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第10話

手術前日。

颯太が病室に入ると、村上さん、渡辺さん、弓田さんがいつものように和やかに話していた。村上さんの顔には少し疲れが見えたが、弟子たちに囲まれてどこか安らかな笑みを浮かべている。病室は、3人の絆で温かな空気に包まれていた。

弓田が少し照れくさそうに口を開く。


「社長がいなかったら、今の僕はここにいないと思います。本当に感謝しています」


その言葉に、村上さんは微笑み、ゆっくりと首を振った。


「いや、俺のほうこそだ。二人がこうして来てくれて、本当にありがたいんだ。弟子に見舞いに来てもらえるなんて、恵まれた人生だな」


村上さんの静かな感謝の言葉に、渡辺と弓田は、互いに頷き合った。しばらくの静寂の後、村上さんが真剣な表情で渡辺に視線を向けた。


「渡辺、もし俺がいなくなったら…弓田を頼みたい。こいつは素直で、センスもいい。やる気もあるから、しっかり導いてやってほしい」


渡辺は驚きつつも、すぐに真剣な顔で頷いた。


「わかりました。弓田のこと、1人前になるまでしっかり鍛えます。でも、おやっさん…まだ元気でいてくださいよ」


弓田も、その言葉に力強く応えた。


「社長。そうですよ。まだまだ教えてもらいたいですから」


村上さんは二人の決意に目を細め、深く息をついて穏やかに微笑んだ。


「そうだな…まぁ…俺も病気もあるが…歳だから。何があるかわからないからな。言っておかないといけないと思ったんだ。二人がそう言ってくれると、俺も安心だ。俺が手掛けてきたものが、こうしてお前たちに受け継がれていくと思うと、胸が温かくなる。これからお前たちがつくるものが俺から引き継がれていると思うとな…」


病室の中は一瞬、感謝と絆の空気に包まれた。颯太もその場に立ち会いながら、村上さんが自分の歩んできた道を弟子たちへと託しているのだと実感し、深い感動を覚えた。

その後も三人は軽い笑いや冗談を交えながら語り合った。まるで日常の一コマのように見えるその時間が、村上さんにとっても心休まるひとときになっているようだった。


一方で手術までの3日間、颯太は毎晩遅くまで医局に残り、真田先生とともに手術の確認とシミュレーションを重ねていた。村上さんの状態が急変しないように細心の注意を払い、どんな状況にも対応できるように準備を整えるためだ。村上さんと奥さん、そして渡辺や弓田といった、村上さんの帰りを待つ人々の顔が頭をよぎるたび、颯太は「必ず成功させる」と、決意を新たにしていた。


真田先生はふわりと颯太の横に立ち、時折アドバイスを送ったり、鋭い指摘をしたりして、颯太のシミュレーションを見守っていた。


「この場面では、もし出血が起きたらすぐに対応するんだ。村上さんの体力を保つことが最優先だ」


「はい」


真田先生の指摘に、颯太は一つひとつ確かめるように答え、さらに細かい手術の流れをイメージしていった。村上さんが手術を乗り越えて、また大切な人たちのもとへ帰っていけるように、颯太は限られた時間の中で、できる限りの準備を尽くしたのだった。


いよいよ明日の手術に備え、颯太は遅い時間にようやく自宅へ帰り着いた。緊張と集中で張り詰めていた気持ちを和らげるため、颯太は久しぶりに自分の好きな料理を作ろうと決めた。「手術が終わったら、しっかり食べて体力を回復しよう」と思いながら、冷蔵庫から厚みのある肉の塊を取り出す。


今日の料理は、肉をじっくり寝かせて柔らかく仕上げる仕込みだ。手術と同じように丁寧に準備を進めていく。颯太はメスを手に取り、肉の繊維に沿って筋切りを入れ始めた。筋を切ることで、肉の食感が柔らかくなる。この工程も、彼にとっては手術の準備と同じだ。


メスの鋭い刃が筋繊維を滑るように進み、肉の内部がふわりと開かれるたび、颯太はその手応えを確かめるかのように手元に集中する。


「この筋を綺麗に割いておけば、きっと柔らかく仕上がる」


一筋一筋、筋繊維に沿って丁寧に切れ目を入れていく。すべての筋がまんべんなく割かれ、均一な食感になるように細かく確認しながら進めた。

筋を切り終えたら、今度は下味を丁寧に揉み込む。塩とスパイスを隅々まで行き渡らせ、肉全体がしっとりとした手触りになるまで時間をかけて揉み込む。

最後に調理用の糸を手に取り、肉を整えながら巻いていく。糸がしっかりと肉を形作り、寝かせる間に旨味が中に閉じ込められるように、隙間なく巻き上げた。


「よし、これで完成だ」


仕込みを終えた肉を冷蔵庫に入れた。颯太は、明日の手術が無事に終わったらこの料理をゆっくり味わおうと心に決め、ほっとひと息ついた。


疲れ切った体を引きずるようにしてお風呂に入り、湯に浸かると心と体がじんわりとほぐれていくのを感じた。手術のシミュレーション、そして緻密な準備を重ねたこの数日間の緊張が少しずつ和らいでいく。湯気の中で、彼は明日の手術が成功することを祈るように心の中で呟いた。


風呂から上がると、乾いたタオルで髪を拭きながらベッドへ向かった。体がずっしりと重く、ベッドに入ると文字通り倒れ込むように横たわり、目を閉じる。手術のことが頭をよぎったが、そのまま静かに意識が遠のき、数秒後には深い眠りに落ちていった。


暗闇の中で夢を見ているようだった。淡い光の中、どこか懐かしい景色が広がり、自分が幼いころに父親と散歩した森のようにも思えた。父の穏やかな声がどこかで聞こえるような気がして、颯太はその声を追いかけようと手を伸ばしたところで、ふっと目が覚めた。


暗闇の中、颯太はぼんやりとした意識で鳴り響く携帯電話の光を見つめた。寝ぼけた頭が次第に覚めていき、表示された「旭光総合病院」の文字が視界に入る。病院からの電話は滅多にかかってこない。心臓外科医や循環器の医師が夜勤で待機しているため、呼び出されないのだ。

呼び出されることがあれば、それは緊急を要する状況に違いない。


颯太の胸の奥に不安が広がる。もし、病院からの呼び出しがあるとすれば…それは同僚に何かあったか、救急が重なって手が足りない場合、あるいは――自分の担当患者が急変した時だ。

心臓が一瞬、締め付けられるように鼓動を強める。冷や汗を感じながら、颯太は携帯を手に取り、震える指で通話ボタンを押した。


「…神崎です」


少し眠気の残る声で応えると、電話の向こうから緊迫した声が聞こえてきた。


「颯太…神崎先生、霧島です。村上さんの容体が急変して…心停止しています!現在、蘇生措置を行っていますが、至急、病院に来てください!」


その一言が、まるで雷に打たれたように颯太の頭の中で響き渡り、一瞬で眠気が吹き飛んだ。


「…わかりました、すぐに向かいます!」


電話を切ると、颯太はほとんど無意識に着替えを掴み取り、家を飛び出した。胸の奥に不安と焦燥が渦巻き、村上さんの顔が頭をよぎる。微笑んで語りかけてくれた言葉、弟子たちと語り合ったあの温かな病室の光景が次々と浮かんできて、颯太の胸を強く締め付けた。


「待っていてください、村上さん…絶対に助けるから」


颯太はその一心で、夜の闇の中を駆け抜け、村上さんが待つ病院へと急いだ。


颯太は家を飛び出すと、無我夢中で走り出していた。冷たい夜風が頬に当たり、肌を刺すような寒さを感じるが、それさえも今はほとんど意識に入らない。ただひたすら前へ、村上さんの元へと急ぐことしか頭になかった。


「心停止…」


その言葉が頭の中で何度も繰り返される。蘇生措置をしているという由芽の声がまだ耳に残っていて、恐ろしい想像が頭をかすめるたび、胸が張り裂けそうになる。これまで数えきれないほどの患者を担当してきたが、実は颯太が担当し、手術を待っている間に急変し心停止という患者さんは初めてだった。


「絶対に助けなければ…」


走る中で胸の奥からそんな強い想いがこみ上げてくるが、それとは裏腹に、手が震えていた。冷えた夜風のせいではない。自分の手がまるで他人のもののように感じられるほどの震え。いざという時に冷静でいられなければならない医者としての自分に、今の動揺があまりに情けなく、悔しかった。


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