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第12話

颯太は手術室を出て、ようやく更衣室にたどり着いた。肩から外したマスクを無造作に近くの台に置き、ロッカーの前に立った瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れた。


「はぁ…」



大きな溜息とともにその場にへたり込む。膝を抱え込むように座り込むと、震える両手が目に入った。自分の手がこんなにも震えているのに初めて気がついた。足元もがくがくと力が入らず、立ち上がる気力さえ湧かない。


(怖かった…本当に怖かった…)



頭の中で、手術中の光景がフラッシュバックのように甦る。光と赤ちゃんを救えなかったらどうなっていたのか、考えるだけで息苦しくなった。


「お疲れ様だな、颯太」



不意に聞こえた声に、颯太ははっと顔を上げた。そこには真田先生の姿があった。いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、颯太に近づいてくる。


「先生…」



言葉を紡ごうとしたが、喉が詰まったように、声にならない。真田先生は颯太の隣にしゃがみ込み、肩に手を置いた。


「怖かっただろう。それでもやりきったんだ。お前の力で命を救えた。それを誇りに思え。素晴らしかったぞ」


その言葉に、颯太の目から知らず知らずのうちに涙がこぼれた。真田先生が優しく続ける。


「医者は完璧じゃない。ミスだってするし、何より恐怖だってある。それを乗り越えるのは、患者を救いたいって気持ちと準備だけだ。その気持ちが、お前を突き動かしたんだろう?」


颯太は小さく頷き、震える声で答えた。



「はい。でも、僕はまだ…怖いです。さっきだって、自分が間違ったらどうしようって、そればかり考えて…先生が隣にいなかったら僕はできなかったかもしれません」


真田先生はふっと笑い、手を伸ばして颯太の震える手に触れた。



「怖さを感じるのは、それだけ患者の命を真剣に考えている証拠だ。大事なのは、その怖さに負けずに手を動かすことだ。お前は、それができたじゃないか」


颯太はにじむ涙を拭いながら、深く息をついた。



「僕…少しだけ、自信が持てた気がします。まだまだ未熟ですけど、これからも頑張ります」


真田先生は満足そうに頷き、立ち上がった。



「その心意気を忘れるなよ、颯太。お前は、いい医者になれる」


そして颯太に一瞥を送り、静かに姿を消していった。颯太は更衣室の天井を見上げ、深呼吸を一つ。震えていた手を握りしめ、自分自身に言い聞かせる。


(これで終わりじゃない。この先も、もっと勉強して、もっと成長していかなきゃならない)


やがて彼は立ち上がり、改めて手術着を脱いで白衣に着替えたその時、ロッカーのドアが軽くノックされた。


「神崎くん、入っていいかい?」


木村先生の声が聞こえ、颯太は驚いて振り返る。


「はい。どうぞ」


木村先生はゆっくりとドアを開け、更衣室に入ってきた。その表情は疲れていたが、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。


「お疲れさま。座ってもいいかな?」


「もちろんです」


木村先生は近くのベンチに腰を下ろし、肩を軽く回しながらため息をついた。


「いやあ、今日は大変だったね」


木村先生は例の甘ったるい青い飲み物を颯太に差し出した。颯太はうなずきながらそれを受け取り、隣に腰を下ろし、静かに答えた。


「はい…。まだ頭が追いついていません」


木村先生は少し間を置き、颯太の顔を真っ直ぐ見た。


「神崎くん、正直に言うとね…恥ずかしい話だけど、手術中、俺もパニックになってたんだ」


「え…?」


意外な告白に、颯太は目を丸くした。木村先生のようなベテラン医師が、そんなことを言うなんて思ってもみなかった。


「鷹野先生があの状態になった時、僕も頭が真っ白になったよ。僕もそれなりに経験があるつもりだったが…今日の状況は完全に想定外だった。何が正しいのか、自信がなくなってしまった」


木村先生は自嘲気味に笑いながら続けた。



「でも、君が手を挙げて行動してくれたおかげで、僕も我に返ることができた。あの場を持ち直せたのは、君の勇気があったからだ。本当にありがとう」


「僕なんて…ただ必死だっただけです。正直、自分が正しい判断をしたかどうかもまだ分からないくらいで…」


颯太は頭をかきながら答えたが、木村先生は軽く首を振った。



「いや、間違いなく正しかったよ。結果が全てを証明している。君が冷静に対処してくれたからこそ、末道さんの命を繋ぐことができた」


その言葉に、颯太の胸がじんわりと温かくなる。


「それに、手術についてかなり勉強して準備していたんだろう?君の手つき、手順の良さを見たらわかるよ。成人のこの疾患の症例は少ないのに、よく勉強したね」


木村先生の言葉に、颯太は深く息を吸い込んで静かに答えた。



「ありがとうございます。でも、もっと成長しなければいけないと強く感じました。今日の手術を通して、自分がどれだけ未熟かを痛感しましたから」


「ああ。僕もまだまだだな」


木村先生は立ち上がり、颯太の肩を軽く叩いた。


「さあ、末道さんのご家族に説明に行こう。谷中先生は先に行っているはずだ」


颯太は微笑んで頷き、木村先生を見送った。静かになった更衣室で、一人立ち尽くしながら、自分の手を見つめる。震えはすっかり止まっていた。


(これが、医者としての大きな一歩になったのかな…)


心の中でそう呟き、颯太は新たな決意を胸に、更衣室を後にした。


木村先生と並んで歩きながらカンファレンス室に近づくと、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。

木村先生と目を合わせた。


「行こう」


木村先生が短く促し、颯太は小さく頷いて、緊張した面持ちで扉をノックした。


「失礼します」


木村先生が先に声をかけ、颯太と共に部屋に入る。カンファレンス室には光の父、孝弘、母と思われる女性、そして夫の健一が座っていた。孝弘の表情は怒りで硬直し、夫の健一は困惑と不安が入り混じった顔をしている。母親は夫の腕に触れながら、沈痛な面持ちで俯いていた。

一方で、谷中先生の隣に座っていた鷹野先生は表情の抜け落ちた顔で青ざめている。


「木村先生。それに神崎先生か」


孝弘が二人に目を向け、冷たい視線を投げかけた。その鋭い目は、怒りの矛先を探しているようだった。木村先生が一歩前に進み、深く頭を下げた。



「末道さんのご家族の皆様、改めまして、手術についてのご報告と、今後の治療方針についてお話しさせていただきます」


「……」


孝弘が眉間にシワを寄せて腕を組む。

鷹野先生が咳払いをし、冷静を装いながら口を開いた。



「末道さんの容体は非常に複雑でした。我々は最善の対応を心掛けていましたが…」


鷹野先生は細く小さい声でボソボソと説明を続ける。



颯太と木村先生が来る前に谷中先生から緊急手術になった経緯と帝王切開の経緯をきいたようだ。

木村先生がすかさず声を挟んだ。



「一時危険な状態でしたが、手術は予定通り終わりました。」


「危険な状態…だと?」


孝弘の言葉に、鷹野先生の表情がさらに硬くなる。彼の視線が一瞬、颯太の方に向けられたが、すぐに逸らされた。


谷中先生が静かに席を立ち、手に持っていたパソコンをテーブルの中央に置いた。会議室にいる全員の視線が自然と彼女の動きに集まる。彼女はパソコンを起動させ、落ち着いた声で口を開いた。


「では、手術の内容について、私からも整理してお話しさせていただきます。手術映像をみていただくのが早いかと思います」


その言葉に、孝弘の目が険しく細められた。


「わかりました」


谷中先生は彼の厳しい視線を受け止めつつ、穏やかに続けた。



画面に手術の記録が映し出され、彼女はその内容を指し示しながら話を進めた。



「手術開始時、末道さんの容体は非常に不安定でした。妊娠30週という状況での帝王切開を先行し、その後に心臓外科チームによるTAPVRの修復手術に移行するという計画でした。しかし、術中に心拍数の低下と血圧の急激な低下が起こり、緊急の対応を迫られました」


孝弘は眉をひそめたまま、画面をじっと見つめている。

谷中先生は一瞬間を置き、視線を鷹野先生に向けた。



「確かに、現場で予想外の事態が発生し、一時的に混乱が生じました」


谷中先生は手術映像を画面に映し出しながら、続けて言葉を紡いだ。


「この記録をご覧いただければ、手術中に何が起こったのか、そしてどのように対応したのかが伝わると思います」


鷹野先生は口を閉ざしたまま映像をじっと見つめ、会議室の空気は一瞬で張り詰めたものになった。手術映像には、心拍数が急激に下がり、チームが慌ただしく動く様子が映し出されている。冷たく規則的に響くアラーム音が、会議室の静寂に重くのしかかる。


映像が進むにつれ、光さんの容体が急変する場面に差し掛かった。モニターの数値が警告を示し、看護師たちの声が響き渡る。


「心拍数が下がっています!」


その言葉が再生されると、会議室にいた光さんの母親が耐えきれなくなったように顔を覆い、嗚咽を漏らした。健一さんは隣に座る彼女の肩をそっと抱き、背中を撫でた。


一方で、孝弘は立ち上がり、拳をぎゅっと握りしめて映像を睨みつけていた。

映像には、次第にチームが混乱から立ち直り、颯太が指示を出しながら対応に当たる場面が映し出される。彼の震える声と同時に、光さんの心拍数がゆっくりと回復していく様子が映し出された。

映像が終わると、部屋の中は静寂に包まれた。誰もが言葉を失い、しばらくの間、その場に漂う緊張感だけが支配していた。


突然、孝弘がゆっくりと颯太の方に向き直った。その目には、怒りと失望、そして少しの感謝が混じり合った複雑な感情が浮かんでいた。そして、彼は深く頭を下げた。


「…神崎先生、本当にありがとう。娘と孫の命を救ってくれたこと、感謝している」


孝弘は深く息を吐き、指でこめかみを押さえながら言葉を続けた。


「担当を変えてくれと言ったこと…なんて馬鹿なことをしたんだと、今になって恥ずかしい。すべてはこの…」


言葉を切った孝弘の手が、突然鷹野先生を指し示した。その指先は震え、声には怒りがにじんでいた。


「こいつにそそのかされたからだ!」


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