目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第2話

颯太たちは美術館の展示室を見て回った。手前は近代的なデザインの新しい建物だが、奥に進むにつれて、古い建物へと続いている。まったく異なるデザインが融合しているのが不思議で、颯太は思わずその建物の構造に目を奪われた。


「奥にこんな建物があったかな…?」


と、首をかしげながら母に尋ねる。


「ええ、あったわよ。昔からこの場所にね」


と、母は懐かしそうに微笑んだ。


「あなたが生まれる前だから、今から二十数年前ね。まだこのあたりには高層ビルもなくて、ここも周りから少し離れたような木に囲まれた場所だったのよ。だからこの美術館も、知る人ぞ知る隠れたスポットみたいな場所だったわ。自然の中に融合する木の造りが素敵でしょう?」


颯太はその話に頷き、目の前の古い建物に視線を向けた。古い木と石造りのファサードは時の流れを感じさせ、アンティークな窓枠や木製の扉が温かみを感じさせる。それが不思議と新しい建物と調和し、むしろ異なるデザインが織りなす変化の美しさが一層引き立っているようだった。


「こんなに異なるデザインが融合してるのに、不思議と違和感がないよな。むしろその変化がきれいだ」


颯太はつぶやきながら、母の隣で改めて建物全体を見上げた。


「計算し尽くされたデザインなのね。変化を重ねながらも、元の魅力を保っている。人生も、こうありたいものだわね」


母の言葉には、どこか感慨深いものが滲んでいる。


「確かに…そうだね」


と颯太は答えながら、この美術館のように、自分の人生も様々な経験が調和し、形作られていくのかもしれないと感じた。

その時、真田先生が横で小さくうなずきながら、


「この変化こそが歴史ってもんだ。変わりながらも守られてきたものがこうして存在するってのは、すごいことだよな」


颯太は、その一言に深く同意し、変わりゆくものと変わらないものの美しさを、しばらくの間じっくりと味わっていた。


しばらく美術館内を歩き回ったあと、母がふと足を止めて


「ちょっと疲れちゃったわ」


と微笑んだ。


「そうですよね、結構歩き回りましたし。少し休憩しましょうか」


と由芽が気遣うように声をかけ、近くにあるカフェスペースへ向かうことにした。母はいつも忙しい日々を過ごしているが、看護師として立ち仕事が多いこともあり、長い間腰痛を患っているのを颯太は知っている。

カフェに入り、窓際の席に腰を下ろすと、母はため息をつきながらも微笑んだ。


「最近特にひどいのよね、腰痛。歳かしらね」


笑いながら軽く背筋を伸ばす。


「腰、ひどいようならちゃんと受診した方がいいよ。無理すると余計に悪化するし」


颯太は心配そうに母に声をかけた。


「そうねぇ。でも、忙しいしなかなか行けなくて…」


母は言い訳するように言うが、その表情に無理を隠していることが見て取れた。


「お母さん、看護師さんとして患者さんには健康をすすめてるんでしょう?自分の体も大事にしてよ」


颯太が少し笑いながら言うと、由芽も頷きながら


「そうですよ、お母さん。腰が悪化すると日常生活にも支障が出てしまいますよ」


と優しく促す。


「そうね…二人に言われたら仕方ないわね。ちゃんと考えるわ」


母は少し照れくさそうに微笑んだ。


カフェスペースで休みながら、柔らかな光の中で話が弾んでいた。ふと、颯太が少し思い出すように口をひらいた。


「母さん、ここには父さんとも来たことあるの?」


母は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに懐かしそうな笑顔を浮かべた。


「ええ、あるわよ。お父さん、あの奥の木と石レンガの建物が好きだったのよね。デートで来ると、もうずっとあそこで過ごすの。私が『もう帰ろう』って言うまで全然動かなくてね、当時は少し困ったものよ」


照れくさそうに笑う。


「そんなにここが好きだったんだ」


颯太は初めて知る父の一面に心が温かくなる。


「そうねぇ、お父さんはなんでもじっくりと味わいたい性格だったから。作品の一つ一つに時間をかけて、まるで自分の手のひらで感じ取るみたいに見つめていたのを覚えているわ。私が『早く次に行こうよ』と言っても、微笑みながら首を横に振って、『もうちょっと』って」


母の語る父の姿が目に浮かぶようで、颯太も自然に微笑んだ。こんなふうに美術館で無邪気な一面を見せていたのだと思うと、なんだか親近感が湧く。

由芽もその話に耳を傾け、微笑んでいた。


「素敵ですね、なんだかお父さんの人柄が伝わってきます」


「ええ、今でもよく覚えているわ。…あの日々が懐かしいわね」


母がふと遠くを見つめるように言った。その言葉に、颯太は父の記憶をそっと胸に刻みながら、いつまでも消えない家族の絆を感じていた。


「ちょっとおトイレ行ってくるわね」


と母が席を立つと、由芽も


「じゃあ、私も行きます」


と言って席を外した。颯太が一人になったその時、真田先生が少し感慨深そうな表情で、静かに話し始めた。


「神崎先生は本当に素晴らしい人だった。俺の兄の手術を担当してくれた時も、俺たち家族一人ひとりへの配慮が行き届いていてな。術前も術後も。そして兄のメンタルケアを細やかに見守ってくれた。医師としても人としても、見習いたい部分ばかりだったよ。さっきお母さんが話していた姿を聞いて、彼が見ていた世界の一端がわかった気がする」


颯太は真田先生の言葉を静かに聞きながら、自然と目の前に父の姿が浮かんだ。


「そうですね……僕も子どもの頃の父との記憶を思い出してきました。父は一つ一つを丁寧にこなす人で、料理も家事も、僕の宿題を見てくれるときも、決して急がず、いつもじっくり付き合ってくれてました」


そこまで話して、颯太はふと考え込むように視線を落とした。


「…でも、そんな父が医療ミスをしたんでしょうか…?丁寧で細やかな父が仕事に対して手を抜く姿なんて見たことがなかった。それなのに、どうして……」


颯太の言葉には疑念と戸惑いが入り混じっていた。自分が知っている父の姿と、世間に広まっている「医療ミスを犯した医師」としての父の姿が、まるで重ならない。颯太は胸の奥に押し込めてきた疑問が、再びゆっくりと頭をもたげてくるのを感じていた。

真田先生は静かにうなずき、少し考え込んだ表情で言った。


「そうだな。神崎先生のように一つひとつを大事にする人が、何の理由もなくミスをするとは俺も思えない。葬儀のとき、お前の母さんからも、『今でも私は信じています。あの人は精一杯治療をした。ミスなんて…私だけは信じ続けるつもりです』って言われてな」


「母がそんなことを…」


「ああ。だから、俺も言ったんだ。『僕も信じます。神崎先生は精一杯治療してくれました。ありがとうございました』ってな」


「真田先生…」


颯太は真田先生の言葉に深くうなずき、改めて父の足跡を辿り、自分の中にある疑問に向き合おうという決意が芽生えたように感じた。


美術館へ出掛けた、週明け。

颯太が出勤して医局の扉の前に立つと、内側から木村先生と鷹野先生の激しい口論が聞こえてきた。2人は時々ぶつかっていることはあるが、言い合う姿は珍しい。言い争いの内容に耳を澄ませると、思いがけなく、自分の名前が出てきて、一瞬、動揺が走った。


「神崎で問題ないだろう」


鷹野先生のやや挑発的な声が響く。


「まだ彼には荷が重すぎます。鷹野先生が引き続き担当してください」


木村先生が冷静な口調で返す。


「はは、やはり木村も彼がこの病院にとって不安要素だと思っているという事だな。あの医療ミスをした医者の息子ということもある。いくら成長してきたからといっても、彼を重要な手術に任せるのはリスクが高い。そう思っていると…」


その言葉に、颯太は思わず拳を握りしめた。まるで自分がいないかのように語られる父の過去と、自分への評価が入り混じり、胸の奥で苦い感情が渦巻く。

だが、足がすくんで動けない颯太は、医局に入る勇気を持てずに立ちすくんでいた。そのとき、後ろから勢いよく藤井先生が通りかかり、颯太の背中にぶつかる形になった。


「何してるんだ。早く入れ」


「あ、す、すみません」


颯太が謝るが、そのおかげで颯太は勢いよく医局の中に入ってしまった。視線が一斉に颯太に向けられ、木村先生と鷹野先生も驚いたように会話を止めた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?