「村上さん、最近の症状についてもう少しお聞きしてもよろしいですか?」
颯太はなるべく丁寧に質問を続けた。村上さんは少し考え込んだ後、淡々と症状を話し始めたが、奥さんの携帯電話が鳴り、彼女が「すみません」と言って部屋を出ていく。
二人きりになった静かな病室の中、村上さんがふと口を開いた。
「…先生、もう積極的な治療はしなくていいんだ」
その一言に、颯太は驚いて村上さんを見つめた。
「…なぜそう思われるのですか?」
村上さんは静かに首を振り、目を細めて颯太に微笑んだ。
「先生、俺はもう十分に生きた。俺は建築家なんだが…自分が関わった建物が立ち上がり、空に向かって伸びていくのを見るのが、これまでの生きがいだった」
「…建物、ですか?」
「そう。建物も、いつかは自分で支えきれなくなり、古びて朽ちていくものだ。それが自然の摂理だ。だから、俺も同じように、無理に支えられることなく自然に逝きたいと思っている」
村上さんの言葉には、確固たる覚悟が感じられた。自らが作り上げた建物と重ね合わせ、自然の流れに身を委ねようとする彼の思いに、颯太は言葉を失ってしまった。
「ご家族に、村上さんのご意思は伝えてらっしゃるのですか?」
村上さんは静かに首を横に振った。
「いや。誰にも伝えていない。彼女にはただ、俺が穏やかに過ごしている姿を見せたい。それだけでいいんだ」
と話した。颯太は、その覚悟に心を揺さぶられつつも、村上さんの思いに寄り添うことの難しさを感じていた。医師として、患者の希望と向き合いながらどう寄り添うべきかを、改めて問われている気がした。
村上さんの病室を出た颯太は、午前中の外来診察に向かうため階段を降りようと非常階段の扉を開けた。その先で、村上さんの奥さんが電話をしている姿が目に入った。
「…また連絡するからね。あまり気にやまないでちょうだい…」
奥さんはそう言って電話を切り、少し疲れたようにため息をついた。そして、振り返り、颯太に気づき、軽く会釈をして微笑んだ。
「神崎先生、驚かせてしまいましたね。すみません、つい長話をしてしまって」
「いえ、お気になさらず。村上さんの診察を終えたところです。ちょうど外来に向かうところで…」
と颯太は穏やかに答えたが、村上さんの話した、自然に任せて命を終えたいという話が頭から離れない。奥さんは颯太の様子を見て、小さく笑った。
「先生、私…少しだけお話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
奥さんは少し躊躇しながら、
「先生、主人は…どうでしたか?」
と颯太に尋ねた。颯太は優しく微笑んで答えた。
「今日の診察では、聴診からいくつか気になる点がありましたので、これから詳しい検査を行い、結果を踏まえて今後の治療方針を村上さんとご家族の皆さんと一緒に考えていけたらと思っています」
奥さんはうなずきながらも、どこか不安そうに視線を落とした。その沈んだ表情に、颯太は村上さんが伝えた「自然に任せて逝きたい」という言葉がよぎり、胸が痛む。
少しの沈黙の後、奥さんはふと顔を上げ、絞り出すように言った。
「…先生、主人は…生きるのを諦めているようなことを…話していませんでしたか?」
颯太はその言葉に驚き、一瞬言葉を失った。返答に戸惑っていると、奥さんは苦しそうに視線をそらしながら話を続けた。
「実は、数日前に主人が書いている手帳を偶然見つけてしまったんです。悪いと思ったけれど、少しだけ目を通してしまって…」
奥さんの声が震えているのが分かり、颯太は黙って話を聞いた。
「そこには、夫がどれほど絶望しているかが書かれていました。建築家として現場に立てなくなり、作品を直接手掛けることもできず、ついに事務所もたたむことになるだろうと…。夫にとって建物を設計し、立ち上げていくことが生きがいそのものでした。それが奪われてしまった今、もう自分には生きる意味がない、そんなふうに感じているみたいで」
颯太は胸が締め付けられた。村上さんが感じている喪失感の大きさを、奥さんの言葉を通してさらに深く知った。仕事と情熱の全てを捧げてきた建築家としての人生を、病によって手放さなければならないことが、村上さんにとってどれほど辛いことなのか。
奥さんは涙を浮かべながら続けた。
「私もどう声をかけたらいいのか分からなくて…。夫にとって建築が生きる支えだったから、それを失った彼がどうやって生きる希望を見つけられるのか…」
颯太は少し考え込み、奥さんに向かって静かに言った。
「そうでしたか…」
颯太は村上さんから直接聞いたことを話すことはできない。守秘義務に違反してしまうし、それは颯太が話すことではない。
「神崎先生…これからどうか…よろしくお願いします」
奥さんが深く深く頭を下げる中、颯太は胸の中に重いものを感じていた。
午前中の外来を終え、颯太は昼休みにふと屋上へ足を運んでいた。真田先生と話したい、そう思った。村上さんやその家族のこと、そして父のこと、抱えきれない思いを少しでも軽くしたい。
しかし、屋上の扉を開けると、そこには意外な人物が先約で座っていた。木村先生だ。手には医局のデスク横に置いてある海外産の甘い青色のジュースを持ち、すっかりくつろいだ様子で空を眺めている。
「おや、神崎君か。休憩にしては渋い顔をしているね」
と、木村先生がジュースを片手に振ってみせた。
「…いえ、少し外の空気が吸いたくて」
と、颯太は少し気まずそうに言ったが、木村先生の飄々とした様子に少し心が和んだ。
「これを飲む?まだ一本あるよ」
と、木村先生は青色の甘いジュースを差し出してきた。
「これ、ネットで箱買いしたんだけど、どうにも変わった味でね。甘ったるいけど、疲れた時はこういうのが飲みたくなるんだよねー。外科医あるあるだよね。あははは」
颯太は笑いながらジュースを受け取り、一口飲んだ。確かに甘い上に少し癖のある味で、何とも言えない。颯太は思わず顔をしかめた。
「あれ?海外に行っていたと言っていたから、てっきり飲み慣れているかと思ったけど、少し甘すぎたかな」
「あぁ…いえ…そうですね…」
木村先生は颯太の表情を観察するように見つめ、ふっと口を開いた。木村先生はしばらく颯太を見つめたあと、懐かしそうに空を見上げて呟いた。
「懐かしいなぁ。真田先生とも、よくここで話をしたものだ」
その言葉に、颯太はハッとした。そして、ふと感じた気配に振り返ると、そこには幽霊の真田先生が立っていた。彼はにやりと笑って、木村先生の持っている青いジュースを指さした。
「木村先生にその青くて甘すぎる飲み物を教えたのは、実は俺なんだよな」
と、楽しそうに笑いながら言った。颯太は思わず微笑みながら、真田先生に小さくうなずく。木村先生には真田先生の声は聞こえていないが、懐かしそうな顔で言葉を続けた。
「これも、真田先生が教えてくれたんだよ。最初はあまりの甘さに驚いたけど、不思議と癖になってね。今じゃ疲れたときの定番になったよ」
真田先生は誇らしげに笑い、颯太に目を向けた。
「あの頃、俺もお前くらい若かったけど、色々と悩んでた。木村先生とはよく、患者さんのことでぶつかり合ってな。でも、こんなふうに飲み物を片手に話していると、不思議とお互いの意見も柔らかくなっていったんだ」
颯太は真田先生の話に耳を傾けながら、木村先生に向かって言った。
「木村先生も、真田先生とよく患者さんについて話されていたんですね」
木村先生は目を細めてうなずいた。
「そうだね。患者さん一人ひとりに真剣に向き合う彼の姿に、逆に学ぶことも多かった。悩んだときや迷ったとき、こうして話をするだけで、答えが見えてくる気がしたものだ」
真田先生も、颯太の隣で頷いている。
「そうだ、答えがすぐに出るものではない。でも、話をすることで心が軽くなり、見えてくるものもある」
颯太は二人の想いを感じながら、村上さんの件や自分が抱えている悩みにも少しずつ向き合おうという気持ちが湧いてきた。木村先生とのこの一瞬が、彼にとって新たな気づきの時間になったのだった。