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第11話

谷中先生は処置を終えると、患者を心臓外科チームに託すべく手術台の前に立った。谷中先生はゆっくりと振り返り、全員を見渡した。


「ここからは心臓外科チームにお任せします。患者の命は皆さんにかかっています。」


その言葉に、手術室の空気が一段と引き締まる。堀太は背筋を正し、小さく領いた。谷中先生はー瞬だけ蝦太に目を向け、励ますように微笑むと、ご家族に説明を行うため手術室を後にした。


鷹野先生は手袋をきつくはめ直し、静かな声で命じた。


「すぐに進めるぞ。時間を無駄にするな」


木村先生はむかいに位置を取ると、鷹野先生に問いかけた。


「本当に人エ心肺に切り替えなくて大丈夫か?」


鷹野先生は一瞬険しい表情を浮かべ、低い声で答えた。


「心臓を止めるリスクは避けたい。循環を維持したまま修復する方が患者の負担は少ない」


木村先生はさらに食い下がった。


「でも、切開後に肺静脈の配置が予想以上に複雑だった場合、出血を制御しきれない恐れがある。そのリスクを考えると…」


鷹野先生は木村先生の言葉を遮り、冷たく言い放った。


「帝王切開で既に出血しているんだ。これ以上のリスクを増やすわけにはいかない。私の判断だ。これ以上手術を邪魔するようなら出ていってもらおう」


そのやり取りを見つめていた堀太の胸には、押しつぶされるような不安が広がっていた。その時、真田先生の声が背後から響く。


「嫡太、お前ならどうする?」


颯太は唇を噛み締めながら、低い声で答えた。


「僕なら、人工心肺に切り替えます。末道さんの状態を考えれば、その方が安全だと思います」


しかし、その言葉は手術室の誰にも聞こえることなく、ただ颯太自身の胸の中に留まるだけだった。


「メス」


鷹野先生の短い言葉で手術が本格的に始まった。心臓外科チームはそれぞれの持ち場につき、呼吸を整えながら患者の状態に目を凝らした。


颯太は見学スペースから術野を見つめ、細部まで注視していた。血圧と酸素飽和度はギリギリの状態を維持しているが、この状況が長く続けば危険だ。


「肺静脈の異常接続部を確認。ここから切開に入る」


鷹野先生が宣言し、看護師が器具を手渡す。


鷹野先生は慎重にメスを入れ、肺静脈の合流部を露出させた。だが、その配置は事前の検査結果よりもさらに複雑で、狭窄部が予想以上に多い。


「これが接続部か…。形状が歪んでいるが、バッフルを設置して心房に接続する」


鷹野先生は自信を持って言葉を続けたが、その手元は予想以上に難航しているように見えた。


「血圧が少し低下しています」


麻酔科医が報告する。


「大丈夫だ、まだ許容範囲内だ」


鷹野先生は迷いのない声で答える。

颯太はそのやりとりを聞きながら、胸に広がる不安を抑えられなかった。術野の血液量が徐々に増えているのが視界に入る。


「肺静脈の壁が非常に薄い。慎重に進めてください」


木村先生が静かに警告する。


「わかっている」


鷹野先生は短く返答し、バッフルの設置を続けた時、血が術野に広がった。


「静脈壁に小さな裂け目が!」


木村先生が声を上げる。


「出血が増加しています。吸引!」


木村先生が即座に対応するが、術野がどんどん血液で埋まる。


「こ、この程度の出血なら問題ない。止血を進める」


鷹野先生はそのまま作業を続行し、肺静脈を心房に接続する縫合を始めた。


颯太は手術室の端から声を上げた。


「鷹野先生、その静脈壁は非常に脆弱です。このまま進めるとさらに裂ける可能性があります」


しかし、鷹野先生は颯太の声を無視し、手元の作業を続ける。


「わかったようなことを言うな。計画通りに進める。口出しをするな!」


その瞬間、予想していた最悪の事態が発生した。縫合箇所が破れ、大量の血液が噴き出したのだ。


「血圧が急激に低下しています!」


麻酔科医が緊急報告する。


「出血量が多すぎる!止血を急げ!」


木村先生が指示を飛ばす。


「静脈の再接続を試みる!あと少しで終わるはずだ!こっちを終わらせてから止血する!」


鷹野先生は強い声で言い放ち、さらに深く切開を進めた。


しかし、裂け目がさらに広がり、術野の血液が止まらない。


「鷹野!静脈壁がこれ以上持たない!止血がさきだ!」


木村先生が叫ぶが、鷹野先生はそのまま強行する。


「鷹野先生!もう時間がありません!」


颯太は見学スペースから声を張り上げた。


「黙れ!」


鷹野先生が振り返って怒鳴るが、その直後、さらに大きな裂け目が生じた。


「鷹野先生、ここは一旦止めてください!」


木村先生が再度訴えるが、鷹野先生は手を震わせて硬直したまま手元を見つめて動かなくなった。


「鷹野先生、いけるのか?!鷹野!」


木村先生が問いかけたが、鷹野先生は答えず、手の震えは肩までもふるえていた。

その間もモニターが警告音を鳴らし続けた。


「血圧が危険域!心拍数が低下しています!」


看護師の報告が続く中、木村先生が声を荒げたが、鷹野先生は応えず、ただ術野を見つめたままだ。


「鷹野!しっかりしろ!おい!」


颯太の心臓が激しく鼓動していた。このままでは、命を失いかねない。彼の頭の中で、真田先生の声が響いた。


「颯太、今動け。この患者を救えるのはお前しかいない!」


颯太は迷わず鷹野先生の肩を押しのけ、手術台に向かった。


「僕がやります!これ以上の出血を抑ます!」


颯太の言葉に、木村先生が驚いた表情を浮かべるが、すぐに補助に回った。


「ここで、さっきの出血箇所を特定…縫合。肺静脈の位置を調整し、心房の縫合を正確に進めれば…」


颯太の脳裏に、真田先生の静かな声が響いた。


「落ち着け、颯太。お前ならできる。お前の手は既に正確な道筋を覚えている。あとは信じて進むだけだ。いつもやっているだろう。丁寧に、正確に」


颯太はその言葉に鼓舞され、器具を手に取った。細い針と糸を用いて、肺静脈の縫合を始める。血液の滲む視界の中でも、彼の手は迷わなかった。


颯太はこれまでの練習とシミュレーションの記憶を頼りに、正確かつ迅速に作業を進めた。


その動きはまるで機械のような正確さとスピードがあった。その手つきに木村先生も動けなくなっている鷹野先生も、そして颯太の後で見つめている真田先生も驚いていた。


鷹野先生があれほど戸惑っていた出血箇所の縫合をあっという間にしてみせたのだ。


「よし。出血箇所の縫合は終わりました。肺静脈の異常接続部を再確認します。狭窄を避けるために、広めに吻合を作ります」


その判断の早さと正確さ、そして状況を把握するスピードに看護師も目を丸くした。

あっという間に縫合を進めていく。


「吻合部位確認良好。出血も収まりました」


木村先生が報告する。


颯太の手元は一切の迷いがなく、ついに肺静脈の接続を完成させた。手術台の上で心臓がわずかに動きを取り戻し、モニターの数値が徐々に安定し始めた。


「静脈の接続完了。次は狭窄を防ぐためのバッフル作成に入ります」


颯太の声が静かに手術室に響く。木村先生が手元を確認しながら、サポートに回る。


「ここで、心房内に確保したスペースを利用してバッフルを形成する」


颯太は人工血管の材料を手に取り、慎重に位置を確認した。バッフルは異常静脈から心房内へ血流を導くためのトンネルで、これが正確でなければ後遺症のリスクが高まる。


「材料の長さを測ります。ここで余分が生じると、血流が乱れます」


彼は一度深呼吸をしてから、慎重に人工血管を切り取り、位置を調整した。


「吻合部位、確認します」


木村先生が補助に入り、バッフルの端を心房壁に固定する作業をサポートする。


「位置は適切です。吻合を進めます」


颯太は針を手に取り、細かい縫合を一針一針進めた。血液が滲む中でも、手元は驚くほど安定していた。


「血流確認、異常なし」


看護師がモニターを見つめながら報告する。バッフルを通じて血液がスムーズに流れ始めたようだ。


「バッフル内の血流が正常です。狭窄も見られません」


木村先生が再度モニターを確認する。颯太は胸の内でほっと息をつきながらも、最後の仕上げに集中した。


「次に、右心房の拡張部分を確認。過剰な負荷がかからないよう、再度吻合部位を確認します」


肺静脈から心房への血流が正常であることを確認した颯太は、心房を閉じる作業に移った。


「心房壁を縫合します」


彼は針と糸を使い、ゆっくりと正確に縫合を進めた。


「出血確認。内圧良好。問題なし」


木村先生が頷きながら、最終確認を行う。


「よし」


麻酔科医が慎重に調整を進めると、モニター上の波形が正確に動き始めた。患者の心臓が徐々に自発的な動きを取り戻し、安定したリズムを刻む。


「酸素飽和度、心拍数、血圧ともに正常域です」


看護師が報告し、手術室内にようやく安堵の空気が広がった。


「胸腔内を洗浄し、胸骨を閉じます」


颯太は最後の処置に取り掛かった。胸腔内の残留液を吸引し、術後感染を防ぐために慎重に洗浄を行った。


「胸骨を固定します。器具をお願いします」


看護師がワイヤーを手渡すと、颯太は木村先生の補助を受けながら胸骨をしっかりと閉じていった。


「縫合部位の確認完了。ドレーンを設置し、終了です」


颯太が手を止めた瞬間、手術室内は静寂に包まれた。


「お疲れ様でした。無事終了です」


木村先生が微笑みながら颯太の肩を軽く叩いた。


颯太は術後の光の顔をじっと見つめながら、大きく息を吐いた。真田先生の声が心の中で静かに響いた。


「よくやったな、颯太。お前は本物にまた一歩近づいたな」


颯太は頷きながら、手術室を見渡し、全員の顔を確認した。その目には、若き医師としての確かな自信が宿っていた。


鷹野先生はいつの間にかいなくなっていた。


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