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第3話

「おはようございます…」


颯太は平静を装って挨拶をしたが、二人の視線には気まずさが滲んでいる。

木村先生は一瞬目を伏せてから、表情を引き締めて言った。


「神崎くん、ちょうど君のことを話していたところだ。鷹野先生は、君が今後、ある患者さんを担当するべきだと考えているが…」


「君で問題はないだろう。入院しているから、よくカルテに目を通す様に」


と鷹野先生が木村先生の言葉を遮るように言うと、颯太にカルテを渡した。

颯太は冷静に見えるよう努めながらも動揺を隠しきれないでいた。


颯太は鷹野先生から渡されたカルテを開き、患者の情報に目を通した。


患者さんは、村上 幸男さん。70歳の男性。50歳頃に拡張型心筋症(DCM)を発症した。以降、投薬治療を継続してきた。定期的な通院と投薬治療を受けてきたが、労作時の息切れや疲労感の増加を訴え、心不全の増悪が疑われて検査入院となったようだ。


颯太はカルテを手に、村上さんの服薬状況や血液検査の結果を丹念に見ていった。ACE阻害薬やβ遮断薬の服用が長期にわたって続けられており、利尿薬も併用されている。

血液検査の数値は、腎機能や電解質に注意しつつ薬の調整が行われている様子が窺えた。


過去の治療経過を遡ると、ここ5年間は鷹野先生が主治医として村上さんを診ていたようだ。カルテには、治療の過程で症状の変化や薬の増減、鷹野先生の詳細な診療記録が続いている。その記録には、丁寧に綴られた鷹野先生の所見があり、村上さんの体調が少しずつ変化しているのがわかった。


さらにカルテを遡ると、次に「真田先生」の名前が目に入った。真田先生が担当していたのは高野先生よりも前の数年前。真田先生が熱心に記録した診療内容には、村上さんの精神面でのサポートにも力を入れていた様子が書かれている。村上さんのメンタルケアも真剣に行い、病気と向き合う心の支えとしての役割を果たそうとしていたことがよくわかる。


そしてさらにページをめくっていった颯太は、次の担当医の欄で見覚えのある名前に目が止まった。そこには「神崎航太郎」と、父の名前が記されていた。

颯太は息を呑み、父が残した診療記録をじっと見つめた。父が担当医を務めていた時代、村上さんはまだ50代で、拡張型心筋症の診断を受けたばかりだったようだ。父の手書きで書かれたメモには、村上さんと向き合い、将来に向けた治療計画を立てる熱意がにじみ出ている。治療の方針や薬の調整について細かく記された文章には、一つひとつを丁寧にこなす父の姿が浮かび上がってきた。


「父さんも、村上さんの病気と長く向き合ってきたんだな……」


颯太は、父がこの患者と築いてきた時間を感じるように、カルテの一文字一文字を目で追った。


「どうした?」


鷹野先生の冷たい声に、颯太ははっと我に返った。


「いえ、何でもありません。村上さんのカルテを確認していました」


「そうか。村上さんは長年この病院に通っている患者だ」


鷹野先生は意味深な視線を颯太に向けた。その目には、どこか試すような光が宿っている。


「患者の年齢や状態を考えると、失敗は許されないからな」


颯太は一瞬言葉に詰まったが、深く息を吸い込み、毅然とした表情で答えた。


「…はい」


鷹野先生はしばらく黙って颯太を見つめた後、鼻をならし立ち去っていった。

その時、背後から木村先生が歩み寄り、二人の間に入った。


「神崎くん、大丈夫かい?」


静かな空気が流れる中、木村先生が優しく声をかけた。颯太は小さく頷いた。


「はい。ご心配おかけしてすみません」


「何かあればいつでも相談してね」


木村先生は温かい笑顔を残して去っていった。

一人残った颯太は、再びカルテに目を落とした。父が担当していた頃の詳細な記録が綴られている。治療方針、薬の調整、細やかな経過観察。すべてが丁寧に記載されていた。


「父さん…」


その時、ふと背後から声が聞こえた。


「颯太、大丈夫か?」


振り向くと、幽霊の真田先生が心配そうな表情で立っていた。


「真田先生…」


「村上さんか。不思議な縁だな。お前の父親が村上さんをどれだけ大切にしていたか、俺もよく知っている。担当していしていたのは随分昔だがな」


颯太は深く頷いた。真田先生は微笑み、颯太の肩に手を置いた。


「応援しているぞ。俺もできる限り力になるからな」


颯太は決意を胸に、カルテを閉じた。


「まずは村上さんと話をしよう」


そう呟き、颯太は病室へと向かった。廊下を歩く足取りは、これまでになく力強かった。


颯太は循環器病棟に降り、村上さんの病室に向かった。廊下を進み、目的の個室の前で立ち止まる。扉を軽くノックすると、中からゆっくりと扉が開き、女性が顔を見せた。


「失礼します。神崎颯太と申します。村上さんの担当医として本日から診させていただきます」


颯太が丁寧に挨拶をすると、女性は穏やかな笑みを浮かべて小さく会釈をした。


「お話は伺っております。よろしくお願いします。私は村上の妻です」


彼女に促されるように中へ入ると、ベッドのリクライニングを上げた状態で村上さんが窓の外を見つめていた。その姿は落ち着いた様子で、静かに外の景色を楽しんでいるようにすら見える。


「村上さん、こんにちは。神崎と申します。これから担当させていただくことになりました」


颯太が声をかけると、村上さんはゆっくりとこちらを振り向いた。その目には歳月が刻まれた優しさと、長年の病気との闘いによる覚悟が垣間見えた。


「ああ、先生。お忙しいところありがとう。外の景色を見るのが好きなんだ。ほら、そこにも鳥が…」


村上さんの柔らかな言葉に、颯太は微笑みながらうなずいた。


「どうぞ、お気になさらず。村上さんの体調についてお話をお伺いできればと思います」


村上さんはゆっくりと頷き、苦笑を浮かべた。


「はぁ…ちょっと動くとすぐに息が上がってしまってね、情けないものだよ」


奥さんも心配そうに村上さんの隣に寄り添いながら話を聞いている。


「こんな状態になるまで、ずっと我慢していましたからね…。でも、私たち家族も少しでも長く元気でいてほしいと思っていますので、どうかよろしくお願いします」


奥さんの言葉に耳を傾けていると、村上さんは颯太のネームプレートに目を留め、しばらく彼の顔をじっと見つめた。


「もしかして…航太郎先生の息子さんかい?」


颯太は一瞬驚いたが、すぐに微笑んで答えた。


「はい、神崎航太郎の息子です。村上さんは父のことをご存じなんですよね」


村上さんは懐かしそうに頷いた。


「ああ。航太郎先生には、本当にお世話になったよ。私がこの病気と診断された頃、航太郎先生が担当してくださってね。とても親身になって話も聞いてくれて…。素晴らしいお医者さんだった」


奥さんも微笑みながら話に加わった。


「そうでしたね。航太郎先生はいつも丁寧にはなしをしてくださって、私たち家族も安心してお任せできました」


颯太は父の患者に対する接し方を改めて知り、胸が温かくなるのを感じた。


「父がそのようにお役に立てていたと聞いて、嬉しいです。僕も精一杯サポートさせていただきますので、どうぞよろしくお願いします」


村上さんは微笑みながら頷いた。


「こちらこそ、よろしく頼むよ」


その後、颯太は聴診器を取り出し、村上さんの胸に当てた。


「では、少し診察させていただきますね」


聴診では、やはり第一心音が減弱している。心筋の収縮力低下により、第一心音(S1)が減弱するのだろう。さらに第三心音もわずかに聞こえる。心室の拡張と充満圧の上昇により、拡張早期に第三心音が聴取されるのだ。


颯太はこれらのポイントを意識しながら、村上さんの心音を丁寧に聴診した。


「ゆっくりと深呼吸をお願いします」


村上さんは指示に従い、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。聴診を終えた颯太は、村上さんと奥さんに向き直った。


「ありがとうございます。詳しい検査を行い、今後の治療方針を一緒に考えていきましょう」


村上さんは穏やかな表情で頷いた。そんな穏やかな表情を浮かべている村上さんだが、颯太はその表情に一抹の違和感を覚えた。言葉にはできないが、村上さんの瞳の奥に何か重たい決意のようなものが宿っている気がしてならなかった。


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