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第6話

颯太は、泣き疲れて眠りに落ちた光のベッドサイドで、そっと心電図や聴診器を用いて簡単な確認を行った。数値に大きな異常は見られなかったものの、孝弘との会話、そして彼女の涙が頭にこびりついて離れない。


「義父がすみません…」


健一が申し訳なさそうに頭を下げる。


「俺、婿養子で…その…強く止められなくて」


「いえ…。後はお願いします」



颯太は看護師に短く声をかけ、健一に頭を下げると、光を託して病室を後にした。

病棟を出て医局に戻ると、夜も遅いせいか、室内には夜勤のスタッフが数名いるだけだった。明かりの下では藤井先生がデスクで書類を整理していた。

颯太が入るなり、藤井先生は顔を上げて彼を見た。


「神崎」



藤井先生は立ち上がり、なぜか近寄ってきた。そして、真顔で近づき、謎の言葉を口にした。


「もう帰りだろ。俺も帰るところだ」


颯太はその言葉に一瞬きょとんとして、首をかしげた。


「…はい?え、藤井先生、どういう意味ですか?」


藤井先生は一瞬苛立ったように眉をしかめたが、すぐに大きくため息をついて言い放った。


「早く着替えろ。行くぞ」


その一言に、颯太の頭の中はますます混乱した。


「行くって、どこにですか?」


「お前の家に行くわけじゃないぞ。一緒に帰るって意味だ」



藤井先生はあっけらかんと答えながら、ロッカーに向かう。

颯太は目を瞬かせながら、藤井先生の背中を見つめた。


「いや、一緒に帰るって…どういうことですか?」


「うるさいな。お前、さっさと着替えろ」


その言葉に、颯太は驚いたように目を見開いた。普段、藤井先生はクールで、自分のことに関心が薄そうに見えたが、意外にも自分の様子を気にかけていたのだと気づいた。


「…わかりました」


颯太は小さく頷き、着替えを済ませると藤井先生と並んで医局を後にした。二人は無言のまま病院の廊下を歩き、外に出る。冷たい夜風が二人の頬をかすめ、颯太は自然とポケットに手を突っ込んだ。

藤井先生がどこに住んでいるのか、どう帰るつもりなのか、颯太は何も知らなかった。ただ、藤井先生のペースに合わせながら、自分の家の方角へ向かって歩いていた。


病院から少し離れた住宅街を抜け、静かな公園にさしかかると、藤井先生が立ち止まり、ふと振り返った。


「神崎」


「はい?」


「少し座っていくか」


藤井先生はそう言うと、颯太が答える前に公園のベンチを指さした。


「えっと…座るんですか?」



颯太が戸惑いながら聞くと、藤井先生は短く頷いてベンチに向かった。


「ああ」


藤井先生はベンチに腰を下ろし、片方の手でジャケットのポケットを探るような仕草をしている。颯太もためらいながら隣に座った。


「…」


2人はじっと黙っていた。すると藤井先生はポケットから取り出した小さな缶を颯太へ差し出した。


「おしるこ…」


藤井が差し出したのはおしるこの缶だった。ガシャッと横の藤井先生も缶をあけそれを勢いよく飲んでいる。あたりに甘い匂いがひろがった。颯太も渡されたあたたかい缶をあけ、口に含んだ。懐かしい味だ。

心臓外科医は体力を使うせいか、甘党が多いがどうやら藤井先生もそうらしい。


「担当をかえろと言われたのか」


颯太は突然の藤井先生の言葉にゆっくり頷いた。


「藤井先生の耳にも入ってたんですね」


「…医局で鷹野先生と木村先生が話していた」


おしるこの甘い匂いが漂う中、二人はしばらく無言で座っていた。ぬるくなった缶を手の中で温めるように握りながら、颯太は黙っていた。そんな時、藤井先生が不意に口を開いた。


「神崎」


「はい」


藤井先生は颯太の方を見ず、遠くを見つめながら淡々と言った。


「お前は、いい医者だ」


その言葉に、颯太は驚いて顔を上げた。普段無表情で、必要以上に言葉を発しない藤井先生が、こんな風に褒めることは滅多にない。


「…ありがとうございます」


颯太は少し戸惑いながら答えたが、藤井先生は構わず続けた。


「村上さんのことだって、末道さんのことだって、全力で向き合っているのは分かる。まだ俺たちは若いし、経験も少ないかもしれないが、それが何だ?患者を真剣に見ているかどうかが、一番大事だろ」


颯太はその言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。それでも、自分が「いい医者」だと言われることに違和感が拭えない。


「でも…いい医者では…ないとおもいます。間違えるし…迷ってばかりで…」


颯太が俯きながら呟くと、藤井先生は軽くため息をついて言った。


「そんなの当たり前だ。ベテランだってミスをする。鷹野先生だって木村先生だってそうだ。それでも、お前のように全力で患者と向き合っている医者は、そう多くない。神崎、お前はいい医者だ」


再びその言葉を聞かされ、颯太は黙って缶に視線を落とした。おしるこの温かさが、手の中でじんわりと広がっていく。

しばらくの沈黙の後、藤井先生は低い声で続けた。


「…鷹野先生が何を考えているかは分からないが、少し前に俺にお前を監視するように言ってきたことがある」


「監視…ですか?」


驚きのあまり、颯太は藤井先生の顔を見た。藤井先生は、いつもの無表情で淡々と話を続ける。


「お前の行動を報告しろと言われた。患者への対応、診察の内容、ちょっとしたミスまで全部だ。正直、俺にはお前がそんなに問題のある医者とは思えなかったが、言われた通り報告をしていた。その時は特に何も考えていなかったからな」


藤井先生はおしるこの缶を置き、ゆっくりと体を伸ばした。


「でも、有村さんの手術後から、突然『もう報告しなくていい』と言われた。それから、何も言ってこなくなった。…神崎」


藤井先生は、少し視線を低くして颯太の顔を見た。その目には、普段とは違う真剣な色が宿っていた。


「お前も気づいているかもしれないが、鷹野先生はお前を旭光総合病院から追い出す気だ。たぶん、村上さんの件を理由にするつもりなんだろう。今回の末道さんの件も何をするかわからない。気を付けろ」


その言葉に、颯太の体が一瞬こわばる。今までの鷹野先生の言葉や態度、医局で聞こえてきた電話や村上さんの件での会議が走馬灯のように駆け巡った。


「追い出す…理由があるんですか?」


「それは俺にも分からない。ただ一つ言えるのは、鷹野先生はお前をよく思っていない」


颯太は、缶を握りしめながら、鷹野先生の冷たい視線や厳しい言葉を思い返した。村上さんの件で責任を追及された時のことも、頭に浮かぶ。


「…どうしたらいいんでしょうか?」


小さな声でそう呟くと、藤井先生は肩をすくめて立ち上がった。


「それは俺にも分からん。でも、目の前の患者に向き合っていればいいんじゃないのか。それが俺たちの仕事だからな」


藤井先生は手に持っていた缶を軽く振り、中身がもうないことを確認すると、近くのゴミ箱に向かって投げ捨てた。缶がカランと音を立ててゴミ箱に収まる。


「帰る」


藤井先生は言いたいことを言い終わった様子で、颯太の方を一瞥し、ゆっくりと歩き出した。


「それと、俺がここで話したことは口外しないでくれ」


足を止めることなく、藤井先生は続けた。


「そろそろ電車が来るからな」


颯太は立ち上がり、去りゆく藤井先生の背中に向けて声をかけた。


「藤井先生…ありがとうございました」


藤井先生は振り返ることなく、片手を軽く上げて応えた。それ以上何も言わず、今来た道を戻っていく。

その姿が見えなくなるまで見送った後、颯太は冷たい缶を握りしめながら静かに歩き出した。夜道を一人進む中で、先ほどの会話を反芻する。


(病院から駅はすぐ近くなのに…わざわざここまでついてきてくれたんだな)


颯太はふと立ち止まり、缶の底をじっと見つめた。藤井先生のさりげない気遣いに、胸がじんわりと温かくなるのを感じる。


「本当に、ありがとうございます」


そう呟くと、缶のプルタブを引き、最後まで残っていたおしるこを飲み干した。懐かしい甘さが喉を通り、少しだけ疲れが軽くなる気がした。


(俺は、目の前の患者に向き合う。それが一番大切なことだよな)


そう心に言い聞かせながら、颯太は気持ちを新たに家路についた。


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