翌日、村上さんの治療方針について、木村先生と颯太、村上さんご夫婦、そして病棟の担当看護師が集まり、カンファレンスを行うことになった。村上さんの病室に設けられたカンファレンススペースで、皆が席に着くと、颯太は落ち着いた表情で話を始めた。
「村上さん、奥様、今日は村上さんの治療方針についてお話したいと思います」
村上さんと奥さんが真剣な表情で頷き、颯太に視線を向ける。その静かな緊張感を受け、颯太は手元の資料に視線を落としながら続けた。
「村上さんに必要な手術は、CRT-D、いわゆる『心臓再同期療法(CRT)』と『植込み型除細動器(ICD)』の併用を考えています。この手術によって心臓の収縮を再調整し、不整脈による突然死のリスクを低減させることができます」
颯太はCRT-Dについて丁寧に説明した。CRTの機能で心臓の左右の収縮タイミングを調整し、心臓全体のポンプ機能を改善する効果が期待できること。そして、ICDが命に関わる不整脈を感知した場合、自動で電気ショックを与えて心拍を正常に戻す役割があることも伝えた。
「この手術を行うことで、心臓の負担を減らし、突然の心停止などのリスクを回避できる可能性が高まります。もちろん根治を目指した手術ではないですが、村上さんの体調や今後の生活の質を考えると、非常に有効な選択肢だと思います」
村上さんは静かに話を聞き、何度か深く頷いていた。隣で話を聞いていた奥さんも、緊張した表情を浮かべながら真剣に耳を傾けている。
「村上さん、この治療に関してご不安や疑問があれば、どうぞ遠慮なくおっしゃってください」
颯太の言葉に、村上さんはしばらく考え込み、ゆっくりと口を開いた。
「ありがとう、神崎先生。俺も…覚悟を決めてみようかと思う。ただ、先生方に迷惑をかけるかもしれないのが心配でね」
木村先生がにっこりと微笑みながら答えた。
「村上さん、医者の仕事は、患者さんが少しでも良くなるように全力を尽くすことです。先生に対して“迷惑をかける”なんて思わないでください」
その言葉に、村上さんは小さく笑い、奥さんと視線を交わしながら頷いた。
「では、手術の日程について進めさせていただきます。なるべく早い日程でお取りしますので」
と、颯太が最後に締めくくると、村上さんの目には確かな決意が宿っているのが見えた。その姿に、颯太もまた新たな決意を胸に抱いた。
カンファレンスが終わり、颯太は村上さんを病室に送り届けた。村上さんの奥さんが少し席を外して売店に行くと言うので、颯太は村上さんのそばにいることにした。静かな病室の中、しばらく二人は無言で過ごしていたが、奥さんが部屋を出ていくと、村上さんがぽつりと口を開いた。
「先生…実はね、手術を決めたものの、俺はあまり欲張る気はないんだ。一度は諦めた命だからね。これからはボーナスタイムだと思って生きることにしたんだ」
村上さんは穏やかな微笑みを浮かべていたが、その瞳に遠くを見つめるような色が宿っていた。颯太はその言葉に一瞬、何かを言おうとしたが、村上さんの覚悟が伝わってきて、黙って頷くことにした。
村上さんは、続けるようにふっと息をつき、静かに話を始めた。
「先生のお父さん…航太郎先生が亡くなる少し前のことだ。実は、僕はあの美術館で先生に会ったことがあるんだ」
「え…?父と、美術館で…ですか?」
突然の言葉に、颯太は驚き、思わず村上さんを見つめた。父が亡くなる直前に美術館に足を運んでいたことを、颯太はこれまで知らなかった。ずっと主夫として家のことをしてくれていたし、それ以外は庭にいるか部屋にこもっていたから。
村上さんは小さく頷いて、記憶を辿るように語り続けた。
「ああ。その時の先生は、病院で会った時とはまるで別人のようだった。顔色も悪くて、かなり憔悴していたんだ。俺はそれを見て驚いたよ。あの航太郎先生がこんなにも弱っているなんて、とね」
颯太は驚きと共に、父の最後の姿を思い描いた。村上さんは、そんな颯太の様子を見つめ、穏やかに続けた。
「心配になって、俺は声をかけたんだ。『先生、僕は先生に救われました。先生に生かされた命があることを忘れないでください』ってね。俺もあの頃は、自分の命がどうなるかわからなくて不安だった。でも航太郎先生はいつも適切な治療してくれて…先生の支えがなければ、ここまで生きていられなかったと思っている」
村上さんの言葉に、颯太は胸が締め付けられるような思いだった。父が患者の命を救い、その命が今また自分の目の前にいる。村上さんが命をつないできたその重みが、颯太の中に深く染み込んでいくようだ。
村上さんは、遠い昔を思い出すように微笑みながら、ゆっくりと目を閉じた。
「神崎先生、ありがとう」
村上さんは、少し間を置いて静かに続けた。
「神崎先生、約束してほしい。あんまり無理はしないで体を大事に。先生は若い。もっと多くの人を助けていける。俺のために無理して体も心も消耗しちまうのは…望んでいない。最近、顔色悪いからさ。航太郎先生を思い出しちゃってな」
颯太は、その言葉に戸惑いを感じた。村上さんの表情は穏やかだ。
「ありがとうございます。村上さん、でも…僕は全力で治療します。村上さんがボーナスタイムと言うなら、その時間を少しでも延ばせるよう、最善を尽くしますよ」
そう答えると、村上さんはふっと笑みを浮かべ、微笑みながら、静かに首を振った。
「先生、ありがとう。俺もそう願っているよ。でも、もしこのまま…だとしても、俺は十分満足してるんだ。その気持ちは変わらない。家族にも支えられて、仲間も見送ってくれて、こうして航太郎先生の息子さんにも担当してもらえた。こんなに恵まれた人生、他にはないだろう」
その言葉に、颯太の胸に締めつけられるような感情が湧き上がった。
「村上さん…最後まで…頑張りましょう」
「ああ。先生がそう言ってくれるなら、俺ももう少し頑張ってみるか」
と答えた。その後、奥さんが病室に戻ってきたので、颯太は村上さんに礼を言って部屋を後にした。
村上さんの手術は、予定よりも早く3日後に決定された。心エコーや血液検査の結果から、心臓の収縮機能がさらに低下し、左心室の拡張が進行していることがわかった。村上さんはここ数日で息切れと倦怠感が増し、日常の動作も難しくなっていた。さらに、不整脈の発作が頻発し、CRT-Dによるペースメーカー機能と除細動機能が早急に必要と判断されたのだ。
病棟のスタッフも、村上さんの状態に懸念を抱きながら、手術が必要な緊急性について話し合い、準備を進めていた。
そんな中、村上さんの病室には、連日面会客が絶えることがなかった。特に弟子の渡辺さんと弓田さんは、まるで持ち場を放棄できないというように、村上さんのそばで過ごしていた。渡辺さんは時に硬い表情を見せ、真剣なまなざしで村上さんと話し込むこともあれば、懐かしい話に村上さんが笑みを浮かべることもあった。
一方で、弓田さんも同じく村上さんのそばを離れず、無邪気な表情で世間話や私生活についての悩みを相談していた。村上さんは、二人の話に耳を傾け、時には励まし、時には厳しい言葉も投げかけていた。
時折、部屋の外まで聞こえるほどの賑やかな声が響き、時には言い合いのような喧嘩になることもあったが、どちらも真剣で、村上さんとの絆を感じさせるやり取りだった。