手術も終盤に差し掛かり、緊張感は徐々に緩み始めていた。だが、颯太は最後まで気を抜かず、細かい動作に集中していた。これまでの手術では、どんな些細な場面でも真田先生が声をかけ、助言を与えてくれていた。しかし、今は違った。真田先生はじっと無言のまま、颯太の動きを見守っているだけだった。
(どうして真田先生は何も言わないんだろう…?)
一瞬、颯太の心に不安がよぎった。真田先生が何も言わないことが、かえってプレッシャーとなり、手の震えを呼び戻しそうになった。しかし、すぐにその思いを振り払った。この段階にくれば、真田先生の言葉がなくてもできる。自分の力でこの手術を成功させるんだ。
手元での動作は、今まで通り正確で、スムーズに進んでいる。冠動脈の修復もほぼ完了し、最後の縫合に入ろうとしていた。真田先生は、颯太を信じて何も言わないのか、それとも別の意図があるのか…それを考える余裕もなく、颯太は最後の仕上げに集中した。
(もう少し…これで終わりだ)
颯太は汗を拭うこともなく、呼吸を整えながら縫合を進める。心臓の動きは安定し、モニターの数値も正常範囲に近づいていた。手術室には静寂が戻り、スタッフ全員が集中力を保ちながら、颯太の動きを見守っていた。
最後の糸を引き締め、しっかりと結び目を確認する。その瞬間、颯太はようやく大きな安堵の息を吐いた。全てが終わったのだ。
「お疲れさま、神崎くん」
木村先生の声が静かに響いた。その声に、颯太はやっと肩の力を抜くことができた。モニター上の心拍数は安定し、有村栄治の心臓は正常な機能を取り戻していた。
真田先生は、黙ったまま微笑み、頷いた。
「…はい」
颯太は静かに呟き、胸の中に湧き上がる達成感を感じながら、手術器具を片付け始めた。
手術が無事に終わり、颯太は手洗い場で手を洗っていた。流水が指先を滑るように流れ、疲労感が一気に押し寄せる中、彼の頭には先ほどの手術の光景が繰り返し浮かんでいた。手術の中盤でのあの瞬間、焦りと恐怖に支配された自分。それが有村栄治の命を危険にさらしたことが、颯太の心に重くのしかかっていた。
(自分のせいで…)
流水とともに手をこする颯太の頭に、真田先生の声が何度も響いたが、結局は自分の過信が原因で危機を招いたという思いが消えなかった。
そのとき、足音がして、木村先生が手洗い場に入ってきた。手術着を脱ぎながら、穏やかな表情で颯太に声をかけた。
「お疲れ様、神崎くん。見事な手術だったよ」
颯太はその言葉に反応し、すぐに手を止め、深く頭を下げた。
「先生、本当に申し訳ありませんでした…」
木村先生は驚いた表情で眉をひそめた。
「ん?どうしたの?手術は無事に終わったんだから、そんなに気を落とす必要はないよ」
その言葉に、颯太はぎこちなく顔を上げ、心の内にある苦しみを吐き出すように話し始めた。
「自分が慢心したせいで、有村さんを危険にさらしてしまいました…。手術中、冷静さを失ってしまって、取り返しのつかないことになっていたかもしれません…」
木村先生は黙って颯太の言葉に耳を傾け、しばらくの間、何も言わずにじっと彼を見つめていた。木村先生はゆっくりと手を洗いながら、颯太の言葉を一度噛み締めるように聞いていた。そして、静かに口を開いた。
「まぁ…あのステントの件は確かに少し性急だったかな。もっと慎重に確認すべきだった部分もあったかもしれない。反省すべきことはある。それは誰だってそうだよ、何度も経験して学んでいくんだ」
その言葉に、木村先生の優しさが滲んでいた。しかし、颯太の胸の中の重苦しさは全く消えなかった。失敗に対する自責の念が、彼の心に深く染み渡っていた。
「でも、だからと言って落ち込む必要はない。今回の手術で君は多くを学んだはずだ。次に繋げるために反省し、成長していけばいいんだよ」
木村先生はフォローするように言葉を続けたが、颯太の気持ちは依然として沈んでいた。手術中の自分の焦りや判断ミスが何度も頭を巡り、そのたびに胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「…でも、僕がもっと冷静でいられたら、有村さんを危険に晒さずに済んだんです」
そう呟くと、木村先生は小さくため息をつき、タオルで手を拭きながら
「ちょっと着替えながら話そうか」
と提案した。颯太は黙って頷き、木村先生と共に着替え室へ向かった。着替え室で、静かな空気が漂う中、木村先生はふと過去の話を始めた。
「実は、先日飛行機事故で亡くなった、天才と呼ばれた心臓外科医の真田先生も昔、同じような経験をしたことがあるんだ」
木村先生の意外な言葉に、颯太は思わず顔を上げた。いつも自信に満ち溢れた真田先生に、そんな過去があったとは想像もしていなかったからだ。
「彼も一時期、自分の技術に慢心して、手術中に危険な状況に何度も陥ったことがあったんだ。難しい手術を次々に成功させてきた彼からは想像がつかないかもしれないけど、若い頃の彼は、時には無謀とも言える判断を下して、患者を危険な目に遭わせたこともあったよ」
木村先生は淡々と語りながら、真田先生の過去の出来事を思い出しているかのようだった。
「その結果、彼は多くを失った。患者も、仲間からの信頼も。けれど、彼はそこから逃げずに学び続けたんだ。自分の過ちを認めて、そこから這い上がった。そして、君も知っている通り、素晴らしい心臓外科医として知られるようになった」
木村先生の言葉が、少しずつ颯太の心に染み込んでいった。真田先生にも過去の苦い経験があり、彼もまた悩み、苦しんできたことを知り、颯太の心は少しだけ軽くなったように感じた。
「失敗や慢心は、誰にでもある。大切なのは、それをどう乗り越えるかだよ」
木村先生の言葉が、まるで颯太を励ますかのように響いた。颯太はまだ完全に立ち直ることができず、下を向いたままだった。
木村先生は、納得していなさそうな表情を見せる颯太の顔をじっと見つめて、静かに続けた。
「この件で反省しないのが悪い成長。この件で反省して学び直すのがいい成長だ。君がどっちの道を選ぶか、それが大事なんだよ。失敗したからといって、それで終わりじゃない。失敗をどう生かすか、君が決めるんだ」
その言葉に、颯太は何か言おうと口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。自分のミスを許せない気持ちと、それをどう乗り越えるべきかという葛藤が、胸の中で渦巻いていた。
木村先生は少し間を置いて、さらに優しい声で話を続けた。
「それと、手術や最先端の医療に魅力を感じるのはよくわかるよ。学会ではそういった話題がたくさん出ていただろう?最新の技術や知識を追求するのは、医師として必要なことだ。でも、忘れないでほしいんだ。患者や家族、そして病気だけじゃなく、彼らの“心”も大切にすることが、何よりも大事なんだよ」
颯太はその言葉にハッとさせられた。いつの間にか、彼は技術的な成功ばかりを追い求め、患者の気持ちや家族の不安を十分に考えていなかったのかもしれない。自分が学会で褒められ、評価されたことが、技術面ばかりを優先させる方向へと導いてしまったのだろうか。
木村先生は颯太の沈黙を見守り、続けて言った。
「君はいつも、患者や家族に寄り添ってきた。その姿勢は決して変わらないでほしい。彼らの心を支えるのも、医師の大切な役割なんだ。最先端の医療に挑戦し続けるのも大事だけど、患者一人ひとりの気持ちを忘れないでほしいんだよ」
その言葉は、深く響き、颯太の心を揺さぶった。自分が目指しているものが、技術や成功だけではないことを再確認させられた。医師としての使命は、目の前にいる患者とその家族の命と心に寄り添うこと。それが本当に大切なのだと。
颯太はゆっくりと頷き、ようやく落ち着きを取り戻した。そして、木村先生に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございます。僕、もっと成長します。技術だけじゃなく、患者さんや家族の気持ちにも、もっと寄り添える医師になります」
木村先生は満足そうに微笑んで、軽く肩を叩いた。
「そうだ、それでいい。君ならできるよ、神崎くん。僕は信じてる。真田先生もそうやって乗り越えてきたんだから」
颯太は木村先生が困って足早に更衣室を出て行ってしまうまで、何度も木村先生に頭を下げ続けたのだった。