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第11話

颯太は、震える手を無理やり握りしめ、落ち着けと言い聞かせた。しかし、焦燥と不安が入り混じり、息が詰まるような思いが胸を押しつぶしてくる。


「くそっ…!」


そんな時、ようやく空車のタクシーが見え、颯太は手を振って止めた。乗り込むと同時に病院名を告げ、運転手に急いでくれるよう頼んだ。車内のわずかな沈黙の中で、鼓動が耳元で高鳴るのがわかる。手の震えは止まらないまま、体中から汗がにじみ出るような感覚さえあった。


「深呼吸…」


そう自分に言い聞かせるが、心臓は容赦なく早鐘を打つ。村上さんの微笑みが頭に浮かぶたび、その顔が少しずつ薄れていくような気がして、恐怖が体を覆っていた。まるで目の前が真っ暗になっていくようだ。視界がかすむ感覚に襲われる。


「しっかりしろ、俺が焦ってどうするんだ…」


そう心の中で繰り返しながら、颯太は震える手を再び固く握りしめた。心の中では何度も強くそう誓いながら、ただひたすらタクシーが病院へと急ぐのを待った。


電話が来てから約15分。颯太を乗せたタクシーがようやく旭光総合病院の前に止まった。夜の静けさとは対照的に、颯太の心臓は激しく鼓動し、頭の中はただ「早く」という思いでいっぱいだった。タクシーのドアが開くと、颯太は足早に病院の中へ駆け込んだ。体が疲れ切っているのを感じつつも、そのまま循環器病棟へ向かった。


非常階段をかけあがり、病棟の扉を開けると、普段は静かな夜のナースステーションが騒然としているのが見えた。病棟のスタッフが次々と交わす短い会話、医療機器のアラーム音、走り回る足音――すべてが、村上さんの容体が急変したという現実を強く突きつけていた。

颯太はそこでようやく時計に目をやった。時刻は深夜3時。異様な静けさと緊張感が漂うこの時間に、村上さんが一人で戦っていたかと思うと、胸が締め付けられる思いだ。


その時、由芽がナースステーションに戻ってきた。彼女もまた、緊迫した空気の中で、息を切らしながらも真剣な表情をしていた。颯太が彼女に視線を向けると、由芽は目を見開き、彼に駆け寄ってきた。


「そ…神崎先生、来てくれてありがとう。村上さんは…心停止からなんとか蘇生して、今手術室に入っています」


由芽の言葉に颯太は頷き、頭の中で次の手順を確認しながら口を開いた。


「ありがとう…。手術は誰が?」


「鷹野先生と木村先生が入ってくださっています」


颯太は由芽の言葉に短く頷くと、手術の様子を確認するため、足早に医局へと向かった。手術室の映像は、医局のモニターに中継・録画されており、リアルタイムで状況を把握することができる。鷹野先生と木村先生が村上さんの手術に入っていると聞き、先生方の技術を信じながらも、少しでも状況を確認したいという思いでいっぱいだった。


医局の扉を開けると、そこには夜勤で待機していた数人の医者たちが、真剣な表情でモニターを見つめていた。颯太も黙って彼らの隣に座り、手術の映像に目を向けた。

モニターには、鷹野先生と木村先生が村上さんの胸部にメスを入れ、慎重に操作を進めている様子が映し出されている。胸部を開いた瞬間、異常な肥大が見られる左心室が映り込んでいた。拡張型心筋症によって弱った心筋の状態が一目でわかるほどだ。


「心筋がかなり損傷している…」


隣にいた若い医師が、低い声でそう呟いた。彼の顔には焦りと不安が滲んでいたが、それは他の医師たちも同じだった。心拍が安定しないまま手術を進める危険性と向き合いながら、村上さんの命を繋ぎ止めるため、鷹野先生と木村先生は緊張感の中で手を動かし続けている。

颯太はモニターを見つめ、祈るような気持ちで見つめた。村上さんの状態がここまで悪化していたことに、自分がどれだけ無力なのかを感じざるを得なかった。しかし、村上さんが命を懸けて手術を決意した覚悟、そして支え続ける家族や弟子たちのためにも、何としてもこの手術を成功させてほしいと願わずにはいられない。


手術は慎重に進められているが、画面に映るモニターの数値は不安定なままだ。心拍の乱れが大きくなり、鷹野先生が即座に指示を飛ばしている声が、無機質な機械音に混じって聞こえてきた。緊張感が医局の中にも伝わり、息を飲むように全員がモニターを見つめている。

颯太は震える手を無理に握りしめ、目の前で行われている村上さんの手術が無事に終わることをただひたすら祈りながら、医局の中で息を潜めて見守っていた。


手術の映像に釘付けになっていた颯太の視界の中で、突然、モニターに映し出された心拍数がゼロに近づき、村上さんの心臓が止まったことがわかった。鷹野先生がすかさず「心停止、アドレナリン!」と声を上げ、木村先生も即座に蘇生措置を開始した。看護師たちが迅速に薬剤を準備し、鷹野先生は必死に心臓を蘇生しようとしている。


「お願いだから、戻ってきてくれ…」


颯太は心の中で強く願った。村上さんが一度は覚悟を決めた命を、この場で救いたいという一心で、画面に映る医師たちの動きに全身の力を込めるかのように祈り続けた。

医局の中も張り詰めた空気に包まれ、誰もが息を飲んでモニターを見つめている。数秒が永遠のように感じられる中で、鷹野先生はさらに強く心臓マッサージを続け、木村先生も冷静に指示を出している。しかし、村上さんの心拍は戻らない。


「もう一度、アドレナリン追加!」


鷹野先生が声を上げ、さらに再蘇生の措置を繰り返すが、村上さんの心臓は頑として動こうとしなかった。

画面の中で、鷹野先生がふと手を止め、じっと村上さんの心臓を見つめた。その沈黙に、医局の中も全員が言葉を失ったかのように静まり返った。モニターの数値も変化することなく、ただゼロを示し続ける。


「……もう、だめか…」


横で見ていた医者がポツリとつぶやいた。颯太の心の中で、どこかがポキリと折れるような感覚が広がった。

やがて、鷹野先生が深い息を吐き、手術台にかがみ込んだまま、ゆっくりと「心停止。死亡確認…」と、静かな声で告げた。

その言葉に、医局にいた全員がうつむき、颯太は目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた。自分の力の及ばない、どうしようもない現実が突きつけられた瞬間だった。指の間から命がこぼれていく。


颯太は全身の力が抜け、崩れるように椅子に座り込んだ。目の前が霞み、頭が真っ白になり、何も考えられない。村上さんの顔が頭の中で次々に浮かび、穏やかな微笑み、弟子たちや家族と過ごしていた温かな光景が一瞬で過ぎ去っていく。胸の中にぽっかりと穴が空いたような感覚が押し寄せ、そこに言葉にできないほどの悔しさと無力感が広がっていく。

どれほどの時間が経ったのかもわからない。病院の無機質な空気と、静まり返った医局の中で、ただぼんやりと時間が過ぎていく。

そのとき、耳元で静かな声が響いた。


「颯太…」


それは、真田先生の声だった。颯太はゆっくりと顔を上げ、真田先生が、自分をじっと見つめているのを感じた。


「…俺がもっとできる医者だったら、村上さんを助けられたんでしょうか…」


震える声でそう呟くと、真田先生は少し黙り込んだ後、静かに口を開いた。


「颯太…。医療は完璧ではない。どれだけ経験を積み、技術を磨いても、救えない命がある…それが現実だ。俺も救えなかった命がたくさんある。技術だけじゃどうしようもないときもあるんだよ」


真田先生の言葉は優しかったが、それが現実だ。颯太は拳をぎゅっと握りしめ、悔しさで顔を歪めた。


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