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第2話

「看護師長、それは感情論ではないか。ここで議論すべきは、感情に基づいた信頼関係ではなく、医療のプロセスが適切だったかどうかだ」


その言葉に、由芽や他の看護師たちが小さく身をすくめる。鷹野先生はさらに追い討ちをかけるように、鋭い視線を看護師長に向けた。


「患者の心情や信頼関係が大切なのは理解している。しかし、それが原因で医学的判断を誤ったのであれば、それは本末転倒だろう。我々が扱うのは感情ではなく、客観的な状態だ」


由芽は唇を噛みしめ、何かを言いたそうにしたが、声を出すことができなかった。他の看護師たちも、鷹野先生の厳しい視線を受け、居心地悪そうに目を伏せた。

看護師長も一瞬表情を曇らせたが、すぐに毅然とした態度を取り戻した。しかし、その反論のタイミングを見計らうように、鷹野先生がさらに声を重ねる。


「みなさん、現実を見てください。患者が亡くなったという結果が全てを物語っている。私たちは、結果に基づいてプロセスを振り返らなければなりません。そうでなければ、医療は進歩しない」


鷹野先生の言葉が重く響き、看護師たちは一層肩を縮めた。会議室全体に漂う緊張感は、誰もがその場の雰囲気に押しつぶされそうになるほどだった。

院長を始め、スタッフはじっと黙っていた。鷹野先生の言う事は間違っていないのだ。それが分かっているからこそ、誰もが声を上げられない。その沈黙を打ち破るように、鷹野先生が最後の仕上げと言わんばかりに、冷たく鋭い声で言葉を続けた。


「これは医療ミスだ。患者が亡くなった以上、そう断定されても仕方がない。遺族に訴えられてもおかしくない状況ですよ。神崎先生にはそれ相応の責任をとってもらわなければ、この旭光総合病院の名誉は地に落ちるでしょう」


鷹野先生の言葉が静まり返った会議室に重く響き渡る。さらに鷹野先生は院長に視線を向け、低い声で続けた。


「たったひとつの問題だけで倒産する病院もあります。このままでは、その前例に加わる可能性だって否定できません」


院長は黙ったまま、ゆっくりと椅子から身を乗り出した。全員の視線が自然と彼に集まる。


「なるほど、鷹野君の言うことも一理ある。医療の信用が失われれば、病院そのものの存続が危うくなるのは確かだ」


院長は一度ため息をつくと、落ち着いた声で続けた。


「だが、この問題をここだけで議論していても結論は出ないだろう。鷹野君、まずはこの件を村上さんのご家族と看護師長、そして私を含む部長クラスで一旦話し合い、整理する必要があると思うが、それでいいかね?」


鷹野先生は眉間に深い皺を寄せたが、院長の提案を否定することはできなかった。


「…分かりました。ですが、私としてはこの問題を曖昧にせず、しっかりと責任の所在を明らかにしていただきたい」


「それはもちろんだ」



院長は頷きながら静かに返した。院長の提案によって議論が一時的に中断されることになったが、鷹野先生の厳しい言葉と鋭い視線は、まだ颯太に突き刺さったままだった。

会議室の空気は重いまま。颯太の胸には、鷹野先生からの非難と、自らの判断が果たして正しかったのかという疑問が渦巻いていた。


会議が終了すると、会議室にいた職員たちは重い空気を引きずりながら立ち上がり、次々と部屋を後にした。看護師たちは顔を見合わせ、小声で何かを囁き合いながら、足早に去っていく。その中で、由芽は振り返り、心配そうな表情で颯太を見たが、結局何も言えずに会議室を出ていった。


残った颯太は、席を立つことができないまま、ぼんやりとスクリーンに映った村上さんのカルテを見つめていた。その心には、鷹野先生の冷徹な言葉が重くのしかかっていた。


その時、足音が近づく音が聞こえた。顔をむけると、鷹野先生がまっすぐこちらに向かってきていた。彼は颯太の正面に立ち止まり、冷ややかな笑みを浮かべた。


「神崎」



鷹野先生はにやりと笑いながら、静かに冷酷な声で話し始めた。


「退職届を書いておいた方がいいんじゃないのか?自己退職のほうが次の就職先を探しやすいだろう?」


その言葉を聞いた瞬間、颯太の全身に冷たいものが走った。鷹野先生のにやりとした笑みが、やけに目に付く。


「このまま責任を追及されれば、医師としてのキャリアに傷がつく。そうなれば、どこにも雇ってもらえなくなるぞ。お前にとっても、早いうちに決断するのが賢明だと思うが」


鷹野先生は心底楽しむかのような表情を浮かべ、颯太の肩を軽く叩いた。そして、何も言えずに硬直している颯太を尻目に、そのまま会議室を後にした。

ドアが閉まる音が響き、部屋には颯太だけが残された。握りしめた拳が震えているのが自分でも分かった。鷹野先生の言葉が頭の中で何度も反響し、胸の奥が苦しくなる。


「はぁ…」


颯太は頭を抱え、しばらく動けないでいた。鷹野先生の言葉が何度も脳裏に蘇り、胸の奥が重く締め付けられるようだ。


「俺は…間違っていたのか…?」


その問いに答えは出ない。それでも、次第に視界に村上さんの穏やかな笑顔が浮かんできた。村上さんのために、全力を尽くした自分を否定してはいけない。そう思いたかった。

しかし、医者としての自分の判断にどれだけ自信が持てても、鷹野先生の言葉は確実に心を削っていた。


「でも…」


颯太は拳を握り直し、深く息を吸い込んだ。重い体を奮い立たせて立ち上がる。仕事に私情を引きずるわけにはいかないし、感情的になるわけにもいかない。冷静さを失えば、目の前の患者に最善を尽くすことはできない。


「俺は医者だ。何があっても目の前の患者を診る。それが仕事だ」


心の中で自分を奮い立たせ、颯太は会議室を出た。医局に戻る間も足取りは重かったが、無理やり意識を切り替えながら外来診察室へ向かった。

そんな颯太を、真田先生は何も言えずそっと見守るしかなかった。


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