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第5話

その日の夕方、颯太は光の病室を再び訪れた。病室のドアを軽くノックして入ると、光はベッドに腰掛け、手元で編み物をしながらイヤホンで音楽を聴いているようだった。入ってきた颯太に気づくと、すぐに編み物を膝の上に置き、笑顔で軽く頭を下げた。


「先生、こんばんは」


「こんばんは、末道さん」


颯太は柔らかく微笑みながら、ベッドに近づいた。


「体調はいかがですか?」


光は明るい笑顔で答えた。


「大丈夫です。もう元気になりました!ゆっくりさせてもらったおかげで、すっかり回復しました。わがまま言ってすみません」


その笑顔に、颯太はほっと息をついた。


「そうですか、それならよかったです」



颯太は一瞬言葉を詰まらせた後、深く頭を下げた。


「早く検査をして、早く方針を決めないとって焦っちゃいました。体調を見てあげる余裕がなくて、本当にすみませんでした」


光は少し驚いた表情を浮かべた後、優しく微笑んで言った。


「先生、どうぞ座ってください」


光はベッド横の椅子を指さし、微笑みながら促した。


「ありがとうございます」


颯太は促されるまま椅子に腰を下ろし、改めて光の顔を見た。疲労が残っているものの、昼よりは穏やかな表情になっているようだ。


「編み物、お好きなんですね」


颯太は光の膝の上に置かれた毛糸と針を見ながら言った。


「あ、はい。好きなんです。編んでると、気分が落ち着くんです。学生の時からそうなんです。両親は忙しい人たちでしたから、私1人で過ごす時間も長くて。こうして編んでいると寂しさが紛れたのがきっかけです。でも、今ではすっかり趣味になっちゃいました」



光は少し照れたように答えた。


「そうでしたか…。今は何を作っているんですか?」



「赤ちゃんの靴下です。靴下ができたら、ベストを編もうかと思っています。でも、こんなに小さい靴下を初めて編むので、うまくできるか分からないんですけど…」


光は控えめに笑いながら、小さな編み目が並んだ毛糸を指さした。


「そうなんですか…ほんとだ。すごく小さい網目ですね…。赤ちゃんのために何かを作る時間って、特別なものですよね」


「はい。本当はもう少し動いて準備を進めたかったんです。名前を考えたり、部屋を整えたり。でも最近は体がしんどくて、それもできなくて…。夫がいろいろ手伝ってくれるから助かっていますけど、やっぱり情けないなって思っちゃいます」


光は少し俯き、寂しげな表情を浮かべた。


「そんなことありませんよ」


颯太は柔らかい声で答える。


「末道さんがこうして赤ちゃんのために何かを考えたり、作ったりしていること…素晴らしいと思います。体がしんどいのは、赤ちゃんを守るために頑張っている証拠ですから、無理をせず、できる範囲でいいんですよ。あっ…無理させた僕が言ったらダメなんですけど…」


光はその言葉に救われたように、小さく頷いた。


「ふふ。そう言っていただけると、気が楽になります。私、赤ちゃんにちゃんとお母さんとしての姿を見せられるか、すごく不安で…。こんなに動けなくて寝てばかりなお母さんだと情けないなぁって」


颯太は光の不安を受け止めるように、前のめりになり、真剣な表情で話を続けた。


「それはみんなが思うことだと思います。僕は子供がいないので、経験からは言えませんが、母親としての自信は、きっと少しずつ積み重ねていくものなんじゃないでしょうか。赤ちゃんが生まれてから、末道さんらしいやり方で、赤ちゃんと一緒に成長していけばいいんだと思います」


「そういうものなんですかね…。赤ちゃんと一緒に成長…素敵な考え方ですね」


光はゆっくりと微笑み、膝の上の毛糸をそっと撫でた。


「先生って、優しいですよね。それに話しやすいし、怖いお医者さんのイメージと違ってよかったです」


突然の言葉に、颯太は驚いて目を丸くした。


「えっ?いや、そんなことは…」


「本当にそう思います。お医者さんって、もっと事務的で冷たくて怖いイメージがあったんですけど、先生は違いますね。こうして話を聞いてくださると、気持ちが楽になります」


光の言葉に、颯太の胸に少しだけ暖かいものが広がった。


「いや…僕がまだ医者になりきれてないんですかね…。あはは」


「そんなことありませんよ。谷中先生もおっしゃってました。神崎先生なら不安なことも全部受け止めてくれるから大丈夫ですって。若いけどとても頼りになるって。それに…」


光が、颯太を手招きして小さな声で囁いた。


「心臓外科の中で一番優しくて腰が低いイケメンよって」


「ええっ?!そ、そんなことは…」


「あはは。でも、本当に先生が担当でよかったです。夫にもいつもそう言ってます」


その言葉に、颯太は胸が熱くなるのを感じた。村上さんの件で抱えていた後悔と不安が、少しだけ軽くなった気がした。


「ありがとうございます。その言葉が聞けると、僕ももっと頑張ろうと思えます」


二人が穏やかに微笑み合ったその時、病室にノック音が響いた。颯太が振り返ると、光の旦那さんとスーツ姿の高齢の男性が姿を現した。


「お父さん?!」


光が驚きの声を上げる。彼女の表情が一気に緊張したものに変わった。ベッドから身を起こし、旦那さんに視線を向けた。旦那さんは気まずそうに頭をかきながら目を逸らしていた。


「心配して連絡をくれたんだ」



旦那さんは申し訳なさそうに呟いた。

颯太は立ち上がり、光の父親に頭を下げた。光の父親は背筋をピンと伸ばし、精悍な顔つきに鋭い目をしていた。その視線が颯太に向けられた瞬間、病室内の空気が一変するのを感じた。


「光の父です。…末道孝弘です。光…心配かけまいと黙っていたのか?」


「……ごめん」



低く落ち着いた声が響く。「末道孝弘」という名前をどこかで聞いたことがあるような…と颯太が思っていると、光の旦那さんが横から紹介を付け加えた。


「市議会議員を長くしていらっしゃいます」


「あぁ…なるほど。はじめまして。神崎と申します。光さんの担当をさせていただいています。心臓外科医です」


颯太は丁寧に挨拶をしたが、光の父親は険しい表情のままだ。


「娘の体調について、詳しく聞かせてもらえますか?」


「お父さん、それは私から…」


「光は黙っていなさい」


父親の鋭い一声に光はぐっと唇を噛んでいる。


「はい。現在、末道さんは元々お持ちの心疾患に加え、妊娠による体への負担が重なっている状態です。そのため、数日かけて精密検査を行い、治療方針を決定する予定です」


孝弘は、颯太の説明を黙って聞いていた。その表情は険しく、何かを測るようにじっと颯太を見つめている。颯太はその圧力に負けないよう、背筋を伸ばし続けていた。

しばらくの沈黙の後、孝弘は低く冷たい声で口を開いた。


「率直に言います。担当を変えてもらいたい」


その言葉に、光が目を見開いて抗議の声を上げた。


「お父さん!なんてこというの!」


孝弘は冷たい目で光を一瞥し、さらに厳しい声で続けた。


「光、黙りなさい。これはお前の体だけの問題じゃない。お前の命がかかっているんだぞ」


光は悔しそうに唇を噛み、何も言えなくなった。孝弘は視線を颯太に戻し、さらに鋭い声で言葉を続ける。


「君。父親は神崎航太郎先生ですね」


颯太の胸が一瞬強く締め付けられる。父親が数年前に起こした医療ミスのことを知られるのは避けられないことだと覚悟していたが、こうして患者の家族に直に指摘されると、痛烈に心が揺さぶられてしまう。


「神崎航太郎先生の件については、こちらも多少調べさせてもらいましま。そして最近、あなたが担当していた患者さんが亡くなった話も耳にしています。村上さんと私も交流がありましたから。素晴らしい建築家でした。…まだ若く、経験が浅いあなたに、光の命を預けることはできない」


孝弘の言葉は、鋭い刃のように颯太の心に突き刺さった。颯太は何も言い返せない。村上さんのことも、自分の未熟さも…事実だった。

それを聞いていた光はたまらず声を上げた。


「お父さん!先生を信じてるの!お願いだからそんなこと言わないで!」


その声に、孝弘は一瞬もためらわず、大きな声で怒鳴りつけた。


「光!お前にこの状況の重大さが分かっているのか!医者を選び間違えれば、それだけでお前も赤ん坊も命を失うんだぞ!」


その怒声に、光は怯むように目を伏せた。目に涙を浮かべているが、声を出せなくなっていた。

その時、病室のドアをノックする音が響いた。


「末道先生、そろそろお時間です」


孝弘の秘書と思われる男性がドアを開け、静かに言った。

孝弘は光を一瞥すると、颯太を最後に鋭く睨みつけてから、冷たく言い放った。


「この件については、後日病院側と話をします。健一君、治療方針など逐一報告しなさい。勝手なことをしないように」


光の背中をさすっていた旦那さんに一言そう言い残すと、そのまま孝弘は秘書と共に病室を出て行った。部屋には張り詰めた空気と、父親の言葉に打ちのめされ泣いている光、そして沈黙を守る颯太が残されていた。


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