午前の診察が終わり、颯太がデスクでカルテを整理していると、軽いノック音とともに診察室のドアが開いた。顔を上げると、柔らかな笑みを浮かべた50代の女性医師が立っていた。
「失礼します。神崎くん、お時間大丈夫かしら?」
産婦人科の谷中真希先生だった。彼女は物腰が柔らかく、人をよく観察するのが得意だと評判のベテラン医師である。颯太は挨拶をすることが数回あったが会話をするのは初めてだ。
「あ、谷中先生。どうぞお入りください」
颯太は椅子から立ち上がり、谷中先生に席を勧めた。
「お邪魔しますね」
谷中先生は椅子に腰を下ろし、颯太に向き直った。
「末道さんの診察をしてくださって、ありがとうございました。さっき、ご主人からもお話を聞きましたが、とても丁寧に対応してくれたそうで。ご夫婦ともに感謝していたわ」
颯太は少し照れたように笑いながら答えた。
「いえ、とんでもないです。末道さんの状態をしっかり確認しておきたいと思いましたので。妊娠中ということで慎重に進める必要がありますし、産婦人科の皆さんとも密に連携していきたいと思っています」
谷中先生は軽く頷き、柔らかい口調で続けた。
「そうね。末道さんの場合は、元々の心疾患に加えて妊娠が心臓に大きな負担をかけているわ。まだ妊娠28週だから、ここからさらに血流量が増えることを考えると、今のうちにしっかり対応策を考えておく必要があるわね」
「はい。今日から入院してもらって、循環器科と産婦人科で連携して経過を見ていきたいです。早急に心エコーや血液検査を行って、状態を詳しく把握したいと思っています」
谷中先生は優しい目で颯太を見ながら、少し微笑んだ。
「神崎くん、冷静に状況を見て、しっかり対応してくれているわね。若いのに頼もしいわ」
「ありがとうございます。まだまだ至らないところも多いですが…」
颯太は恐縮したように頭を下げた。谷中先生はそんな彼を励ますように続けた。
「末道さんはとても不安そうだったけど、神崎くんのおかげで少し落ち着いたみたいよ。あのご夫婦、この妊娠前に一度流産したことがあってね。赤ちゃんのことを本当に大事に思っている。だからこそ、私たちもしっかりサポートしていきましょうね」
「はい。よろしくお願いします」
颯太の声には力強さがあった。谷中先生は満足そうに頷き、立ち上がった。
「それじゃあ、私は病棟の方を見てくるわ。また何かあれば、すぐに相談してね」
「分かりました。谷中先生、よろしくお願いします」
谷中先生は軽く手を振って診察室を後にした。
颯太は光の検査を急ぐように手配を進めていた。カルテを開いて必要な検査のリストを作成し、関連部署に連絡を入れる。心エコー、胸部X線、血液検査に加え、酸素飽和度のモニタリングなど、今の状態を把握するために必要なすべての検査を一刻も早く行うよう段取りを組んでいった。
「これで…よし」
一通りの予約を終えたところで、ふと背後から声がした。
「颯太、お前、少し焦りすぎてるんじゃないか?」
その声に振り返ると、幽霊の真田先生が窓辺にもたれかかるように立っていた。薄暗い診察室の中で、淡い存在感を放ちながら、真田先生は肩をすくめて続けた。
「検査を急ぐのはいいが、妊婦さんだぞ。検査による負担もある。少し日程に余裕を持たせたほうがいいんじゃないのか?」
颯太は一瞬手を止めたが、すぐに首を横に振った。
「末道さんの状態が安定しているならそれでいいんです。でも、もし少しでもきつそうなら日程を調整します。大丈夫です」
颯太の声には、どこか苛立ちが含まれていた。真田先生は少し驚いたように眉を上げた。
「そうか。お前のやり方なら信じるが…焦るなよ。患者のためにやってることが、逆に患者を追い詰めることもある。おまえの気持ちもわかるが…」
真田先生はそう呟きながら、颯太をじっと見つめていた。颯太はその場に立ち尽くし、胸の中で言い知れない重さを感じた。
心の中には、村上さんとの記憶が鮮明に蘇ってくる。村上さんの状態を考慮して、手術を決めきれなかったときの自分の判断、そして最悪の結果に至った経過が何度も頭をよぎる。
(あのとき、自分がもっと早く動いていれば…)
その後悔が脅迫観念のように、颯太の心を締め付けていた。
(今度は絶対に手遅れにさせない。判断が遅れたせいで、患者を失うなんて二度とあってはならない)
そう自分に言い聞かせるように、颯太は一つ一つの検査項目を確認し、次々に指示を出していった。
看護師からも「予定を詰め込みすぎでは…?」と言われても、彼は苦笑いを浮かべるだけだった。
「必要なことをやっているだけです。万が一のことがあれば、それこそ後悔しますから」
颯太はそう答えながらも、自分自身の内側で渦巻く焦りに気づいていた。しかし、それを認めることは、今の自分にはできなかった。
颯太はカルテを手に、光の病室を訪れた。扉をノックして中に入ると、谷中先生がベッドの横で光と話をしているのが見えた。
「谷中先生、お疲れさまです」
颯太は軽く頭を下げて挨拶をしながら、部屋に足を踏み入れた。光はおととい初診で会った時よりも明らかに疲れている表情をしている。頬はややこけ、目の下に薄いクマが見える。
「神崎くん、ちょうどよかったわ」
谷中先生は柔らかい笑顔で振り返ったが、その目には明らかに心配の色が浮かんでいた。
「末道さん、少ししんどそうなの」
「そうですね…」
颯太はベッドに近づき、声をかけた。
「末道さん、体調はいかがですか?」
光は弱々しく微笑みながら答えた。
「正直、少し疲れちゃって…。検査のたびに移動するのが結構しんどくて…。でも、先生方が頑張ってくださってるので、私も頑張らないとって思ってます」
その言葉に、颯太は胸が痛むのを感じた。無理をしているのではないかと心配になり、谷中先生が目を細めて見守る中、彼はカルテを確認した。
「今日の検査ですが、あと二つ終わればすべて完了します」
そう言うと、谷中先生が一歩前に出てきて、柔らかいが鋭い声で聞いた。
「神崎くん、その検査の予定、明日と明後日に変更できないかしら?」
「え…?」
颯太は一瞬戸惑い、谷中先生の顔を見た。谷中先生は光の疲れた表情に目を向けながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「思っていた以上に末道さんはぐったりしているわ。今日はここまでにして、検査を少し先に延ばす方がいいと思う。もちろん、緊急性がある検査なら話は別だけれど、それ以外なら彼女の体力を優先すべきじゃない?」
颯太は光の顔を見た。先ほどの微笑みは無理をしているようにも見える。谷中先生の言葉は正論だと頭では理解していたが、自分の中にある焦りがそれを素直に受け入れるのを拒んでいた。
「でも…」
颯太が言葉を探している間に、谷中先生は穏やかな口調で続けた。
「神崎くん、あなたのやりたいことは分かるわ。けれど、検査を完了させることが目的じゃないのよ。末道さんが安全に治療を受けられるようにするための準備を整えるのが私たちの役目でしょう?このままでは、末道さんが参ってしまうわ」
その言葉に、颯太は口をつぐんだ。谷中先生の言葉は的確だった。村上さんのことを引きずる自分が、光に無理をさせようとしているのではないか。その考えが、彼の胸を締め付けた。
「分かりました」
颯太は小さく息を吐き、深く頷いた。
「検査の予定を調整します。末道さんの体調を最優先に考えます」
谷中先生は満足そうに微笑み、軽く頷いた。
「そうね。それが一番いいわ。私も病棟にいるから、何かあればすぐに相談して」
谷中先生は光に優しい声をかけながら部屋を後にした。颯太はその背中を見送りながら、カルテを閉じ、光に向き直った。
「末道さん、少し検査のペースを落としましょう。今日はこれ以上無理をしないで、ゆっくり休んでください。検査を詰め込みすぎました…。すみません」
光は安堵したように微笑み、小さく頷いた。
「いえ。私のためを思ってしてくださっていることですから。ありがとうございます、先生」
颯太は光の穏やかな笑顔を見て、自分の焦りが患者に影響を与える危険性を改めて感じたのだった。