颯太は、集中治療室から戻り、記録を終えると、少し疲れた体を伸ばした。颯太は医局に山積みになっているお菓子を3つほどポケットにしのばせ、自販機でコーラを2本買った。無意識に足が向かうのは、病院の屋上だった。
非常階段をのぼり、屋上に向かう間、今日の手術の様子が頭に浮かぶ。手術中、あの場面で真田先生が来てくれなかったら…どうなっていたか…。考えるだけで背筋が凍る思いだ。手術以降真田先生の姿は見ていないが、屋上には、真田先生がいる。なぜか、そう確信していた。
屋上に出ると、夜の冷たい風が顔に触れた。視線を巡らせると、やはり真田先生がそこにいた。月明かりに照らされた彼の姿は、どこか幻想的で、現実感がない。
「やっぱりいたんですね…」
颯太は静かに呟いた。
真田先生は、颯太が現れたことに気づいていたかのように、にやっと笑って手を挙げた。
「お疲れ、颯太。お前のことだから、ここに来るって思ってたよ。な、わかりやすいだろ?」
真田先生は軽く冗談を交えながら颯太に声をかけた。
颯太は苦笑いしながら、買ってきたコーラを真田先生に手渡すようにベンチに置いた。
「おっ手術後のコーラかぁ!うまいよなぁ」
真田先生はそう言うと、颯太の隣に立った。
颯太も蓋を開け、ぐびぐびと一気に半分ほど飲んだ。夜の空気が静かに流れる中、二人はしばらく無言で立っていた。
二人は、冷たい夜風に吹かれながら、無言のまま夜空を見上げていた。星が輝き、静かな病院の屋上には、ただ風の音だけが響いていた。颯太はコーラを片手にしながら、何を話すべきか、どう切り出せばいいのか考えていた。しかし、頭の中はまとまらず、言葉が出てこない。ポケットからお菓子を取り出して口にほおりこむ。
そんな沈黙の中、ふと真田先生が口を開いた。
「…おせっかいが過ぎたかもしれないな、颯太。あの手術中も、これまでのことも。ちょっと余計な口出しが多かったかもしれん。すまなかったな」
その言葉に、颯太は驚いて真田先生の方を見た。これまで軽口を叩いて助言をくれていた真田先生が、こんなふうに謝るとは思ってもみなかった。慌てて颯太は言葉を返した。
「い、いや!そんなことありません!むしろ、真田先生がいなかったら…僕はあの手術、どうなっていたかわかりません。感謝しています。本当に…」
颯太は言葉を詰まらせながらも、懸命に感謝の気持ちを伝えた。
颯太は、真田先生の優しい眼差しを受けながら、思わず心の中の重荷を吐き出すように話し始めた。
「僕、これまでずっと自信がなかったんです。学生時代も、周りと比べて自分が劣っているように感じて…。いや、実際全然ダメだったんですけど…。医者になってからも、手術が上手くいくたびに少しずつ自信がついてきたんですが、その裏にはいつも不安がありました。だから、毎日自主トレを続けて、手術の手順を繰り返し練習して…。それでも、自分が本当に一人前になれるのか、ずっと悩んでたんです」
颯太は、これまでの努力と葛藤を振り返りながら、言葉を続けた。
「でも、学会に出たとき、学生時代のダメだった僕を知っている恩師から褒められて…あの時、すごく嬉しかったんです。友人たちも褒めてくれて、それが自分にとって、なんというか、特別な瞬間で…。だけど、それがいつの間にか変なプライドになって、傲慢な気持ちや慢心が生まれてしまったんだと思います」
彼の声はだんだんと沈みがちになり、手術中の自分の過ちが頭をよぎった。続けて話すのが苦しいような表情を浮かべながらも、颯太は続けた。
「今回の手術でも、自分ならできるって、無理に自信を持とうとしてたんです。自分で何とかしなきゃって…真田先生が助けてくれていたのに、勝手にひとりでやろうとして、あの瞬間に何も見えなくなって…」
颯太は拳を握り締め、悔しさが込み上げるのを抑えながら話を終えた。
颯太の声が静かに消え、夜の空気が再び静まり返った。真田先生はしばらく黙って颯太を見つめていたが、やがて穏やかな声で口を開いた。
「そうか…。自分で気づいているなら、もう大丈夫だ。傲慢や慢心、誰にでもあるものさ。特に、医者は多くの命を預かる仕事だし、成功した時の達成感は大きい。だからこそ、少しでも上手くいくと『自分ならできる』って思いが強くなるのも仕方ないことだ」
真田先生は、軽く笑いながらつづけた。
「でもな、颯太。今こうして、ちゃんと自分の過ちに気づいて反省してるんだ。それが何よりも大事なことだ。どんなに上手くいく医者でも、失敗や後悔を経験して学んでいく。それを繰り返して、少しずつ本物になっていくんだ」
颯太は、真田先生の言葉を聞きながら、少しずつ肩の重荷が軽くなっていくのを感じた。それでも、まだ自分の中に残る悔しさや後悔は完全に消え去ることはなかった。
「でも…真田先生、僕がもっと冷静でいられたら、有村さんを危険に晒さずに済んだんです。結局、僕のせいで…」
颯太の声が弱々しく漏れたが、真田先生はそれを聞くと、すっと近づいてきて、颯太の肩をたたくような仕草をする。
「颯太、誰だって完璧じゃないんだ。人間は失敗を重ねながら成長していく。大事なのは、同じ過ちを繰り返さないこと。それに、今回だって最終的にはちゃんと乗り越えただろう?お前は成長してるんだよ。焦るな、ゆっくりでいい」
颯太は、真田先生の言葉にじんわりと心が温かくなるのを感じた。確かに、自分は失敗したけれど、それを乗り越える力も少しずつ身についてきたのかもしれない。
「…はい。ありがとうございます、真田先生。これからも、もっと成長できるように頑張ります」
真田先生はにやりと笑い、
「よし、それでこそ神崎颯太だ」
と、颯太を元気づけるように笑った。
颯太はふと、頭に浮かんだ疑問を口に出した。
「木村先生から聞いたんですけど…真田先生も、僕と同じような時期があったんですか?」
その言葉を聞いた真田先生は、一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「木村先生がそんなこと話したのか…。まあ、確かにあったよ。俺だって、最初から完璧だったわけじゃない」
真田先生は恥ずかしそうに顔をそむけ、少し昔を思い出すように視線を夜空に向けた。
「若い頃の俺は、お前以上に自信過剰だった。手術の成功が続くと、まるで自分が何でもできるんだって錯覚してな。神様みたいな気になっていたのかもしれない。俺はその慢心のせいで、患者を危険にさらしたこともある。いや…実際に命を救えなかったこともあった」
その言葉を聞いて、颯太は思わず息を飲んだ。真田先生のいつも飄々とした態度からは想像もできないような話だった。
「当時の俺は、技術さえあれば患者を救えると思い込んでいた。けど、ある時、手術中に合併症をおこしてしまってな。結局、患者は助からなかった。患者だけじゃない、その家族も救えなかった。その時初めて、自分の限界を痛感したんだ。技術だけじゃない。医者は、冷静さと謙虚さが何よりも大事だって、ようやく理解したよ」
颯太は、真田先生がそんな苦しい過去を抱えていたとは思わず、驚きと共に彼の言葉に耳を傾けた。
「その時、俺は自分に絶望して、一度は医者を辞めようとさえ思った。でも、その失敗があったからこそ、そのあとの俺がいるんだ。失敗から学び、それを次に活かす。それが医者として成長する唯一の道なんだよ」
真田先生の目は、颯太をまっすぐに見つめていた。その目には、彼が乗り越えてきた数々の経験と、今だからこそ伝えたい思いが込められているようだった。
「颯太、お前も同じだ。失敗を恐れるな。その失敗をどう活かすかが大切なんだ。お前はこれから、もっと大きな壁にぶつかるかもしれない。でも、乗り越えられる。俺が保証する」
真田先生の言葉に、颯太は深く心を打たれた。自分が失敗を経験したことも、成長の一部だと感じられるようになってきた。
「…ありがとうございます。これから、もっと精進します。真田先生を超えられるように…」
颯太の言葉に、真田先生は満足そうに笑みを浮かべた。