翌朝、颯太は少し早めに病院に到着した。冬の澄んだ空気が冷たく、吐く息が白く広がる。歩き慣れた病院のエントランスへ足を向けると、そこで思いもよらない人物が待っていた。
「おい、颯太」
入口近くの柱に寄りかかるようにして立っているのは幽霊の真田先生だった。普段は颯太の都合も関係なく、気まぐれに現れる彼が、こんな風に待ち構えているのは珍しい。
「真田先生、どうしたんですか?」
颯太が驚いたように声をかけると、真田先生は急かすように鋭い声で言った。
「まずいことになったぞ。とにかく医局へ急げ」
その言葉に、颯太の胸がざわついた。
「まずいことって…末道さんの容態が悪化したんですか!?」
颯太は思わず尋ねながら、走り出した。真田先生がそれに答える間もなく、颯太の頭の中には、光の疲れた顔や会話、編み物をする姿が浮かんでいた。編み物をして微笑んでいた姿が、急に苦しそうに変わるイメージが脳裏をかすめる。
「末道さん…!」
真田先生はその後ろを悠然とついてきながら、ため息をつくように言った。
「落ち着け、颯太。末道さんの容体が急変したとは言っていないだろう」
「だったらなんなんですか!」
颯太はイライラを抑えきれずに叫ぶように言ったが、真田先生の答えを待たずに走り続けた。
医局のドアを勢いよく開け放つと、普段よりも早い時間にも関わらず、すでに数人の医師たちが集まっていた。木村先生と藤井先生、そして鷹野先生の姿もある。全員が険しい表情をしており、部屋の空気が張り詰めているのが分かった。
「神崎くん」
木村先生が颯太に気づき、厳しい声で呼びかけた。
「…おはようございます」
颯太が頭をさげると、藤井先生が疲れた様子で言葉を継いだ。
「末道さんのお父さん…末道孝弘氏が、病院に正式にクレームを申し立ててきた」
「クレーム…?」
颯太の胸が冷たく締め付けられる。
「昨日、末道氏が院長に連絡を入れたらしい」
鷹野先生が低い声で補足するように言った。その視線は相変わらず冷たく、容赦のないものだった。
「院長は一旦、この件について話し合いを持つ予定だ。お前の担当から降ろすべきかどうかを含めて、な」
颯太はその言葉に息を呑んだ。頭の中で昨日の光との会話や、父親の態度が思い返される。
「そんな…」
颯太が言葉を失っていると、木村先生が呟いた。
「僕は納得できないな。神崎くんは十分に患者と向き合っているし、末道さん自身も信頼している様子だ。それに、このタイミングで担当を変えるのは患者にとってもリスクがあるだろう」
その言葉に、藤井先生も軽く頷いたが、鷹野先生は冷淡な態度を崩さなかった。
「リスク?それは感情論だ。患者の家族が不安を訴えている以上、病院として対応するのは当然だろう」
颯太は拳を握りしめながら言葉を探した。しかし、そこに真田先生の冷静な声が響いた。
「さあ、どうするんだ、颯太。お前は黙ってその判断を受け入れるのか?」
もちろん、真田先生の声は他の誰にも聞こえていない。颯太だけがその言葉を感じ取っていた。
(俺がここで何も言わずに引き下がれば、末道さんとの信頼も壊れる。それに、この件を理由に担当を降りるのは、自分自身を裏切ることになる…)
颯太の胸の中で葛藤が渦巻く。深く息を吸い込んで、彼は意を決して口を開いた。
「僕は末道さんの担当医を降りるつもりはありません」
その言葉に、部屋の空気が一瞬静まり返った。鷹野先生の目が鋭く細められる。木村先生は驚いたように少し眉を上げた。颯太が鷹野先生に真っ向からはっきりと意見を言ったのは初めてだった。
「僕の父の過去や、村上さんの件は否定できない事実です。でも、それが理由で僕が目の前の患者さんと向き合う資格を失うとは思いません」
颯太の声は、わずかに震えながらも確固たる意志がこめられている。
「末道さんが安心して治療を受けられるよう、僕が責任を持ってサポートします。それを家族の方にも理解してもらえるよう、僕自身が話をします。だから…」
その言葉に、藤井先生が小さく笑みを浮かべ、木村先生もゆっくりと頷いた。鷹野先生は何も言わず、冷たい目で颯太を見つめている。
「神崎、勘違いするな。これはおまえがどうしたいかじゃない。院長と先方が決めることだ」
鷹野先生の低い声が部屋に響く。
颯太はその冷たい視線に一瞬言葉を詰まらせたが、何とか踏みとどまった。鷹野先生の言っていることも一理あるからだ。それでも、胸の奥に重くのしかかる不安を感じずにはいられなかった。
その日の午前診療が始まる前、急きょ院内で会議が開かれることになった。出席者は院長、鷹野先生、木村先生、産婦人科の谷中先生、そして颯太。会議室には重苦しい沈黙が流れ、皆がそれぞれの考えを胸に秘めていた。
颯太は会議室に入るなり、冷や汗が滲むのを感じた。ミーティングテーブルの向こう側には院長が厳しい表情で座っており、その隣には穏やかながらも鋭い眼差しを持つ谷中先生がいた。木村先生は少し疲れた顔をして椅子に寄りかかっている。
最後に入ってきた鷹野先生が、扉を閉める音とともにその重苦しい空気をさらに押し固めるような威圧感を放ちながら席に着いた。
鷹野先生が腕を組み、周囲を見回した後、静かに口を開いた。
「では、始めましょう。村上さんの件もまだ記憶に新しい中で、今回の末道さんの家族からのクレームは極めて重大です。患者の信頼を得られない担当医に、さらに責任を負わせるのはリスクが高いと言わざるを得ないでしょう」
その言葉に、颯太は反論したい気持ちを押し殺し、拳を握りしめた。鷹野先生の視線が彼を一瞬射抜くように向けられた後、院長に移る。
「院長、この件についてどうお考えでしょうか」
院長は少し目を閉じて考え込むような仕草を見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、末道光さんの父親である末道孝弘氏は、非常に影響力のある方だ。病院としても、彼からの信頼を失うわけにはいかない。多額の寄付もしてもらっている」
その言葉を聞いて、颯太の心臓が一瞬止まったような気がした。院長は続けた。
「だが、それ以上に重要なのは、末道さんご本人の意向だ。我々が対応を誤れば、患者自身の治療に悪影響を及ぼす可能性がある。それについてはどうお考えですか、谷中先生」
院長の問いに、谷中先生は静かにうなずきながら口を開いた。
「私もそう思います。末道さんは非常に繊細な状態にあり、治療の進行を混乱させることは避けるべきです。今日も末道さんと直接お話しましたが、神崎先生への信頼を感じました。ただ、家族との調整は難航するでしょうね…」
谷中先生は大きくため息をついた。
木村先生が軽く咳払いをし、鷹野先生に目を向けた。
「鷹野先生、家族の意向と患者本人の意向が食い違う場合、どちらを優先するべきか、過去の事例でも議論になっています。今回も慎重に判断すべきではないでしょうか」
鷹野先生は冷ややかな笑みを浮かべた。
「慎重に判断するのは当然だ。しかし、問題は神崎が担当を継続した場合、患者の命を救えるかということだろう。院長、村上さんの件を思い出してください」
その言葉に、颯太は耐えきれず声を上げた。
「確かに村上さんの件は反省しています。ですが、それを理由に末道さんとの信頼を壊すのは本末転倒です。僕は末道さんの担当医として責任を持って対応したい。それを証明するためにも、ご家族とも直接話をさせてください」
その一言に、会議室内が静まり返った。院長は腕を組み、深く考え込むような表情を見せていた。
「神崎くん、君の言いたいこともわかる」
院長は一瞬ため息をつきながら、颯太に視線を向けた。
「だが、一旦方針が決まるまで、担当を変わってもらえるかな」
その言葉に、颯太の胸が締め付けられた。反論しようと口を開きかけたが、院長の表情からそれ以上の言葉を発することが許されないと悟った。
その瞬間、鷹野先生が口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そして、静かに右手を上げながら言った。
「では、私が担当になりましょう」
会議室の空気が一層重くなる。木村先生が眉をひそめているのが見えた。
「私であれば、末道さんの家族とも冷静かつ適切に話を進められると思います」
鷹野先生は自信たっぷりに続ける。
谷中先生が一度深く息をつき、院長の方に視線を送ると、院長は静かに頷いた。
「では、末道さんのご家族からの要望を考慮し、現段階では鷹野先生に担当を引き継いでもらう形にします」
院長が結論を下すと、鷹野先生はにやりと笑みを浮かべ、会議室内は一瞬の静寂に包まれた。颯太は胸の奥がぎゅっと締め付けられる感覚に襲われたが、表情には出さず、冷静を装ったままだった。木村先生が軽く眉を寄せたが、何も言わず院長の言葉を受け入れた様子だった。
「鷹野先生、神崎先生、引き継ぎの準備をお願いします。そして、末道さんの病状やこれまでの経過について、改めてしっかりと確認してください。谷中先生もサポートを」
院長が指示を続ける。
「もちろんです」
鷹野先生は即答し、口元に自信を浮かべた。
颯太は視線を落としながら、内心で悔しさを噛み締めていた。患者のために最善を尽くすべきは医師の責務だと分かっている。だが、光の命を託されている自分が退けられる形になったことがどうしても納得できなかった。
会議が終わり、全員が立ち上がる中で、木村先生が小さく肩を叩いてきた。
「神崎くん、大丈夫だ。こういうこともある。だが、君の努力は決して無駄にはならないよ」
低い声で励ますように言った。
颯太は軽く頷くことしかできず、会議室を後にする足取りはどこか重かった。鷹野先生の後ろ姿を見つめながら、心の奥で次の一手を考え始めていた。