「状況はどうですか?」
木村先生が問いかけると、小児科の伊藤先生が厳しい表情で答えた。
「胎児の状態は、すでに脈拍が低下傾向にあります。このままだと胎児仮死のリスクが高まるため、緊急の帝王切開が必要です。ただし、母体の血行動態が非常に不安定で、出産後に心臓の修復が遅れれば命に関わるでしょう」
木村先生が頷きながら、谷中先生の方を見た。
「帝王切開の準備は整っていますか?」
「問題ありません。ただし、胎児の救命後は新生児チームがすぐに処置を行う必要があります。伊藤先生が中心となって、保育器や蘇生用具の準備を完了しています」
谷中先生の冷静な言葉に、颯太は少しだけ安心した。しかし、次に控えるのはTAPVRの修復という大きな山だ。まだ未知の部分が多い疾患であり、特に妊婦の症例では予測できない問題が次々と生じる可能性がある。
その時、鷹野先生が手術室に入ってきた。目を細めて周囲をぐるりと見渡し、颯太にちらりと視線を送る。
「神崎、邪魔にならないようにしろよ。母体と胎児の両方を救うには、一切のミスが許されない。お前みたいな中途半端な奴がいていい現場ではない」
その言葉に苛立ちを感じながらも、颯太は深く頷いた。
「はい」
鷹野先生はそれ以上は何も言わず、手術台に歩み寄り、スタッフとともに心臓手術の準備を始めた。その間にも、谷中先生が最後の確認をするように声を上げた。
颯太が手術台の傍で器具の確認をしながら、ふと小声で呟いた。
「人工心肺はやっぱりつけないのかな…」
すると、すぐ背後から幽霊の真田先生が答えるように話しかけてきた。
「鷹野が、やはり余計なリスクを増やしたくないって断ったんだよ。『母体と胎児両方の血圧を不安定にする可能性がある』とか言ってな。それ自体は一理あるが…まあ、問題は別のところにある」
「別のところですか?」
颯太が視線を上げて周囲を確認するが、もちろん誰も気づいていない。真田先生は薄く笑いながら、手術台に目を向けた。
「鷹野は単に自分の技術で乗り切れると信じてるだけさ。人工心肺のリスクじゃなく、自分の腕に過信しすぎている。だがな、颯太…本当にそれで大丈夫なのかは、お前が冷静に見極めるべきだ。ひとつも見逃すな」
颯太は真田先生の言葉にハッとし、鷹野先生が指揮を執る様子をじっと見つめた。
「では、始めます」
谷中先生の落ち着いた声が手術室に響くと、全員がそれぞれの持ち場で緊張感を高め、作業に取り掛かった。颯太もまた、呼吸を整えながらモニターに集中した。母体の血圧や胎児の心拍数がリアルタイムで表示される波形は、どれもわずかな変化も見逃せない重要なデータだ。
谷中先生の手元では、精密な動きが繰り返されていた。鋭いメスが皮膚を切り開くと、その下の組織が慎重に露わにされていく。吸引チューブの音と、看護師が器具を渡す金属音が響き、手術室全体が一体となって動いている。
「皮膚切開完了。次に腹膜を開きます」
谷中先生が指示を出し、看護師たちが迅速に応じた。彼女の手元はブレることなく、スムーズに進んでいく。
颯太はその様子を見守りながら、思わずつぶやいた。
「すごい…谷中先生の手際、本当に無駄がない」
背後で幽霊の真田先生がふと笑う。
「経験というものだよ、颯太。お前もいつかこんなふうに…いや、それ以上に患者に信頼される医者になれ」
「子宮が見えました」
谷中先生が宣言すると、看護師が吸引チューブを操作し、周囲の視界をクリアにした。赤く染まった手術部位がはっきりと現れる。
「出血量は?」
木村先生が確認すると、看護師が即座に答える。
「正常範囲内です」
「では、胎児を取り出す準備に入ります」
谷中先生の声がさらに集中力を帯びたものになった。看護師が手術器具を迅速に渡し、谷中先生は子宮壁を切り開いていく。指示と動作が一瞬のズレもなく繰り返され、次第に赤ん坊の小さな頭が姿を見せ始めた。
「頭が出ます…よし、全員準備!」
谷中先生の手が慎重に赤ん坊を支えながら、胎児をゆっくりと引き出していく。その瞬間、手術室の全員が息を詰めた。
「胎児を取り出します!」
谷中先生の宣言とともに、小さな身体が手術台の上に現れた。濡れた赤い皮膚と、まだ動かない小さな手足が、命の危機を物語っている。
「心拍が弱い!保育器!」
小児科の伊藤先生がすぐさま声を上げ、看護師たちは迅速に動き出した。赤ん坊は専用の保育器に運ばれ、蘇生処置が開始される。
「1分経過、アプガースコア3点」
看護師が記録を読み上げる。アプガースコアとは、新生児の健康状態を評価する指標で、10点満点中3点は重篤な状態を示していた。
「酸素飽和度80%、自発呼吸なし。気道確保!」
伊藤先生は正確な指示を出し、看護師が即座に蘇生用バッグとマスクを準備。マスクが赤ん坊の小さな顔に当てられ、バッグを圧迫して酸素が送り込まれる。
「30秒経過、胸郭の動きなし。気管挿管準備!」
伊藤先生の指示で、赤ん坊に気管挿管が施され、酸素供給がさらに効率的に行われるよう調整された。
「心拍数を確認!」
看護師が赤ん坊の胸骨下部に聴診器を当てるが、依然として心拍は不規則で弱い。
「心拍数が60回未満。胸骨圧迫を開始!」
伊藤先生が看護師に指示を出し、赤ん坊の胸骨を指2本で正確に押し下げる心臓マッサージが始まった。胸骨を下げる深さは約1/3、リズムは毎分120回。圧迫とバッグ換気が3対1の割合で繰り返される。
「1分間で心拍数回復なし。薬剤を投与します。エピネフリン準備!」
静脈確保が難しい新生児には、臍帯静脈を利用してエピネフリン(アドレナリン)が投与された。これにより、心臓のポンプ機能を回復させる狙いがある。
「エピネフリン投与後、再度心拍確認!」
緊張が張り詰める中、看護師が聴診器を当てた瞬間、微かな鼓動が聞こえ始めた。モニターにも心拍数の上昇が表示され、60回を超えるリズムが確認される。
「心拍数80回、酸素飽和度92%に上昇。呼吸反射も確認!」
看護師の報告に、手術室全体がようやく一瞬安堵の空気に包まれる。
「酸素供給を続けながら保温措置を! NICUへの移送準備!」
伊藤先生が冷静に次の指示を出し、新生児は保育器に入れられ、暖かいタオルで包まれた。
「子どもの状態は安定しました!」
伊藤先生の声が手術室に響き、全員が小さく息をついた。その瞬間、颯太は改めて医療の現場で命を扱う重みを感じ取った。真田先生の声が背後から響く。
「よかったな。これからが本番だ」
颯太は静かに頷き、次の課題である母体の心臓修復手術へと気持ちを切り替えた。
「胎盤を剥離します!」
谷中先生の声が再び響き、子宮内部の処置が始まった。小さな胎児が無事に保育器へ運ばれた後も、母体の安全を確保するための重要な工程が続いている。
「胎盤剥離、出血確認。スポンジ!」
看護師が素早く応じ、消毒済みのスポンジを手渡す。谷中先生は剥離面を丹念に確認し、出血の量を最小限に抑えるよう慎重に操作を進めた。
「子宮の収縮が弱い。子宮収縮剤、追加投与!」
看護師が用意した薬剤を投与し、出血を減らすための措置が取られる。颯太はモニターを見つめ、血圧や心拍数が変化していないことを確認しながら谷中先生の手技に目を凝らしていた。
「収縮を確認。縫合に入ります」
谷中先生の声に緊張感が漂う手術室が再び静けさを取り戻した。縫合用の糸が手渡され、器用な手つきで子宮壁が一針一針縫われていく。
「筋層の縫合完了。次に漿膜層を縫います」
縫合は層ごとに丁寧に進められる。谷中先生の動きには一切の迷いがなく、手術に関わるすべてのスタッフがそのリーダーシップに信頼を寄せていた。
「腹部の閉創に移ります」
谷中先生が宣言し、皮膚と筋肉層の縫合に取り掛かる。消毒を終えた皮膚を注意深く合わせながら、綺麗な縫合線が描かれていく。
「皮膚の縫合完了。シートを貼ります」
看護師が指示に従い、母体の腹部が丁寧に専用のシートで覆われた。
「これで帝王切開の処置は終了です」
谷中先生が手袋を外しながらそう告げた。手術室には静かな達成感が漂い、颯太も深く息を吐いた。