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第12話

「でも…村上さんは、最後にまだ何かやりたいと言っていた。自分の命を懸けて、再び歩き出そうとして…。なのに…」


真田先生は、そんな颯太の肩にそっと手を置き、静かに続けた。


「だからこそ、お前はもっといい医者になりたいと思うんだろう?村上さんが残してくれたもの、その思いが、お前を成長させる。お前が今感じている悔しさや悲しみは、決して無駄ではない」


その言葉に、颯太の目から涙が一粒こぼれ落ちた。医者としての限界を痛感した今、真田先生の言葉は胸に深く響いた。そして、村上さんの言葉や、彼を支えようとしていた周囲の人々の思いが、少しずつ彼の中で形を変え始めた。


「先生…俺は、もっといい医者になりたい。もっと、多くの命を救える医者に…」


颯太は流れ落ちる涙を拭い続けた。

颯太は、医局のモニターに映し出される村上さんの手術映像を最初から何度も繰り返し見返していた。映像に映る心臓の状態と検査結果のデータを比較しながら、何ができたのか、どこで判断を誤ったのかと、懸命に自分の中で答えを探していた。

しかし、画面に映る現実は容赦なく、検査結果よりもさらに進行した心臓の状態が映し出されていた。

目を凝らしても、何度見直しても、どうしても追いつけない何かがそこにあった。村上さんの心臓は、自分が思っていた以上に痛んでいた。その現実が突きつけられるたび、悔しさで手が震えた。


そんな時、手術を終えた鷹野先生と木村先生が医局に戻ってきた。疲れがにじむ顔をした二人は、モニターの前で黙っている颯太に気づくと、驚いた表情を浮かべた。いつもなら、特に鷹野先生は颯太に厳しい言葉を投げかけるところだが、今は何も言わない。ただ、颯太の真剣な姿を黙って見つめていた。

颯太は二人に気づくと、映像を止めてゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。


「先生方…本当に、ありがとうございました」


その声には、感謝と悔しさ、そして無力さが混ざり合っていた。村上さんを手術に導き、懸命に尽力してくれた二人に対して、どんな言葉をかけても足りない気がしてならない。

木村先生は静かに頷き、柔らかい表情で颯太に向き合った。


「神崎先生、君も夜中に大変だったね。村上さんは、本当に最後まで戦ってくれたよ」


鷹野先生も疲れた表情のまま、しばらく何も言わずにいたが、やがて深いため息をつきながら口を開いた。


「…家族と周囲への説明はお前がしろ」


「はい」


颯太は震える声で答え、鷹野先生と木村先生の前で再び頭を下げた。二人はそんな颯太の姿に静かに頷き、深い沈黙の中でその言葉を受け止めていた。


朝が来て、病院はいつものように静かな活気で包まれていた。けれども、颯太にとっては、いつも通りの朝ではない。彼は白衣に袖を通し、気持ちを落ち着けようと深呼吸をしながら、村上さんの病室へと足を向けた。

病室に入ると、そこには穏やかに横たわる村上さんの姿があった。ベッドの上の村上さんは、綺麗に処置され、ほんの少しメイクが施されて、まるで眠っているかのような静けさに包まれていた。けれども、それは決して戻らない永遠の眠りであることを、颯太は痛いほど感じていた。

横には、奥さんがハンカチをぎゅっと握りしめ、じっと村上さんを見つめていた。涙が頬を伝い、目元が赤くなっている。


颯太は、胸に込み上げる言葉にならない想いを押し殺し、ゆっくりと頭を下げた。


「…村上さんをお守りすることができず、本当に申し訳ありませんでした」


奥さんは微かに震えながら、何かをこらえるように唇を噛みしめ、ゆっくりと顔を上げて颯太を見つめた。その目には、言葉にしがたい悲しみとともに、感謝の気持ちが滲んでいた。


「神崎先生…主人のために、最後まで尽くしていただいて…本当にありがとうございました。主人も、きっと感謝していると思います」


奥さんのその言葉が、颯太の胸に深く染み渡った。救うことはできなかった悔しさと無力感が改めて込み上げ、再び胸が締め付けられる。けれども、それでも彼女は、颯太の尽力に感謝の意を示してくれている。


「村上さんは、最後までご家族や皆さんのことをとても大切に思っていらっしゃいました。僕も、村上さんから多くを教えていただきました」


そう言いながら、颯太の声は小さく震えていた。村上さんとの最後の日々、彼が家族や弟子たちへの思いを語ってくれた時間が、颯太の胸に去来する。言葉にならない想いを抱えながら、颯太は再び深く頭を下げ、村上さんの姿を心に焼き付けた。

奥さんは静かにうなずき、村上さんの手をそっと包み込むように握りしめていた。その姿を見守りながら、颯太は心の中で村上さんとの約束を固く誓った。「もっといい医者になる」と。村上さんが遺してくれた教えを胸に、颯太はもう一度深く息を吸い込んだ。


すると、奥さんがおもむろに一枚の紙を差し出した。


颯太は奥さんが差し出した紙を受け取り、丁寧に広げた。そこには「神崎先生へ」と書かれており、村上さんの整然とした、几帳面な字が並んでいた。深呼吸して落ち着きを取り戻し、ゆっくりと目を通した。


「神崎颯太先生

直接話をしたいけれど、病院ではできそうにないから手紙に書くことにするよ。

美術館で君の父親…航太郎先生に会った時の話には、実は続きがあるんだ。

あの時、航太郎先生は「僕は最後の患者さんの手術はたしかに成功したと確信があった。なぜあんなことになったのかわからなくて…今でもそれを探し続けている」と、そう話してくれたんだ。

君も知っているだろうけど、あの事件は周りの医師たちが妙に冷ややかだった。俺も最初は病院の内部で片付けられると思っていたが、先生の言葉を聞いたとき、俺もどうしても釈然としなかった。もしかしたら…これは俺の考えすぎかもしれないけれど、あの事件の後ろには、もっと大きな何かが隠れているんじゃないか。航太郎先生が、必死に真実を探そうとしていた姿を、今でもはっきり覚えている。

神崎先生、君にも、もっと多くの命を救ってほしい。そして、君の父親が思い悩んでいたことの答えを、どうか見つけてほしい。俺ができなかったことを、君が、そして君の仲間が果たしてくれることを願っている。


君に会えて、そして君のお父さんに出会えて、俺は本当に感謝している。弟子が師匠を超えて羽ばたく姿を見せてほしい。君にも。俺の弟子たちにも。


村上幸男」


颯太は手紙を読み終え、胸が締め付けられた。父が美術館で話していたあの日の出来事、その裏に隠れていた思い。村上さんは、父が抱えていた苦悩や疑念を聞き、それを心の中にずっと留めていたのだろう。


「神崎先生、夫が航太郎先生の話をする時、すごく真剣な顔をしていました」


と、奥さんが静かに言った。彼女の目には涙が浮かんでいたが、今は穏やかに微笑んでいる。

颯太は村上さんの最後の願いと、自分に託された父の過去に触れ、深い決意が胸の中で芽生えた。そして、それを突き詰めることが、父や村上さんへの、そして自分への新たな使命であると感じた。


颯太と奥さんが話をしていると、病室に入ってくる足音がした。渡辺さんだった。渡辺さんは人目もはばからず、村上さんにすがりつくように泣いていた。しばらくして落ち着き、渡辺さんは颯太へむきなおり、深く頭をさげた。


「ありがとうございました。お世話になりました」


2人は短い言葉の中に、互いの哀しみと感謝を込めていた。師を失った渡辺、そして生前の父を知っている大切な人を失った颯太。立場は違えども、共に尊敬する存在を失った者同士の痛みが、言葉を交わさずとも伝わってきた。


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