颯太は、思い切って木村先生に村上さんのことを話し始めた。
「午前中の外来の前に村上さんの診察に伺いました。拡張型心筋症と診断されて長い年月が経っていますよね。ご本人が、もう積極的な治療はせずに自然と最期をむかえたいと言っておられて…」
木村先生は青いジュースを片手に、黙って颯太の話を聞いていた。颯太は続ける。
「拡張型心筋症は本当に難しい病気ですよね。人によって進行の速度も症状の現れ方も違う。薬で長期的にコントロールできる方もいる一方で、外来に来た時にはもう心臓移植しか方法がない方もいます。患者さんの状態に応じてベストを尽くすしかないけれど、何が正解なのか、わからなくなることがあります」
木村先生はしばらく考え込むようにしてから、穏やかな口調で話し始めた。
「その通りだよ、神崎君。拡張型心筋症に限らず、治療には明確な『正解』なんてものはないんだ。人それぞれの体も心も、そして人生の背景も違うから、同じ病気でも一人ひとりにとっての最善の道は違う。それに、医学が進歩しても、患者さんにとってベストな選択肢が見つからないことだってある」
木村先生は遠くを見つめながら、言葉を選びながら続けた。
「医者として一番難しいのは、患者さんがどんな未来を望むか、その選択にも向き合うことだ。村上さんも、ご自身の病気や命について何か強い考えを持っているのかもしれないね」
颯太は頷き、村上さんが言っていた「自然に逝きたい」という言葉を思い出した。生きる意味を失ってしまったと感じる村上さんの覚悟に、どう向き合えばいいのか、自分の答えはまだ見つかっていなかった。
木村先生は微笑んで、颯太の肩を軽く叩いた。
「村上さん、そして家族が何を望むか、しっかり聞いてあげることが大切だ。答えを見つけるのは難しいかもしれないが、彼が少しでも後悔なく、穏やかな日々を送れるように、君がサポートできるはずだよ」
颯太はその言葉に背中を押されるような気持ちになり、村上さんと正面から向き合う覚悟が少しずつ湧いてきた。そして、ただ「治す」だけでなく、村上さんが望む形の「最善」を探さなくてはならないのだろう。
しばらく二人は話していたが、木村先生が院内スマートフォンの呼び出しに応じ、颯太に「じゃあ、お先に」と言い残して屋上を後にすると、屋上には颯太と幽霊の真田先生だけが残った。颯太はぼんやりと空を見上げ、村上さんとの会話や、彼の「自然に逝きたい」という言葉が頭を巡っていた。
すると、真田先生が静かに口を開いた。
「俺が村上さんを診ていたのは、随分昔のことだ。あの頃の彼は、生きる力に満ちていたよ。彼は自分にしかできないことがあると信じていたし、死ぬまで現場に立ち続ける覚悟があった。建築家として、自分の作り出すものに絶対の信念を持っていたからな」
颯太はその言葉に驚き、真田先生に視線を向けた。村上さんのことを深く知る真田先生の言葉は、彼がどれだけ情熱的な人物だったのかを改めて感じさせた。
「村上さんが、それほど生きる力に溢れていたなんて…。今の姿からは、想像がつかないですね」
真田先生はうなずきながら続けた。
「それから村上さんに何があったのか…その間に彼が何を失い、どんな想いを抱え込んでしまったのか。その変化には、きっと何か鍵が隠されているんじゃないかと思うんだ」
颯太は静かに考え込んだ。村上さんの「生きる力」が失われてしまったのは、ただ病気のせいだけではないのかもしれない。建築家として、現場から遠ざかることが彼にとってどれほどの痛みをもたらしたのか。あるいは、それ以上に何か重い出来事があったのではないかと考え始めた。
「真田先生、その『鍵』に気づくことで、村上さんの心を少しはわかってあげられるかもしれませんね」
真田先生は微笑み、颯太の肩を軽く叩くように手を置いた。
「そうだな。お前ならきっと彼の心に寄り添い、彼が抱えているものを一緒に見つめることができる。時には医者としての治療以上に、そうした関わりが患者にとっての救いになることもあるんだ」
颯太は真田先生の言葉に背中を押されるような思いを感じ、村上さんの過去と心の中に何があるのか、もっと深く知りたいと思った。そして、ただ「治療」するのではなく、村上さんがかつての情熱を取り戻し、心から穏やかに過ごせる道を見つけたいと決意したのだった。
村上さんは、颯太が鷹野先生から担当を変わった前日に入院したばかりだったようで、検査の予定をはじめから組み立てることになった。
村上さんは2日間かけて、詳細な検査を受けてもらった。彼の体調や心機能の状態をより正確に把握し、今後の治療方針を決めるためだ。
1日目の検査では、まず心電図検査が行われた。ベッドに横たわり、胸部や手足に電極を貼り付けられると、モニターに心臓の電気的な活動が映し出される。これは不整脈や心筋の異常があるかを確認するための基本的な検査である。次に行われたのは胸部X線検査。心臓の大きさや形状、肺の状態を評価し、心臓が拡大しているかどうかを詳しく見るためだ。
さらに、心臓超音波検査、いわゆる心エコーが行われた。超音波で心臓の内部構造や動きがリアルタイムで映し出され、心室の収縮機能や拡張具合が詳細に確認された。画面に映る彼の心臓は、正常な心臓と比べると、やはり拡張しており、その動きがやや鈍いように見えた。
2日目の検査では、まず血液検査が行われた。心不全の指標となるBNPの値を確認するためであり、また腎機能や電解質バランスを評価することで、彼の全身状態を知る手がかりとなる。
その後、心臓MRI検査が行われた。これは心筋の構造や心筋に瘢痕がないか、あるいは炎症が起きていないかを詳細に観察するためである。村上さんはMRIのトンネルに入り、じっと横たわりながら検査が進むのを待っていた。
そして最後に行われたのは、冠動脈造影検査。これは冠動脈にカテーテルを通し、造影剤を流して心臓周辺の血流を映し出す検査だ。村上さんの冠動脈に狭窄や閉塞がないかを確認するために、細心の注意を払いながら医師たちが慎重にカテーテルを操作していく。
一連の検査が終わり、村上さんは少し疲れた様子だったが、安堵の表情も見せていた。すべての検査が終了したことで、今後の治療方針について考える準備が整ったのだ。
検査を担当した医師が、村上さんに声をかける。
「村上さん、2日間お疲れさまでした。これで現在の状態がよりはっきりとわかると思いますので、また神崎先生と一緒に治療方針を話し合っていきましょう」
村上さんは静かに頷き、「ありがとうございます」とだけ答えた。けれどその瞳には、どこか達観したような光が宿っていた。