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第1話

空に浮かぶ雲が、夏のものよりも少し高くなり、頬をなでる風には冷たさが混じり始めていた。冬はもうすぐそこまで迫っている。

旭光総合病院の正面に、颯太は立っていた。周囲には木村先生と看護師の霧島由芽、リハビリ担当の坪田先生、そして荷物を抱えた悠斗君とその両親が並んでいる。悠斗君の退院を心待ちにしていたメンバーだ。みんな穏やかな微笑みを浮かべていた。


「悠斗君、退院おめでとう」


颯太は悠斗君に向かってそう言うと、悠斗君は照れたように笑った。幾度の手術、そして毎日のリハビリを経て、ようやくこの日を迎えたのだ。頑張り続けた少年の姿に、スタッフも両親も、誇らしげな気持ちで見つめていた。


「本当に、先生方のおかげです。手術もリハビリも大変だったと思いますが…こんなに元気になって、また一緒に歩いて帰れるなんて夢みたいです」


悠斗君のお母さんが目を潤ませて言った。言葉の端々に安堵と感謝の色が滲んでいる。

木村先生が悠斗君の肩に軽く手を置いて微笑む。


「悠斗君はとても勇敢だ。でも、まだ無理をしてはいけないよ。通院でリハビリも継続するみたいだし、少しずつね」


傍らで微笑む由芽も、そっと悠斗君に手を差し出した。悠斗君は彼女の手を握りしめ、元気に頷く。


「はい!先生たち、ありがとう。僕、頑張るね!」


悠斗君の声は少しだけ大人びた力強ささえ感じられ、見守る大人たちは胸の奥が温かくなるのを感じた。数ヶ月前の悠斗君の姿からは想像がつかないほどの活気あふれた姿に、颯太は胸が熱くなった。


悠斗君とご両親の背中を見送りながら、颯太の耳元に真田先生の静かな声が響いた。


「また一人、無事に送り出すことができたな」


颯太はふと真田先生の言葉に耳を澄ませ、深く頷いた。医者としてのやりがいは、まさにこうした瞬間に凝縮されている。手術で命を救い、その後も患者が元気に退院していく姿を見ると、何よりの達成感を覚えるのだ。


「…でも、退院してからも油断はできないんですよね」


まわりにバレない程度に真田先生に目配せをして小声で囁く。


「そうだな。退院は新しい一歩に過ぎない。退院し、生活をする中での試練の方が多いのだからな」


真田先生が穏やかに続ける。


「しかし、お前がしっかり彼を見守り、導いたことが、今のあの元気な姿につながっているんだぞ。自分のしてきたことに誇りを持ったらいい。これからも外来でフォローして安心して過ごせるように」


その言葉に、颯太は小さく頷いた。目の前の道を、悠斗君が元気に歩んでいく。自身の医師としての存在をより一層実感させる。見送りながら感じる胸の温かさが、やがて明日への新たな力に変わっていくのを、颯太は確かに感じていた。


颯太が医局に戻ろうと歩き出したところで、背後から由芽に呼び止められた。


「颯太、ちょっといい?」


振り返ると、由芽が少し照れくさそうに微笑んでいる。


「今度ね、颯太のお母さんと出かけることになったんだけど、一緒に行かない?」


颯太は驚いて思わず眉を上げる。母が由芽とどんな話をしたのかはわからないが、出かける予定を一緒に考えているなんて初耳だった。連絡をとりあっていることは母からも聞いていた。看護師同士だし気が合うのだろうと気にも留めていなかったのだ。


「うーん、でも……」


と断ろうとしたところで、すぐそばで真田先生が嬉しそうに声を上げる。


「いいな!俺も行きたい!連れて行ってくれよー!」


颯太は思わず真田先生の顔を見て、ため息をつくと、由芽が不思議そうな顔をして自分を見上げているのに気づき、言葉に詰まった。


「えっと、わかったよ…行くよ」


颯太は仕方なく返事をすると、由芽の顔がぱっと明るくなった。


「よかった!じゃあ、日程はまた連絡するね。海外の画家の作品展をしてるんだって!お母さんも楽しみにしてるみたいで…」


そう言うと、由芽は嬉しそうに颯太に手を振り、去っていった。颯太はその後ろ姿を見送りながら、真田先生に小さくぼやいた。


「先生がいなかったら、断ってたんですけどね…」


「おいおい、こういうのもいい経験だぞ。楽しみにしてるからな!」


と真田先生がにやりと笑う。颯太はまた一つため息をついた。最近は大きな手術もなく、自主トレに励んでいる毎日だ。気分転換にいいかもしれない。


それから2週間後の週末、颯太は少し緊張した面持ちで待ち合わせ場所に向かっていた。今日は、母と由芽、そして真田先生(幽霊)と一緒に、街の美術館へ、海外の画家の作品展に出かける日だ。

駅の改札前に着くと、仕事終わりに直接来て到着していた母が颯太に気づき、笑顔で手を振った。その横には由芽が立っていて、少し照れくさそうに微笑んでいる。


「颯太、久しぶりに一緒に出かけるわね。こうして大人になったあなたとお出かけするのも、なんだか新鮮で嬉しいわねー!」


母が楽しそうに言うと、颯太も自然に笑顔がこぼれた。


「そうだね」


みんなで移動しながら、颯太はやけにおとなしい真田先生を見た。真田先生は、懐かしそうに目を細めて颯太の母親を見ている。


「真田先生?」


「ん、ああ。すまん」


颯太は、真田先生が珍しく静かな様子で、じっと母を見つめているのに気づき、不思議そうに声をかけた。


「真田先生、どうしたんですか?」


真田先生はその呼びかけで我に返り、少し照れくさそうに笑ってみせたが、すぐに視線を遠くに移した。


「いや、…ただ、君の父親のことを思い出してな」


颯太は一瞬驚いて、真田先生をじっと見た。真田先生が父の話をすることは少なく、それがどれだけ特別な記憶になっているのかが伝わってくる。


「颯太が覚えているかわからないが、お前のお父さん…神崎先生が亡くなったとき、俺も葬儀に行かせてもらったんだ。あの日の君の母さんの姿が今も忘れられない。気丈に振る舞おうとしていた姿が。周りの人たちもその気持ちに触れて、みんな静かに見守っていた」


真田先生の声はどこか懐かしそうで、穏やかだった。


「君のお母さん、あの時も強かった。周りの人を気遣う余裕も見せていたし、今も、昔と変わらず明るく強い人だなって感じるよ」


颯太は、真田先生の思い出話を聞きながら、改めて母の存在の大きさに気づかされていた。自分もまた、その母に守られながらここまで来たのだと感じ、胸が熱くなる。

真田先生が懐かしそうに語るのを聞いて、颯太はそっと微笑んだ。そして、今日はそういった思いを抱えたまま、家族や仲間と一緒に楽しもうと決めたのだった。


美術展の会場に到着すると、颯太はその建物を見上げた。幾何学的な形状と、外壁に大胆に描かれた模様が特徴的な建物で、独創的なデザインが一際目を引く。この建物が完成したのは颯太が高校生の頃で、当時から話題になっていたのをよく覚えている。


「懐かしいな…高校の頃、友達と見に来たことがあるんだ」


と、颯太が小さくつぶやく。


「この建物、すごいわね。初めてこんな近くで見たわ」


と母が隣で感心したように見上げる。由芽も颯太の横で、


「現代アートみたいな感じで面白いですね」


と微笑んだ。


「アートと建築が融合した感じだよな。中に入るともっと見応えがあるぞ」


と、真田先生が懐かしそうに続ける。颯太は一行と共に建物の中に足を踏み入れた。高い天井からは光が差し込み、空間に柔らかい明るさを与えている。壁には様々な色合いのキャンバスが飾られ、訪れた人々が作品に見入っている姿が目に映る。


「わぁ…綺麗ですね」


由芽が建物の雰囲気に心を奪われたように呟いた。


「これだけの作品に囲まれると、圧倒されるな」


颯太はそう言いながら、ぐるりと周りを見渡した。


建物の中を進むと、真田先生が急に目を輝かせて、颯太の耳元で声をひそめてきた。


「おい颯太、せっかくだから今日は楽しんでいこうぜ。俺も久々にこういう場に来て、なんだかワクワクしてきた!」


颯太は思わず小さく笑い、真田先生と一緒に作品をじっくりと眺めることにした。


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