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第6話

検査結果が出そろい、颯太は医局横のカンファレンス室に入り、検査データの一枚一枚を並べて注意深く見ていた。広げられた心電図や心エコーの画像、MRIの所見、血液検査の結果に目を通しながら、村上さんの病状を改めて確認する。

もちろん、真田先生も隣でじっと結果に目を通している。


「さて、どれどれ。拡張型心筋症に加えて、不整脈も強く出ているみたいだな」


真田先生が画面の心電図を指差した。颯太はその指摘に頷いた。


「はい。心電図を見る限り、やはり心房細動の兆候が出ていますね。脈も不規則で乱れています。長期間の拡張型心筋症の影響で、心臓全体の収縮がさらに弱くなってきているようです」


真田先生は心エコーの画像にも目をやりながら、


「確かに左心室の拡張が著しいな。これだけ心臓が広がってしまうと、血液を全身に送り出す力も相当に落ちているはずだ。結果として心房にも負荷がかかり、不整脈も出やすくなっているだろう」


と、冷静に分析する。「そうですね」と、颯太は続けて左心室の動きを映した心エコーの画像に視線を落とした。


「MRIでも確認しましたが、心筋には瘢痕が見られます。この瘢痕が、さらに電気信号の伝わり方を悪くして、不整脈が出ている原因の一つになっているようです」


真田先生は黙って顎に手を当て、深く考え込む様子を見せた。


「村上さんにとって、この状態は厳しいと言わざるを得ないな。拡張型心筋症が進行することで心臓が大きくなり、心室の収縮力が低下。さらに、不整脈が頻発しているとなると、血液の循環が不安定になる」


「そうですね。このまま進行してしまえば、心臓の機能がもっと低下していくでしょうし、不整脈によるリスクも高まります」


真田先生は颯太の肩にそっと手を置いた。


「厳しい判断を迫られるが、しっかり村上さんの意思も尊重して、治療の方針を決めていくんだ。彼が抱える喪失感や病に対する気持ちも、村上さんの体を支える重要な要素だからな」


颯太は深く頷いた。


颯太は検査結果を胸に抱え、村上さんの病室へと向かった。病室のドアをノックして入ると、村上さんの隣には奥さんと、見知らぬ若い男性が座っていた。颯太が挨拶をすると、その青年が立ち上がり、深く頭を下げた。


「初めまして。僕は弓田真一といいます」


「はじめまして。主治医の神崎です」


「俺の事務所の最後の従業員なんだ。次の職場を斡旋しているのだけど…頑固でね」


村上さんは苦笑いを浮かべて弓田をみつめた。颯太が目を向けると、弓田は、村上さんをじっと見つめた後、颯太の方をむきなおし、話し始めた。


「僕は社長が手掛けた地元の児童施設で育ちました。子どもの頃、あの施設がどれほど居心地のいい場所だったか…。子供や職員のことを考えて暮らしやすいように設計された建物の中で、幸せに暮らせました。社長が毎月訪れては建物の手入れをしてくださった姿に憧れて、僕も同じ建設業に就いたんです」


村上さんは、弓田の話を静かに聞きながら、微笑みを浮かべている。


「社長がいなければ、今の僕は存在していません。僕も、いつか社長のように誰かの居場所を作りたいんです」


と、弓田はまっすぐな瞳で語り続けた。颯太も奥さんも、その情熱に心を打たれていた。そして弓田が言葉を続けた。


「だから、どうか元気になられて、また一緒に作りたいです」


弓田の言葉を聞きながら、村上さんの表情が曇ったように見えた。奥さんも弓田もそれに気づいて、その場が静まり返った。村上さんは窓の外に視線を向け、ぽつりとつぶやくように言った。


「…もう俺には何もできない」


その一言に、弓田は何も言えなくなり、ただ俯いた。颯太も、その重みを受け止めながら、何も言わず黙って聞いているしかできなかった。村上さんの心の中にある深い喪失感と静かな覚悟が、その短い言葉にすべて込められているようだった。

病室の空気は重く沈んでいく。しかし、その沈黙の中で、颯太は村上さんが抱えているものに少しずつ近づいているような気がした。


しばらく沈黙が続いた後、弓田が「それでは、これからバイトに行ってきます」と言って部屋を後にした。奥さんも弓田を送るために部屋を出ていき、颯太と村上さんだけが残された。颯太は、村上さんが見せた静かな覚悟を思い返しながら、何と言葉をかければいいのか迷い、しばし沈黙が続いた。

ふと村上さんが、落ち着いた口調で切り出した。


「先生、もしかして、検査結果と今後の治療について話しに来られたんですか?」


その言葉に、颯太は頷き、手元のカルテを見つめながら、検査結果を伝えることにした。


「村上さん、今回の検査でいくつかのことがわかりました。心臓の拡張が進み、左心室の収縮機能もかなり低下しています。それに加えて、不整脈も確認されました。心房細動の兆候があり、脈が不規則で乱れています。こうした状態が続くと、血液の循環がさらに不安定になり、突然の心不全のリスクが高まります」


村上さんは静かに颯太の話を聞いていたが、その表情は変わらなかった。


「治療としては、薬の調整だけでなく、外科的処置も検討に入れたほうが良いかもしれません。具体的には…」


颯太が治療方針についての提案を話し始めたが、村上さんは聞き終わったあと、静かに首を振りながら微笑んだ。


「先生、今まで通り、服薬だけでいいです。自然に逝きたい。手術もしなくていい。突然死しても、それはそれで仕方ないでしょう」


その言葉を穏やかに笑いながら話す村上さんに、颯太は胸が締め付けられた。しかし、村上さんの意志は揺るがないものに見えた。村上さんは遠くを見るような目で続けた。


「実は、俺の父も40代で突然亡くなったんだ。今にして思えば、父も拡張型心筋症だったのかもしれないな。あの頃、俺はまだ中学生で、父のことがよく理解できなかった。でも、今思い返すと…少し動いただけで息が切れて、疲れたとすぐに横になっていました。それに、唇や手が青くなっていることもあった」


「それは…」


颯太は言葉を詰まらせた。


「きっと、俺の病気も、遺伝性のものでしょう。もしそうだとすれば、俺が今さら何か治療をしても、どうしようもない。俺は先生方のおかげで、この年齢までこうして生きてこられました。おかげで娘と息子の結婚式にも出席できましたし、孫たちの顔も見ることができた。もう、それで十分です」


村上さんはしみじみとした表情で話しを続けた。


「人生に思い残すことはありません。今、家族と穏やかな時間を過ごし、自然に命を全うしたい。それが、自分にとっての幸せなんです」


颯太は、村上さんの覚悟と穏やかな微笑みに深く心を打たれた。医師として何とか助けたいという気持ちはあるが、彼の心かには、彼自身が人生をどう生き、どう終えるかという確固たる意志が宿っていた。


「村上さん…」


颯太は、どんな言葉をかけるべきか迷いながら口をつぐんだ。

颯太は、村上さんの治療方針について迷い続けていた。医師として患者の意志を尊重すべきだとわかっていても、命の灯が消えようとしている目の前の人をただ見守るだけという選択が、どうしても心に引っかかっていた。


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