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第8話

颯太は改めてその建物のことを思い返した。渡辺さんを見たことがあると感じたのは、あの美術館のフロントに顔写真が載っていたからだ。そういえば、村上さんの顔写真と名前も載っていたような気がする。


それに、手前と奥では建築様式が異なっているが、不思議と調和し、美しく融合しているように見えた。それも村上さんと渡辺さんの調和だったのかと…。

渡辺さんは続けた。


「おやっさん……。村上さんにずっと憧れてきました。あの人の仕事を間近で見て、学んで、いつか自分もあんな風に人に感動を与えられる建物を作りたいと思って…でも、正直なところ、あまりにも大きな存在で、反発した時期もありました」


渡辺は照れくさそうに苦笑しながら、目を伏せた。


「だから、一時期はまったく違う方向の建築を目指そうともしました。でも、結局、俺の中に残っていたのは、やっぱりおやっさんの背中で…。今もなお、少しでもあの人に近づきたい。もっと学びたいって思っているんです」


そう言うと、渡辺は改めて颯太を見つめ、深く頭を下げた。


「おやっさんを、どうかよろしくお願いします」


渡辺の真摯な姿勢に、颯太は胸が熱くなり、静かに頷いた。


「渡辺さん、わかりました。僕も村上さんのことをしっかり支えていきます。村上さんにとって、渡辺さんがどれほど大切な存在か、お二人の雰囲気からも伝わってきています」


渡辺は感謝の意を込めて再び頭を下げた後、颯太に軽く笑顔を見せて、部屋を出ていった。颯太はその背中を見送りながら、村上さんが残した影響の大きさと、人との絆の深さを再び強く感じていた。


村上さんへの面会は、それからというもの、次々と絶え間なく訪れるようになった。かつての仕事仲間だけでなく、まちの職員や、かつて彼と共に地域のプロジェクトを手がけた元議員たち、さらには村上さんが支援してきた団体の関係者までもが訪れた。


そのたびに、村上さんは懐かしそうに微笑みながら相手と言葉を交わしていたが、その数があまりにも多く、颯太や看護師たちが村上さんの体力を気にして、面会時間に制限を設けるほどになっていた。


颯太も村上さんがどれほどの影響力を持っていたかを実感せずにはいられなかった。まるで、村上さんがこの町に築いてきた人々との絆が今になって一つひとつ結び直され、彼の心に再び命を吹き込んでいるようだった。


翌日の夕方、颯太が村上さんの病室を訪れると、村上さんは疲れた様子ではあったが、どこか充実した表情でベッドに座っていた。


「村上さん、今日もずいぶんたくさんの方が面会に来られていましたね」


颯太が微笑みながら声をかけると、村上さんは静かに頷いた。


「あぁ…そうですね…みんな、こんな歳の自分を覚えていてくれるんだとは、正直思ってもいなかったよ。俺なんかが、町や人に少しでも役に立てていたのかと、驚いているくらいだ」


そう言う村上さんの目には、どこか潤んだ光が宿っていた。彼はしばらく沈黙し、視線を遠くに向けて呟くように続けた。


「神崎先生、俺は…俺の人生は終わってもいいと思っていた。けれど、こんなに多くの人が会いに来てくれると、自分のやってきたことに少しでも意味があったんだと思えてきて…未練が出てくるよ」


颯太は村上さんの手をそっと取り、温かい視線を向けた。


「村上さん、皆さんがこうして訪ねてくるのは、村上さんがたくさんの人にとって大切な存在だからです。そして、その皆さんのために、村上さんができることは、まだきっとあるはずです」


その言葉に、村上さんは考え込むように頷き、また遠くを見つめた。


「俺が…まだ何かできることがあるかもしれない、か」


村上さんの心に、再び小さな希望が灯っているように見えた。その希望の炎が、やがて彼の中で大きく燃え上がる日が来るかもしれないと、颯太は感じずにはいられなかった。


颯太は、村上さんの病室に入り、用意してきた治療方針について話し始めた。これからの選択が村上さんにとって最良のものになるように、言葉を慎重に選びながら説明を進めた。


「村上さん、検査の結果を踏まえて、いくつかの治療法をご提案させていただきます。どれも村上さんの負担を少しでも軽減しながら心機能を改善することを目指したものです」


村上さんはゆっくりと頷き、颯太の言葉に耳を傾けている。


「まず一つ目は、CRT、つまり心臓再同期療法です。この治療法はペースメーカーを用いて心室の収縮タイミングを整え、心臓のポンプ機能を改善するものです。拡張型心筋症の症状を和らげる効果が期待できます」


村上さんは真剣な表情で聞いている。颯太は続けた。


「次に、ICD、植込み型除細動器です。不整脈による突然死のリスクを下げるための装置で、もしも危険な不整脈が発生した時には自動で電気ショックを与えて心拍を正常に戻してくれます。今の村上さんの状態には、不整脈のリスク管理が重要です」


村上さんは眉間に少ししわを寄せたが、真剣に考えているようだった。


「それから、今行っている薬物療法の強化も選択肢のひとつです。心不全治療の薬に加えて、体に負担をかけないよう薬の調整や利尿剤の量を見直していくことで、より効果的に心機能をサポートすることができます」


「薬だけで、そんなに変わるもんかな」


と、村上さんがぽつりと呟いた。

颯太は柔らかく微笑んで、


「はい、無理のない治療で、少しずつでも改善が見込める場合もあります」


と答えた。


「さらに、もう少し大がかりにはなりますが、LVADという左室補助人工心臓の選択肢もあります。これは左心室のポンプ機能を補助する装置で、血液を全身に送り出す力をサポートしてくれます。技術の進歩により、安全性もかなり向上しています」


村上さんは深く考え込んだように、視線を窓の外に向けた。


「最後に、リハビリの一環として軽い運動療法もあります。これは体力の維持や心不全の進行を抑えるのに有効とされ、無理のない範囲で体を動かしていくことで、生活の質も高まります」


村上さんは再び小さく頷き、しばらく黙っていた。その沈黙を破ったのは、ゆっくりとした、しかし確かな口調の村上さんの声だった。


「先生、こんなに色々な方法があるんだな…俺にはもう何もできないと思ってたが…」


颯太はその言葉に静かに頷き、村上さんの目をしっかりと見つめた。


「村上さん、ご自身の身体ですが…奥様ともしっかりと話し合ってみてください」


村上さんは、しばらくじっと考え込んだあと、小さく息を吐き出し、微笑んだ。


「ありがとう、神崎先生。考えてみるよ。少しずつだけど、俺もやれることがまだあるかもしれないって思えてきた」


颯太はその言葉に、ほっと安堵の表情を浮かべ、頷いた。


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