乏しいのではないかと感じています。それに…」
鷹野先生の言葉は柔らかいが、明らかに神崎という医師への疑念を含んでいた。
「彼には少々悪い噂もあります」
「噂…?」