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第8話

会議が終わり、午前中の外来診療を終えた颯太は、気持ちを整えながら産婦人科病棟へ向かった。光に一時的だが、担当医が変更になることを自分の口から説明しなければならない。彼女の反応を思い浮かべるたびに、胸の奥が重くなる。


病棟に足を踏み入れた颯太は、光の病室へ向かおうとしたが、途中で談話室から聞き覚えのある声が聞こえて足を止めた。


「鈴木さん、刺繍すごく上手ね!こんなにきれいにできるなんて、私には真似できないわ」


「あはは、ありがとうございます!でも、この箇所はちょっとだけ失敗しちゃったんです」


談話室のドアが少し開いており、中を覗くと、光が椅子に腰掛け、循環器病棟に入院している患者である鈴木桜と楽しそうに話しているのが見えた。

桜は17歳の女の子で、テーブルの上には裁縫道具や糸が広がっている。


「それにしても、鈴木さん、本当に器用ね」



光は笑顔を浮かべながら、桜に目を細めた。


「父親が出張ばっかりで、おばあちゃんと過ごすことが多いから教えてもらったんです。ほら、心臓の病気で体調が悪い日もあったからいい暇つぶしになってて…」


桜の無邪気な声と光の穏やかな笑い声が、談話室を温かく包んでいた。その光景に、颯太はしばらく見入ってしまった。


(二人ともいい笑顔だな)


光の穏やかな表情を見ていると、自分が担当医として離れることが彼女にどれだけの影響を与えるのか、不安が募る。光はふと目線を上げ、ドアの隙間に立つ颯太に気づいた。


「先生?」


光は驚いたように声を上げ、椅子から立ち上がろうとした。


「そのままで大丈夫です」



颯太は慌てて手を振りながら部屋に入る。


「鈴木さんとお話してたんですね」


「はい。鈴木さんが刺繍を教えてくれて…。とても楽しい時間を過ごしていました」


光は笑顔を見せたが、その目には微かな疲れが宿っている。


「鈴木さん、すごく器用なんだね。知らなかった…」



颯太が桜に声をかけると、彼女は少し得意げに胸を張った。


「今度先生の白衣にも刺繍してあげますよ~。何がいいかなぁ?」


その元気な言葉に、颯太は自然と微笑んだ。


「えっ?!白衣に刺繍はちょっと…。末道さんとお話があるんだ。ちょっとだけいいかな?」


「わかりました。末道さん、また病室に遊びに来ますね」


桜が手を振って談話室を出ていく。光も小さく手をふり笑顔で桜を見送った。


「お知り合いだったんですか?鈴木さんと」


颯太が光を見ると、小さく首をふる。


「いいえ。むこうの産婦人科病棟の新生児室で知り合ったんです」


産婦人科病棟は婦人科疾患の病棟と、出産を控える患者の病棟にわかれている。光がいるのは婦人科疾患の病棟で、反対側にある出産を控える患者の産科病棟には新生児室があり、大きな窓から中の様子が見れるのだ。


「新生児室の前ですか?」


「ええ。鈴木さんが熱心に赤ちゃんを見ているから、産科病棟の方かと思って話しかけたんですよ。そしたらまだ17歳だっていうから驚いちゃって」


そういえば、桜が以前「新生児室から生まれたての赤ちゃんを見るのが癒しだ」と言っていたのを思い出した。そこで知り合ったのだろう。


「心臓疾患を抱えていると聞いて意気投合したんです。手芸が好きっていう共通点もあって驚きました」


颯太は光の話に耳を傾けながら、彼女の表情を観察していた。赤ちゃんの話題になると、その顔は自然と柔らかく明るくなる。


「鈴木さんと話していると、いろいろ刺激を受けちゃって。私も、もっと赤ちゃんのために何か作ってあげたいなって思ってるんです」


光は目を輝かせながら続けた。


「編み物で靴下やベストはもうすぐできそうですけど、刺繍で名前を入れたりするのも素敵ですよね。でも、こんなに不器用な私にできるかなぁ」


「末道さんならできますよ」



颯太は微笑みながら言った。


「きっと宝物になりますね」


その言葉に、光は嬉しそうに頷いた。


「はい。赤ちゃんが生まれるまでに、何か一つでも形に残せたらいいな」


その柔らかな笑顔に、颯太の胸がまた苦しくなる。自分が担当を外れると伝えることで、彼女のこの穏やかな気持ちを壊してしまうのではないかと不安がよぎる。それでも、言わなければならない。責任を持つ医師として、自分の口から正直に伝えるべきだと心に決めた。


「末道さん」



颯太は硬い声で呼びかけた。


「実は、今日お伝えしなければならないことがあります」


光はその言葉に表情を曇らせた。


「…どうしたんですか?先生、そんなに改まって」


「末道さんの治療についてですが…僕が担当医を続けることが難しくなりそうなんです」


一瞬の沈黙が部屋を包む。光の表情には困惑と戸惑いが混ざっていた。


「どういうことですか?先生、急にそんな…」


「昨日も病室の方でお話しましたが…やはり、末道さんのお父様から、僕が担当医であることについて懸念があるとのご意見をいただきました。それを受けて、院内で話し合いが行われた結果、一時的に担当を変更する方向で進むことになりそうです。今後どうなるか最終決定ではないのですが…」


光は目を見開き、信じられないといった表情で颯太を見つめた。


「…私、神崎先生がいいです」


その言葉に、颯太の胸はさらに締め付けられる。


「末道さん、僕も最後まで担当医として全力でサポートしたいと思っていました。…今でもそう思っています。まだ、最終決定ではないですが、完全に僕が担当を外れることになれば、僕一人では覆せません。それでも、僕が担当から外れることで、少しでもご家族が安心されるなら、それが最善だと考えています」


光は俯き、手元の膝掛けをぎゅっと握りしめた。


「ごめんなさい…。父が余計なことを…」


その静かな言葉に、颯太の心が揺れた。


「僕こそ…本当にすみません」


颯太は深く頭を下げた。


「ただ、今後の治療についても安心して受けていただけるよう、次の担当医ともしっかり連携を取ります。そして、いつでも何かあれば僕に声をかけてください。担当医でなくても、末道さんと赤ちゃんの力になりたいと心から思っています」


光は涙を浮かべながら、微かに頷いた。


「先生…本当にありがとうございます」


末道さんの落胆した表情を見つめながら、颯太は虚無感にかられていた。


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