颯太は光を病室へ送り届けた後、屋上に向かった。背後から真田先生の声がした。
「颯太。末道さんの事は残念だったな…」
颯太は静かに頷き、ベンチに腰掛けた。その横に真田先生も腰かける。
「末道さんの病気の事、かなり勉強したんだろう?治療はどうしようと思っていた?」
颯太は屋上の冷たい空気を吸い込み、遠くの街並みをぼんやりと見つめた。真田先生の問いかけに、しばらく言葉を探していたが、やがて小さく口を開いた。
「…はい。末道さんの状態について、できる限りの文献を調べました。TAPVR(総肺静脈還流異常)は、特に成人で妊娠中となると症例が少なく、治療の選択肢も限られていました。でも、彼女の心臓の負担を軽減するために、酸素療法や血行動態のモニタリングを徹底して行いながら、できるだけ出産まで母体を安定させる方針を考えていました」
真田先生は目を細めながら、静かに頷いた。
「なるほど。具体的なアプローチはどうだった?」
「心エコーの結果を基に、肺静脈の狭窄の程度や右心負荷を評価しながら、低酸素血症を防ぐために必要なら短期間のカテーテル治療も視野に入れていました。ただ、妊娠中ということを考えると、胎児へのリスクを最小限にする必要があります」
颯太の声は、焦りや無力感が滲んでいた。
「それでも、彼女の体調が悪化した場合、緊急の帝王切開での出産も含めて考えるしかない状況だったんです。どちらにしても、リスクが高いことに変わりはありませんでしたけど…」
真田先生は静かに頷き、手を膝の上で組んだまま、しばらく沈黙していた。
「そうだな。まぁ、お前はよく考えていたと思うぞ」
その言葉に、颯太は驚いたように顔を上げた。
「でも、結局、僕が担当を降りることになって…計画を実行に移すことはできませんでした」
真田先生は軽く首を横に振った。
「いいか、颯太。医者は患者の全てを背負い込むことはできない。それでも、お前がここまで末道さんのために考え、準備をしてきたことは確かだ。それがどんな形であれ、患者の命を守るというお前の信念は変わらない。それだけは忘れるな」
その言葉に、颯太は少しだけ目を伏せたまま、静かに頷いた。
「でも…僕がもっと早く、もっと上手く対応できていれば…」
真田先生は颯太の言葉を遮るように、柔らかい声で言った。
「すべての判断が正しい結果を生むわけじゃない。それでも、迷いながらも向き合うお前の姿勢は、必ず誰かに届いている。末道さんも、お前のことを信じていたじゃないか」
颯太はその言葉に胸が熱くなるのを感じた。冷たい風が頬をかすめても、真田先生の存在はどこか暖かかった。
それからも、光の担当医は外れたが、TAPVR(総肺静脈還流異常)のこと、成人の症例、妊婦の症例に関する情報を集め続けた。颯太にもなにかできることがあるんじゃないかと思った。そうして2週間がたった。
その日、颯太が朝出勤すると医局内で鷹野先生と木村先生が何かを話しながら医局から出ていくところだった。
「神崎くん。おはよう…末道さんの容態が急変したんだ…」
その一言が胸に響き、全身が冷たく締め付けられるような感覚にふるえる。鷹野先生と木村先生の険しい表情が、状況の深刻さを物語っている。
「急変…ですか?どんな状態なんですか?」
颯太はすぐさま木村先生に詰め寄るように問いかけた。木村先生は額に浮かぶ汗を拭いながら説明を始めた。
「明け方に、末道さんが突然の強い呼吸困難を訴えたんだ。看護師がすぐに駆けつけたときには、チアノーゼ(皮膚や唇が青紫色になる状態)がはっきりと現れていて、SpO2(動脈血酸素飽和度)が急激に低下していた。血中酸素飽和度は80%まで落ちていたよ」
颯太の心拍が早くなる。TAPVRは心臓と肺の間の血流に異常をきたす病態だ。酸素化された血液が全身に適切に供給されないため、呼吸困難や低酸素血症が急激に悪化することがある。まさにその典型的な症状が出ているのだ。
「酸素投与は…?」
「すぐに高濃度酸素投与を開始したが、効果は限定的だった。それに、末道さんの心拍数が不安定になり始めている。右心不全が進行している可能性が高い。心エコーで右心室の拡張と肺静脈の狭窄がさらに進んでいることが確認された」
「血圧やその他のバイタルは…?」
「血圧は収縮期で80を下回る低血圧状態だ。さらに頻脈が進んでいて、心拍数は120を超えている。循環不全に陥りつつある状況だ」
木村先生の説明を聞きながら、颯太の頭の中で治療プランが次々と浮かび上がる。しかし、妊娠中という特殊な条件がそれを複雑にしている。
「胎児は…?胎児の状態はどうですか?」
颯太の声には焦りがにじんでいた。木村先生は深刻そうに眉を寄せて答えた。
「NST(胎児心拍数モニタリング)でも胎児の心拍が不安定だ。胎児心拍数が低下している。胎児も低酸素状態に陥っている可能性が高い」
「緊急の帝王切開を検討しているんですか?」
颯太は続けざまに問いかけたが、木村先生は眉間に皺を寄せながら首を振った。
「それも視野に入れているが、母体の状態が安定しない限り、手術のリスクは非常に高い。鷹野先生が中心になって治療方針を検討しているが、まだ結論が出ていない」
その時、鷹野先生が鋭い声で話を切り出した。
「木村、無駄話は終わりだ。神崎、君に言えることは何もない。この状況で私の治療方針に口を挟むつもりか?」
颯太は鷹野先生の冷たい言葉に一瞬戸惑ったが、心を奮い立たせて言葉を続けた。
「鷹野先生、お願いです。僕も手術に入らせてください。末道さんのために、少しでも力になりたいんです」
鷹野先生は眉間にしわを寄せ、鋭い声で切り返した。
「君が手術に入って何ができる?未熟な医者が手術室で足を引っ張るだけだろう。ここは私が指揮を執る。口を挟むな!」
颯太はその言葉に一瞬気圧されたが、それでも頭を下げたまま食い下がった。
「お願いします!僕は…僕は未熟です。でも、この数週間、TAPVRの症例について徹底的に勉強しました。何かあった時に、少しでも情報をお伝えできるかもしれません。せめて、見学だけでも構いません。どうか、手術に立ち会わせてください!」
鷹野先生は苛立ったように息を吐き、視線を逸らした。その場に居合わせた木村先生が、冷静な声で口を開いた。
「鷹野先生、一人でも多く、この病気について知識を持つ医師が手術室にいる方が、今後の症例管理にも繋がります。神崎くんの知識が役立つ可能性もゼロではないでしょう。それに迷っている時間はない」
鷹野先生は木村先生の言葉に一瞬考え込むような表情を見せた後、苛立ちを押し殺すように短く頷いた。
「…わかった。ただし、私の指示に従え。それ以外のことは何もするな。いいな?」
「はい、ありがとうございます!」
颯太は深く頭を下げ、心の中で自分を奮い立たせた。
鷹野先生が去り、木村先生が午前中の外来を変わりに診察してもらうよう、他の医師たちへ配分している間、颯太は医局のモニターに表示された光の検査結果に目を凝らしていた。数字や波形の一つひとつが、彼女と胎児の命の危機を如実に物語っている。手元にはプリントアウトされた胸部X線画像や心エコーの結果が置かれていた。
「…これはひどい状態だな」
後ろから聞こえる真田先生の声に、颯太は肩を少しだけ跳ねさせた。振り向くと、そこには相変わらずの落ち着いた表情の真田先生が立っていた。
「真田先生、見てください。酸素飽和度はわずか777%。血液ガス分析でもPaO2が極端に低いし、乳酸値も…5.8 mmol/Lです」
颯太が手にしたプリントを指し示すと、真田先生はそれを覗き込んで小さく頷いた。
「なるほどな。この低酸素血症でよくここまで持ちこたえている。心臓が悲鳴を上げている証拠だ」
颯太は心エコー画像を指差した。
「それだけじゃないです。右心負荷が…。右房も右室も拡張していて、三尖弁逆流もひどい。肺静脈が全て右心房に還流しているせいで、全身の酸素供給が完全に不足しているんです」
真田先生が視線をスライドさせ、胸部X線の画像をじっと見つめた。
「肺水腫だな。これも進行している。蝶形陰影がくっきり出ている。肺静脈の圧力が限界を超えているんだろう」
「…しかも、この状態で胎児も危機的状況です」
颯太は心拍モニタリングの結果を示しながら言葉を続けた。
「胎児の脈拍は基準値を大きく下回っています。遅発性減速が何度も記録されていて、羊水も明らかに少ない。胎児仮死の可能性が高いです…」
真田先生は腕を組みながらふっと笑った。
「よく分析できているじゃないか、颯太。だが問題は、鷹野先生だ」
「鷹野先生ですか?」
真田先生の表情が険しくなる。
「あいつが『人工心肺はリスクを増やすだけだ』と主張しているのを聞いた。だが、この患者の状態で人工心肺なしで心臓の修復を試みるのは、無謀としか言いようがない」
颯太は唇を引き結び、手元の検査結果を握り締めた。
「…でも、鷹野先生は聞き入れないでしょうね」
真田先生は肩をすくめた。
「まあ、あいつのことだ。だが、颯太、お前はここまできちんと見抜いている。この患者に必要なことも、お前ならわかるはずだ」
颯太は小さく頷き、モニターを見つめ直した。
「たとえ現場で言える状況にならなくても、僕は最後まで準備をしておきます。できる限りのことを」
真田先生が満足そうに微笑み、
「その意気だ」
と一言だけ言い残し、ふっと姿を消した。
手術室に向かう途中、颯太は待合室に座る光の家族を目にした。光の夫が青ざめた顔で手を握りしめ、祈るようにうつむいている。隣には、威圧感のある表情で腕を組む光の父親・末道孝弘の姿があった。その隣には、母親らしき初老の女性が涙を拭いながら不安げな表情で座っている。
颯太は一瞬足を止めたが、木村先生が軽く肩を叩いて前を促した。
「行こう、神崎くん」
「はい…」
颯太は力強く頷き、再び歩き出した。
颯太が手術室に足を踏み入れると、空気が張り詰めていた。緊張感の中、白衣の背中がいくつも動き、手術台の周囲で準備が進められている。すでに産婦人科の谷中先生、小児科の伊藤先生が待機しており、それぞれのチームが細やかな動きを見せていた。
谷中先生が颯太に気づき、軽く頷いた。いつもの穏やかな表情ではあるが、その目には強い意志が宿っている。
「神崎先生、来てくれたのね」
「はい。末道さんのために、少しでもお役に立てればと思って」
颯太が緊張した面持ちで答えると、谷中先生は小さく微笑み、視線を手術台に向けた。台の上では光が麻酔によって眠っており、すでに人工呼吸器が装着され、心電図モニターが規則的な音を刻んでいるが、その波形は不安定だった。