翌日、朝早くに颯太は集中治療室に向かい、緊張感の残る足取りでドアを開けた。中に入ると、ベッドの上で静かに横たわっていた有村栄治が、目を開けているのが見えた。昨日まで眠っていた彼が、目を覚ましていた。
「有村さん、目を覚まされましたね。体調はどうですか?」
颯太は優しい声で問いかけながら、モニターに映し出される数値やバイタルサインを確認した。心拍も血圧も安定しており、手術後の経過は良好のようだった。
有村は目を細め、少し時間をかけて颯太を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「先生…助けてくれて、ありがとう。正直、もう自分は終わりだと思っていました…こんなふうにまた目を覚ますことができて、本当に感謝しています」
その声には、手術を終えたことへの感謝と、命を取り戻した喜びが詰まっていた。颯太は微笑みながら、有村の心音を確認し、軽く頷いた。
「無事に目を覚まされて僕も安心しました。有村さんの強い意志が、手術を成功に導いたんですよ。あとはしっかりとリハビリを行って、回復を目指しましょう」
有村は頷きながら、ふと遠くを見るように天井を見上げ、静かに言葉を続けた。
「実は、ずっと仕事一筋で生きてきて、家庭のことなんてほとんど気にしていませんでした。だけど、ここにきて…ようやく気づいたんです。大切なものが何なのかって。命を救われた今、改めてそう思います」
颯太はその言葉に、静かに耳を傾けた。昨日の京子との話と重なる部分もあり、有村がどれだけ家族を大切に思っているかが伝わってきた。
「これからは、もっと家族と一緒に過ごす時間を大切にしようと思います。妻にも、たくさん苦労をかけたから…ようやく、家族で過ごす時間ができそうです」
有村の声はどこか穏やかで、颯太の胸にじんわりと響いた。自分が行った手術が、ただ命を救うだけでなく、こうした未来を築く手助けをしたのだと思うと、胸の中に感慨が込み上げてきた。
「有村さん、これからは無理をせず、ゆっくりと生活を取り戻していきましょう」
颯太は、今度はしっかりとした声でそう告げた。手術に対する自責の念はまだ完全には消えなかったが、目の前で元気を取り戻しつつある有村の姿に、少しずつ自信と安堵が広がっていった。
「本当に、ありがとう…先生」
有村は再び感謝の言葉を口にし、微笑んだ。その表情は、昨日の不安とは違い、安心した笑みが浮かんでいた。
颯太はそれを見つめ頷いた。
颯太は有村の診察を終えると、集中治療室を後にして循環器病棟を見て回ることにした。彼の足取りは軽やかだったが、心の中では依然として多くのことが渦巻いていた。今後も責任を背負って患者たちと向き合うということ、それが何を意味するのかを深く感じていた。
病棟の廊下を歩きながら、颯太は各部屋の中を覗いた。退院を間近に控えた石田君がベッドに座って、看護師と楽しげに話をしているのが見えた。石田君は退院の日も近づいている。彼の明るい笑顔を見て、颯太は胸の奥で安堵を感じた。
次に目に入ったのは、リハビリに励んでいる鈴木さんだった。手術後の回復に時間がかかっているが、それでも毎日懸命にリハビリを続けている。理学療法士と一緒に歩行訓練をする姿は、颯太にとって勇気をもらえる光景だった。
彼は、ただ命を救うだけでなく、その先の未来をつくるために頑張っている人たちの姿を見て、医師としての使命を再確認していた。
(すべての患者さん、そしてその家族の未来がかかっているんだ)
颯太はそんな思いが頭をよぎる。自分の手が、命をつなぎ、その命がまた未来をつなぐ。その重責を改めて感じるとともに、それを支えるために自分は成長し続けなければならない。
病棟を見渡しながら、颯太は立ち止まり、深呼吸をした。
「これからも…もっと力をつけなきゃな」
颯太は病棟の見回りを終え、医局へと戻ることにした。まだ早朝なので、午前中の診察まで少し時間がある。外来の患者さんのカルテを確認しておこうと考えながら、軽やかな足取りで医局へと向かう。
しかし、医局に近づくと、横にある仮眠室から声が漏れ聞こえてきた。その声は、鷹野先生のものだ。電話で誰かと話しているようだった。
「…黒沢先生…申し訳ありません。神崎の動きは特にこれといったことはありません。まだ…はい。えっ?!いえ…わかりました。必ず…」
その言葉に、颯太は足を止め、息を潜めて耳を傾けた。どうやら黒沢先生という人と話しているらしい。自分の名前が出てきた瞬間、胸にわずかな緊張が走った。何の話をしているのだろうか。
「…ええ、引き続き注意しておきます。ですが、彼もまだ若いです。下手にプレッシャーをかけては逆効果かもしれません。適切なタイミングで…」
鷹野先生が、いったい何を企んでいるのか、今はそれを知ることはできない。自分の未来が、彼らの思惑にどのように関わっているのかもわからなかった。