その夜、自宅のキッチンでいつものようにメスを握り、無心で料理をしていると、湯上りの母親が近づいてきた。
「なんだか最近、手つきが早くなったわね。メスで料理しているのを見慣れちゃったわ」
と、微笑みながら話す母親に颯太は顔を上げた。
「そうかな?意識したことはないけど、料理は…なんていうか、考えがまとまらない時にやってると落ち着くんだよね」
母親は彼の隣に立ちながら、彼が切り揃えている野菜を見てうなずく。
「そうね。私もそういう時あるわ」
「そっか」
颯太はメスを置き、ふと顔を上げて母親に尋ねた。
「母さんさ、もし俺が結婚して、子どもが生まれて…自分が治らない病気になったら、積極的な治療はせずに、自然に逝きたいと思う?」
母親はその質問に少し驚いた表情を見せ、しばらく黙ったまま考え込んでいた。颯太は自分の問いかけに、母がどんな答えを返すのかと、心の奥で静かに緊張していた。
やがて母親は、ゆっくりと優しい笑みを浮かべながら口を開いた。
「そうね…私は、自然に過ごしたい気持ちもあるけれど、もし自分がまだ何かできることがあるなら、きっと少しでも長く生きたいと思うかもしれないわ。それが仕事のためなのか、家族のためなのかは関係なくてね」
颯太は静かに聞いていた。母は続ける。
「周りに支えてくれる人がいて、自分を待っていてくれる人がいるなら、やっぱりその人たちと一緒に少しでも多くの時間を過ごしたいって、思うんじゃないかしら。自分がどんな小さな力でも、その人たちのためにできることがあるなら、それを最後まで全うしたいってね」
その言葉に、颯太の心の中で何かがふっと解けるような感覚があった。村上さんが自らの役割を終えたと感じているのは、彼の中で「自分はもう何もできない」という思いが支配しているからなのかもしれない。だけど、もし村上さんが「自分にはまだ何かできることがある」と感じたとき、彼もまた未来を見つめる力を取り戻すのではないか。
颯太は母親に礼を言って、再びメスを手に取った。その手つきは少しだけ軽くなっていた。
翌日、颯太は午後一番に村上さんの部屋にむかった。部屋に入ると、室内の空気が昨日とは違う緊張感に包まれているのを感じた。視線を巡らせると、昨日会ったばかりの弓田真一、そして初対面の男性が立っていた。年齢は50代くらいだろうか。どこかで見たことがあるような顔だ。
颯太が挨拶すると、男性も静かに頷き、自己紹介を始めた。
「渡辺といいます。おやっさん…村上さんには、若い頃からずいぶんお世話になっていました」
その名前に、颯太はどこか聞き覚えがある気がしたが、すぐには思い出せなかった。しかし、何より気になったのは、村上さんの表情だ。村上さんは、いつもの穏やかさを失い、厳しい顔で渡辺を見つめている。眉間にしわを寄せ、口もとをぎゅっと結んで、何か言いたいことをぐっとこらえているように見えた。
渡辺もそれを感じ取ったのか、居心地悪そうに視線をそらしながら話し始めた。
「渡辺…用はない。帰れ」
村上さんの短く鋭い「帰れ」という言葉に、室内の空気が一瞬で凍りついた。渡辺も驚いた表情を見せ、一瞬言葉を失ったが、すぐに眉をひそめて村上さんを見つめ返した。
「帰りません」
渡辺さんもキッパリと言い切った。
「相変わらず厳しいですね、おやっさん。でも、話も聞かずに帰れとはひどいんじゃないですか?」
村上さんは顔をしかめ、さらに低い声で答えた。
「お前と話すことはない。勝手に辞めていったやつが、今さら…おこがましいにもほどがある」
渡辺は一瞬言葉に詰まったが、すぐに口元を引き締め、気持ちを押し返すように言葉を続けた。
「確かに、あの頃の俺は未熟だった。でも、おやっさんのやり方だって無茶だった!何でもかんでも厳しく指導すればいいと思ってたんですか?あの頃の俺に、少しでも理解があったら…」
「理解?」
村上さんは冷笑を浮かべ、渡辺を見据えた。
「お前のために理解なんか必要あったか。俺たちの仕事には妥協なんて許されないんだ。命をかけてやる仕事に中途半端な気持ちで臨んでいいはずがない」
渡辺も負けじと声を張り上げた。
「でも、あんたのそのやり方が、どれだけ俺たちを追い詰めてたか、わかってますか?あんたに背中を押されるたびに、俺たちはどれだけ自信を失い、辞めていった人もいたんだ!」
村上さんはその言葉に反応せず、ただ無言で渡辺を見つめていたが、やがて深くため息をついた。
「優しいだけでは人間は育たん…」
その言葉に、渡辺は一瞬ぐっと言葉を飲み込んだ。村上さんの厳しい視線に、言い返したい気持ちと認めざるを得ない現実が、胸の中でぶつかり合っていた。
「そうかもしれません。わかってるんです。この年になって…あの頃のおやっさんと同じ立場になってわかることが多い。おやっさん…」
村上さんはその言葉を静かに聞き、ほんのわずかに表情を緩めた。そして、ぽつりとつぶやくように言った。
「…そうか。俺も…厳しすぎた面があったかもしれん」
渡辺は唇を噛みしめ、静かに村上さんを見返した。
「俺、こんなふうに喧嘩するつもりで来たんじゃない。おやっさんにずっと会いたかった。逃げてしまった謝罪と、育ててくれた感謝を伝えたかった。おやっさんの厳しさがなければ、ここまで来れなかった。だから感謝してるんです。本当にありがとうございました」
村上さんは、少し照れくさそうに目をそらし、
「礼なんかいい。…いい建築家になったな」
とぽつりとつぶやいた。互いにぶつかり合い、しかし心の奥にある感謝と尊敬が、わずかに通じ合った瞬間だった。
話が途切れ、静かな沈黙が流れた。その時、村上さんが颯太に声をかけた。
「神崎先生、話が長くなってしまって、すまんな。話を続けてください」
颯太は当然話をふられ、驚きながらも微笑んで、
「いえ、どうかお気になさらず。僕も村上さんのお話を聞くのが楽しかったので」
と応じた。そして、ふと考え、もう少し村上さんと渡辺さんが二人きりで話をする時間を持たせてあげたほうが良いかもしれないと思った。
「別の用事を思い出しましたので、失礼いたします。またあとできます」
颯太は手短に告げ、軽く頭を下げて病室を出ることにした。村上さんの視線を背中に感じながらも、扉を静かに閉じた。
廊下に出ると、颯太は扉越しに村上さんと渡辺が再び話し始めるのを聞いていた。村上さんの人生に深く関わった人物が、こうして一人また一人と訪れて、過去の絆を思い出しながら心を通わせる場面を見届けられるのは嬉しい。
村上さんが大切にしてきたもの、それが彼の中で少しずつ再び輝きを取り戻しているような気がした。
颯太は廊下に立ち、そっと目を閉じて村上さんの過去と現在に思いを馳せたのだった。
その日の夕方、颯太の元を訪ねてきた渡辺と病棟のカンファレンス室で話すことになった。渡辺は村上さんの病状や手術の予定、今後の治療方針について尋ねたが、颯太は申し訳なさそうに首を振った。
「渡辺さん、申し訳ありませんが、村上さんの個人情報に関わることなので、詳細はお話しできないんです…」
渡辺は残念そうにしながらも、理解を示すように頷き、話題を変えた。
「そうですか…。いや、わかってます。そうだ、神崎先生、まちの美術館には行かれたことはありますか?」
颯太は意外な質問に驚きながら、
「はい、つい先日行きました。今開催されている海外の作家の作品展を見に」
渡辺は嬉しそうに微笑んだ。
「そうですか。あの美術館、奥の部分は村上さんが設計したんです。そして、手前の部分は、僕が担当しました」
と話し始めた。