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第9話

颯太は深く息を吸い込み、手術の説明をするために家族待合室へ向かって歩き出した。足音が静かに響く廊下は、彼の心の中でまだ続くわずかな緊張を映し出していた。手術は無事に終わったものの、自分のミスが有村栄治の命を危険にさらしてしまったという事実を、妻の京子にどう説明しようかと考えていた。すべての経過を正直に伝えることは、医師としての責任であり、信頼を守るために必要なことだ。


待合室のドアが見えてくると、京子が不安そうに椅子に座っているのが見えた。彼女の姿は、手術前と変わらず、弱々しく肩を落としている。

颯太はドアを軽くノックし、ゆっくりと待合室へ入った。京子は顔を上げ、颯太を見つめた。その目には、言葉にできないほどの緊張と期待が入り混じっていた。


「有村さんの手術が終わりました。手術の説明をしたいのですが、カンファレンス室まで一緒に来ていただけますか?」


「…わかりました」


颯太は京子とともにカンファレンス室へ移動し、椅子に座ると深呼吸をした。頭の中で手術の経過を整理しながら、どのように伝えるべきかを考えていた。

京子は不安げな表情で颯太を見つめていた。その視線を受け止めながら、颯太は静かに口を開いた。


「有村さんの手術は無事に終わりました。しかし、手術中にいくつかの予期せぬ事態が発生しました。まず、有村さんの冠動脈に重度の狭窄が見られたため、動脈を広げるためのステントを留置して血流を回復させる手術を行いました。ですが、ステントの操作中に冠動脈の一部が破れてしまい、血液が心膜内に漏れ出して、心臓の周囲に血液が溜まってしまう『心タンポナーデ』という状態が発生しました」


「えっ?!」


京子は聞きながら、表情が少し強ばったが、じっと黙って話を聞き続けていた。


「そのため、心臓への圧迫を解除するために緊急で心膜を開く手術を行い、溜まった血液を排出しました。その後、冠動脈の破れた部分を修復し、無事に手術は完了しました」


颯太は一息つき、京子の反応を伺った。彼女はしばらく黙ったままだったが、やがてゆっくりと頭を下げた。


「…ありがとうございました。夫を救っていただいて…夫は…無事、なんですよね?」


「はい、無事に終わりました。有村さんは今、集中治療室にいます。今後の経過も慎重に見守っていきます。ご安心ください」


颯太の言葉に、京子は再び深く頷き、少しだけ目を潤ませながら


「ありがとうございました。どうか、夫をよろしくお願いします」


京子はしばらくの間、重い沈黙を保っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。その声には、これまで抑えてきた感情が溢れ出すような重みがあった。


「…夫は、ずっと仕事一筋でした。家庭をほとんど顧みることもなく、家では無口で、まるで家のことには興味がないような人でした。でも…去年あたりから、少し変わってきて…」


颯太は黙って京子の話を聞き続けた。彼女の目は遠くを見つめるように、夫との日々を振り返っているようだった。


「仕事の若い人たちが増えて、パソコンやAIもどんどん普及してきて、夫はついていけなくなったって…結婚してから初めて、愚痴をこぼしたんです。それが先月のことでした。あの人が、そんなことを言うなんて…。ずっと強がって、どんなことがあっても私には何も言わなかったんです…仕事の心配をさせたくなかったんでしょう」


京子の声がかすれ、少し震えた。彼女は続けた。


「それで、3年後に55歳で早期退職して、ゆっくり二人で過ごそうって…ようやく、私たち夫婦らしい時間を過ごせるんだって、そう思っていたんです。家族として、やっと一緒に何かできるんだって…本当に嬉しかった…」


彼女はそこで言葉を詰まらせ、両手で顔を覆った。涙がこぼれ始め、抑えきれなくなった感情が次々と溢れ出していった。


「でも、そんな矢先に、あの人が病気になって…。どうしてって、なんでこんなことにって思いました。やっと、やっと一緒に過ごせる時間がなくなると思ったら辛くて…本当に…よかった…。助かって、本当に…」


京子は声を震わせながら、最後には泣き崩れた。これまで夫のために抑えていた感情や、これから一緒に過ごせると信じていた未来への思いが、すべて一気に溢れ出したようだった。


颯太は京子の涙を前に、彼女のそばに寄り添うことしかできなかった。京子はしばらく泣き続けた後、少しだけ顔を上げ、涙を拭いながら静かに言った。


「すみません…私…お医者さんの前で取り乱してしまって…」


颯太は軽く首を横に振って、優しい声で答えた。


「いいえ、有村さん。奥様がどれほどご主人のことを大切に思っているか、僕にも伝わりました。これからも、ご主人と共に未来を歩んでいけるよう、私たち医療チームが全力でサポートします。どうか、少しでも安心していただければと思います」


京子は頷きながら、再び涙をぬぐい笑顔になった。


「ありがとうございます。夫が助かって、本当に…本当に良かった…」


何度も京子はつぶやき、ハンカチを握りしめていた。

颯太は、涙を拭いながら微笑む京子を見て、静かに立ち上がった。


「それでは、有村さんを集中治療室へご案内しますね。感染予防のため、直接ご主人に近づくことはできませんが、窓越しにお姿を見ていただけます」


京子は少しだけ不安そうな表情を浮かべながらも、頷いた。


「はい…お願いします」


颯太は、京子を先導するように集中治療室の廊下を歩き始めた。静まり返った病院の廊下に二人の足音が響く。京子は落ち着いたように見えたが、心の中ではさまざまな感情が渦巻いているだろうと、颯太は感じ取っていた。やはり顔を見るまで安心できないだろう。


集中治療室に到着すると、窓の向こうに眠る有村栄治の姿が見えた。モニターに映し出された安定した心拍や酸素飽和度が、手術が成功した証拠を物語っていた。京子はガラス越しにその姿を見つめ、しばらく無言だったが、やがて涙が目に浮かび、そっと微笑んだ。


「大変な手術だったんですね…私何にも知らなくて…本当に、助かって良かった…」


その言葉に、颯太もまた小さく頷いた。有村栄治がこれから回復に向かっていけるよう、医療チームとして全力を尽くす。それが、今自分にできる最大の責務だと強く感じていた。


「これから経過を慎重に見守りながら、回復をサポートしていきます。旦那さんを一緒に支えていきましょう」


颯太はそっと京子へ話した。京子は再び感謝の言葉を口にし、そっとガラス越しに有村の姿を見続けた。その表情には、これまでの不安と緊張から解放され、安堵の色が浮かんでいた。


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