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第3話

診察室に入ると、待合室から患者の名前を呼ぶ看護師の声が響いた。カルテを手に取り、次の患者を確認する。


「末道 光(すえみち ひかり)、25歳」「妊娠28週」



産婦人科からの紹介状も添えられている。軽く喉を鳴らし、心を落ち着けながら扉の方に目を向ける。次の患者は若い妊婦だ。紹介状に記された「総肺静脈還流障害(TAPVR)」という診断名が、事態の難しさを物語っている。ノックの音が響いた。


「末道 光さん、どうぞお入りください」


颯太の呼びかけに、少し緊張した表情の女性が扉を開けて入ってきた。彼女は小柄で、顔色はやや青白い。ふっくらとしたお腹を撫でている。彼女は静かに挨拶をしながら椅子に腰掛けた。


「初めまして、神崎と申します。よろしくお願いします」


颯太は柔らかい笑顔を浮かべながら挨拶を交わし、カルテを確認する。


「今日は産婦人科の先生からの紹介で来ていただいたんですね。長い時間病院で待たせてしまいすみません。体調はいかがですか?」


光は戸惑いながらも、静かに答えた。


「はい…。最近、息切れがひどくて…。歩くとすぐに疲れてしまって、階段を上るのもきついです」


「息切れがあるんですね。それは妊娠前からですか、それとも最近になって増えた感じでしょうか?」


光は少し考え込みながら答えた。


「妊娠前も疲れやすいとは感じていました。でも、妊娠してから特にひどくなって…。横になっていると少しだけ楽なんですけど、立ち上がると息が苦しくなることがあります」


「立ち上がった時に苦しくなるんですね。具体的にどれくらいの時間、動くと苦しくなりますか?例えば、家事をする時や買い物に行った時とか…」


光は少し目を伏せ、申し訳なさそうに答えた。


「最近は、少しの家事もままならないです。特に買い物には行けません…。家事も夫に手伝ってもらわないとできないことが増えてきました。家事どころか家の中の移動もしんどくて…」


颯太はカルテに記録をしながら、優しい声で質問を続けた。


「そうですか。それは大変でしたね。息切れ以外に、胸が痛いとか、動悸がするような症状はありますか?」


光は軽く首を振りながら答える。


「胸の痛みはあまりないですけど、たまに心臓がドキドキする感じがあります。あと、最近足のむくみがひどくて…」


「なるほど。むくみは、朝と夜どちらがひどいですか?」


「夜です。昼間動いていると足がだるくなってきて、夕方には靴がきつく感じることがあります。元々むくみやすい体質だったので気にしてなかったんですけど、妊娠後日増しにひどくなっていて」


颯太は光の表情を注意深く観察しながら、さらに質問を重ねた。


「体重の増加についてはどうですか?妊娠の経過として通常増える範囲か、それ以上に増えた感じはありますか?」


「産婦人科の先生には、最近体重が増えすぎだと言われました。妊娠の影響だと思っていましたけど…。そんなに食事が増えたりとかはないんですけどね」


颯太はうなずきながら、紹介状に目を落とす。


「紹介状によると、光さんは『総肺静脈還流障害(TAPVR)』という心臓の疾患があるとのことですが、これについてご自身ではどの程度ご存じですか?」


光はそれを聞いて顔を曇らせた。


「生まれつき心臓が普通の人と違うと言われていることはなんとなく知っています。経過観察でいいと言われたと母から聞きました。でも、学生時代の検診でいつも引っかかってました。普段はまったく症状もなくて…。妊娠してから初めてこんなに体調が悪くなって、不安で…」


颯太は光の不安を和らげるように、静かに言葉を続けた。


「分かりました。確かに妊娠は心臓や血管に大きな負担をかけますから、その影響が出ている可能性があります。ただ、TAPVRについて詳しく調べ、今の状態を正確に把握して、末道さんと赤ちゃんの安全を守るために最善の方法を考えたいと思います」


光は少し安心したように頷いた。


「ありがとうございます…。正直、とても不安で…。赤ちゃんには影響がないか、それが一番心配です。無事に産んであげたいって…そればっかり考えています」


「そうですよね。その点も含めて、これからしっかり診ていきますので安心してください。旦那さんは一緒に来られていますか?」


颯太の問いに、光は小さく頷いた。


「はい、待合室にいます」


「では、一緒にお話ししましょう。少しお待ちください」


颯太は診察室を出て、看護師に旦那さんを呼んでもらうように頼んだ。少しして、ドアが開き、30歳前後の男性が不安そうな表情で入ってきた。光に似た穏やかな雰囲気を持つ彼は、光の隣に座り、手を握りしめながら颯太を見た。


「初めまして、神崎と申します。お二人でお話を伺いながら、光さんの今後の方針を決めたいと思います」


旦那さんは軽く会釈しながら、少し緊張した声で答えた。


「よろしくお願いします…。妻が最近本当にしんどそうで、どうしたらいいのか分からなくて」


颯太は柔らかい表情を浮かべながら説明を続けた。


「末道さんの症状は、妊娠による体への負担と、もともとの心臓の疾患が関係している可能性が高いです。今の状態を詳しく調べるためには、心臓の検査や血液検査を早急に行う必要があります。ただ、いくつかの検査は時間がかかることや、ご自宅から病院までの距離が約1時間であることを考えると、入院していただく方が身体的な負担が少なくて済むと思います」


光が旦那さんの顔を見上げ、旦那さんは彼女の手を優しく握り返した。


「先生、ぜひそうしてください。妻の体調を最優先に考えたいです。入院でしっかり診てもらえるなら、その方が安心です」


光も緊張した面持ちで小さく頷き、旦那さんに続けるように言った。


「よろしくお願いします…。赤ちゃんのこともあるので、早めに対応していただけるなら、安心します」


颯太は二人の意思を確認し、頷いた。


「分かりました。それでは、すぐに入院の手続きを進めます。末道さんは妊娠中ということもありますので、産婦人科病棟への入院となると思います。循環器科と産婦人科が連携して診察を進めていきますので、何か不安なことがあればいつでも相談してください」


光と旦那さんは口をそろえて「ありがとうございます」と頭を下げた。その声には、どこかホッとした安心感が漂っていた。

颯太は看護師に指示を出しながら、心の中で責任の重さを改めて感じていた。この患者をしっかり支えなければならない。いや…支えてみせる。その思いが胸の奥に強く刻まれた。


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