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第1話

「これより、村上幸男さんの症例に対する死亡カンファレンスを行います」


鷹野先生の鋭い声が会議室に響き渡った。病院の会議室には木村先生、藤井先生、颯太。それに、村上さんが亡くなった当日、夜勤を担当した由芽をはじめとする循環器病棟の看護師数名、院長、副院長、看護師長まで揃っている。会議室には、総勢50名が整然と座っていた。


スクリーンには村上さんの病歴、治療経過、検査結果が映し出されている。村上さんは70歳の男性。50代で拡張型心筋症(DCM)を発症し、以降、投薬治療を継続しながら通院を続けてきた。しかし最近になって労作時の息切れや倦怠感が増し、心不全の悪化が疑われ、検査入院していた。


「まず、患者さんの経過を整理します」



鷹野先生はスクリーンを指し示しながら話を始めた。


「村上さんは、ACE阻害薬、β遮断薬、利尿薬を含む内科的治療を受けていました。しかし、数週間前から倦怠感と呼吸困難が増し、検査入院となりました。入院後の検査で、心臓の左室収縮率が著しく低下しており、不整脈も頻発していることが確認されました。心エコーでは、左室の拡張が進み、CRT-D(心臓再同期療法と植込み型除細動器)の適応が検討されていました」


鷹野先生の話が終わると、木村先生が続けた。


「CRT-Dを早急に適応すべきかどうかについて、私たちは議論を重ねました。患者さんご本人とご家族も治療に前向きでしたが、術前検査後、手術前日に容態が急変し、残念ながら手術前に亡くなられる結果となりました」


会議室が一瞬静まり返り、次の発言を待つ。鷹野先生が険しい表情で口を開く。


「CRT-Dの適応が検討されたといいますが、判断は正しかったでしょうか?それに、入院してからかなり日数が経っていますが」


鷹野先生の鋭い声が、会議室の静寂を切り裂く。


「村上さんの状態を考えれば、時間をかける手術が彼の負担を大きくすることは明らかだったはず。それにもかかわらず、緊急性を煽り、リスクの高い選択肢を推進したのは、神崎先生、あなたの独断によるものではありませんか?」


鷹野先生の視線が颯太に向けられる。その言葉には、批判と冷笑が滲んでいた。


「結果として、村上さんは術前に急変し、亡くなられました。これが何を意味するのか、あなたは分かっていますか?」


颯太は何も言えず、拳を握りしめながら、鷹野先生の言葉を聞いていた。しかし、頭の中で渦巻く感情は抑えきれない。患者とご家族の希望を汲み取った自分の判断が、果たして本当に間違っていたのか…。

木村先生が小さくため息をつきながら口を開いた。


「鷹野先生、少し言い過ぎではありませんか。CRT-Dの適応は、私たち全員で検討し、最終的には家族の同意も得たうえで決定したことです。神崎君一人を責めるのは—」


「木村君、待ちたまえ」



院長の声が木村先生の言葉を遮った。


「君が言いたいことも分かるが、まずは鷹野君の意見を最後まで聞こう。全ての主張を確認してから議論を始めるべきだろう」


木村先生は眉を寄せたが、頷きながら椅子に腰を落とした。その表情には明らかな不満が浮かんでいる。


鷹野先生はその場の空気を掌握したように、わずかに口角をあげて再び話を続ける。


「村上さんのように不安定な状態での適応は、明らかにリスクが高すぎた。それに、手術が遅れた理由も検討しなければいけません」


会議室の空気がさらに重苦しくなった。鷹野先生はスクリーンに視線を向けたまま、冷ややかな声で言い放った。


「手術室の予約についても触れておくべきだろう。聞いたところでは、手術前日のスケジュールに一枠空きがあったそうじゃないか。それを村上さんの手術に充てることは十分可能だったはずだ。なぜそのチャンスを活かさなかったのかね?」


会議室の空気が一段と重くなり、看護師たちが微かにざわめいた。


「これはあきらかに、神崎君の判断ミスだといわざるを得ないだろう。責任はすべて君にある」


鷹野先生の言葉は、鋭い刃のように颯太を貫く。颯太は胸が詰まる感覚を覚えながらも、拳を握りしめて反論の言葉を探した。確かに、手術室のスケジュールに空きがあったことは事実だ。しかし、その枠が空いたのは二日前の午後、急遽別の患者の手術が中止になった結果だった。その時点で村上さんの術前準備はまだ整っておらず、万全を期すには時間が足りなかった。

木村先生が、再び口を開こうとした。しかし、颯太が先に声を上げた。


「お言葉ですが、鷹野先生。その枠が空いたのは二日前の午後でした。確かに手術を早める選択肢はありましたが、術前の検査と準備が整わない状態で行えば、患者さんに余計なリスクを負わせることになったはずです」


颯太の声には迷いはなかった。彼は鷹野先生の視線を真っ直ぐに受け止めながら続けた。


「村上さんの術前検査では、心臓の機能が予想以上に低下していることが分かり、追加の検査と家族への説明が必要でした。それを省いて手術を急げば、さらに危険な結果を招いた可能性があります」


鷹野先生は一瞬、表情を険しくしたが、すぐに冷静な口調を取り戻した。


「それでも、結果的に彼を救えなかった事実は変わらないだろう。患者にとって、治療の遅れは命取りになる。この結果の責任をどう取るつもりだ?」


院長がゆっくりと手を挙げ、鷹野先生の言葉を制した。


「鷹野君、落ち着きたまえ。責任の所在を明らかにするのも重要だが、まずは全ての要素を検証し、問題の本質を探るべきだろう。木村君、神崎君、それぞれの意見を伺った上で議論を深めていきたい」


院長の落ち着いた声に、会議室の緊張がわずかに緩んだ。

颯太は深く息を吸い込んだ。議論の火種はまだ消えていないが、自分の判断に自信を持って立ち向かうべきだ。


会議室に漂う緊張感の中で、看護師長が静かに手を挙げた。全員の注目が彼女に向けられる。


「失礼します。村上様の看護を担当した者として、一つ申し上げたいことがあります」


看護師長は一度深く息をつき、颯太を一瞥すると、穏やかだが力強い声で話し始めた。


「村上さんご自身が、手術に対して非常に慎重だったことを、皆様に知っていただきたいと思います。手術の話が出た際、村上さんは『手術を受けてまで寿命を伸ばさなくてもいい。家族に迷惑をかけるだけだ』とおっしゃっていました。神崎先生は患者様と丁寧に向き合い、時間をかけて信頼関係を築いておられました」


看護師長の言葉が部屋を包み込み、しばし静寂が訪れた。その沈黙を破るように、夜勤担当だった由芽が思い切ったように口を開いた。


「私も村上さんとお話しする機会が何度もありました。神崎先生のことを、とても信頼していらっしゃいました。『あの先生は、俺のことをちゃんと見てくれている』っておっしゃっていました」


由芽は声を震わせながら続けた。


「村上さんにとって、神崎先生は単なる医者ではなく、安心できる存在だったと思います。だからこそ、手術の話を前向きに捉えられるようになっていったんだと思います」


彼女の発言に、会議室の風向きがわずかに変わった。村上さんが置かれていた心情や、颯太が築き上げた信頼関係が、次第に会議の中心テーマとなり始めた。しかし…


「信頼関係が築けていたことと、医師としての判断は別問題ではないか」



鷹野先生が再び冷ややかな声で切り返す。だが、看護師長が微笑みながらも毅然とした態度で応じた。


「それは違います。医師と患者の信頼関係がなければ、治療そのものが成立しません。神崎先生の判断が正しかったかどうかを議論する前に、村上さんが治療を受けるまでの心の準備を整えた過程を無視するべきではありません」


看護師長の毅然とした発言に、会議室の空気が張り詰めた。鷹野先生が眉をひそめ、低く冷たい声で口を開いた。


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