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第7話

冠動脈が破れ、血液が溢れ出しているという現実に、颯太は一瞬にして凍りついた。目の前のモニターが警告を発し、心電図の波形が激しく乱れている。だが、颯太の頭は空白だった。何をすべきか、どんな処置が必要なのか。すべてが遠のき、指先の感覚さえ失われていくような気がした。


「神崎くん!落ち着いて、すぐに止血を!」


木村先生の声が響いたが、颯太の耳には届いていない。すべてがスローモーションのように見えた。手術室の音が遠く、まるで別の世界にいるかのように感じる。自分の手が震えているのも、現実感がない。次第に周囲の動きがスローモーションに変わり、時間の感覚がゆっくりとしたものになっていった。


(どうしよう…どうするんだ…?)


颯太の頭の中には、ただその言葉が繰り返されるだけだった。木村先生が何かを指示しているのはわかるが、その声は遠く、まるで水の中から聞こえているかのようだった。彼の目には、ただ血が溢れていくのが見えていた。血が視界を塞ぎ、手元は震え、どうするべきか判断がつかない。心臓の鼓動が崩れていく音が頭の中に反響し、目の前がどんどん暗くなっていくようだった。


(なぜ…こんなことに…?)


外来で見た有村栄治の顔が脳裏に浮かんだ。彼が痛みをこらえて、必死に耐えていた表情。そして、不安そうに顔を伏せていた妻の京子の姿。あの時、どうにかして彼らを救いたいと思ったはずなのに、今は自分がその責任を果たせていない。いや、それどころか…


(僕は…失敗している…?)


俺はあの時頭の片隅で何を考えていた…?


認められたい…褒められたい…自分でもできるはずだ…


俺は…俺は…有村栄治という患者、そして家族をしっかり見れていたのか…?


颯太の視界は次第にぼやけ、血が滲んでいる心臓がゆっくりと崩れていくかのように映った。目の前の光景が次々と走馬灯のように流れ込んでくる。有村の顔、妻の悲しげな目、そして今まさに命を奪われようとしている現実。彼の全身から冷や汗が噴き出し、震えが止まらなくなった。


「…神崎くん!」


木村先生の声がさらに強く響いたが、それでも颯太の耳にはまるで遠くの出来事のようにしか感じられない。全身が凍りついたように動かず、ただじっと血の溢れ出る光景を見つめていた。


「…た!!颯太!!」


鋭い声が颯太の耳に飛び込んできた。まるで暗闇の中で迷子になっていた自分を一瞬で引き戻すような、その鋭い声。視界の隅に、真田先生がふわりと現れたのが見えた。彼は、いつもの軽い調子ではなく、真剣な眼差しを颯太に向けていた。


「おい、颯太。大丈夫だ、落ち着け。深呼吸しろ!」


その言葉は、まるで冷水を浴びせられたかのように、颯太の混乱した頭を少しずつクリアにしていった。息苦しさが喉に絡みつき、胸が重く圧迫されるような感覚の中で、真田先生の声だけがはっきりと聞こえていた。


「深呼吸しろ。いいか、俺の声に集中しろ」


颯太は震える手を抑え、言われるままにゆっくりと息を吸い込んだ。空気が肺に入り込み、再び息を吐き出す。そうしながら、手元の動揺を少しずつ抑え込んでいく感覚が戻ってきた。周りの音が再び聞こえるようになり、スローモーションだった視界が元の速さに戻りつつある。


「そうだ、いいぞ。もう一度深呼吸だ」


真田先生の言葉に従い、もう一度深く息を吸う。息を吐くたびに、心の中で渦巻いていた焦りや恐怖が少しずつ薄らいでいく。手の震えが収まり始め、木村先生の声も次第にはっきりと耳に届くようになってきた。


「いいぞ、颯太。大丈夫だ。俺がついてるから安心しろ」


真田先生の声は静かだが、心に響いた。颯太は、ふと彼の方に目を向けた。そこには、いつもの軽口とは違う、真剣な表情の真田先生が立っている。彼の言葉は、これまでどんな時よりも頼もしく響いていた。


(落ち着け。自分ならできる。もう一度、最初から集中し直せばいいんだ)


颯太は心の中で自分に言い聞かせた。真田先生の落ち着いた声が、自分の心を支えているのを感じながら、再び手元に視線を戻した。心拍数が低下している有村栄治のモニターに目をやり、状況を冷静に見極める必要がある。


颯太は、自分を取り戻すことができたと確信し、深く息を吐いた。もう大丈夫だ。


颯太は真田先生の声に導かれるように、再び手元に集中し始めたが、心臓の状態は依然として危機な状態だ。冠動脈の破裂による出血が心膜腔に溜まり、心臓が圧迫されている。心電図モニターには心拍数の乱れが映し出され、酸素飽和度も危険な領域に近づいていた。


「心タンポナーデが起きている…心膜開放術を急ぐぞ!」


真田先生の冷静な指示が颯太の耳に響いた。まるで真田先生が彼の中に憑依したかのように、冷静で確実に動きと考えが颯太の手に伝わってきた。


「まずは、心膜を開いて血液を排出するんだ。これで心臓の周囲にたまった圧力を取り除ける」



「心タンポナーデが起きています。心膜開放術をします」


木村先生も頷く。

真田先生の指示に従って、颯太は心膜を慎重に切開した。真田先生の声が聞こえるとともに、颯太の手の動きは驚くほど滑らかになっていった。まるで真田先生が直接手を動かしているかのようだった。


「心膜を開きました…今から血液を排出します」



颯太は冷静な声で報告した。心膜を開いた瞬間、心臓周囲にたまった血液が一気に排出された。看護師が素早く吸引機で血液を取り除いていく。心臓が再び自由に動く空間を取り戻し、徐々に圧迫から解放されていくのをモニターで確認できた。


「心臓の圧迫は解除された。でも、まだ油断はできない。冠動脈の破れた箇所を修復するぞ」


真田先生が颯太を導くように次の手順を指示した。颯太は動揺を抑えながら、冠動脈の破れた箇所を慎重に探し出し、縫合の準備を進めた。


「破れた部分を縫合するには、心肺バイパス装置を使って心臓の血流を一時的に代替しなければならない」



真田先生が細かく手順を説明する。颯太はその指示に従い、体外循環を維持するための心肺バイパス装置の準備を指示した。手術室のスタッフが迅速に装置を設置し、心臓の血流を外部に移しながら、冠動脈の修復を行う段階へと進んでいく。


「破れた部分を見つけた。ここからは手際よく縫合していく。焦るな。慎重に行くんだ。縫合は得意だろ?大丈夫だ」



真田先生の励ましの言葉に、颯太は自分を取り戻していった。冠動脈の破裂箇所を縫合し、心臓の血流を回復させるために手を動かす。緊張感が漂う手術室の中、颯太は一つ一つの動作に集中し、真田先生の存在を感じながら手術を進めた。


「血流が回復してきているよ!その調子!」



木村先生の報告に、颯太は頷く。

冠動脈の破裂箇所を縫合しながら、颯太はふと血液が手術台に溜まりつつあるのに気づいた。彼の心臓が再びドクドクと鼓動を刻み始めたのがわかる。


「出血量の報告をお願いします」



颯太が声を張り上げると、すぐに看護師たちが迅速に動き出し、吸引機で手術台に溜まった血液を吸い上げ吸引された血液の量がモニターに表示され、これまでの血液と合計する。


「出血量、500mlです!」


500ml…。決して少なくない量だが、まだ致命的な段階ではない。しかし、これ以上の出血は防がなければならない。颯太は汗をかきながら、慎重に縫合を進めていた。


「出血量の減少を確認中…血圧が少し安定してきています!」



看護師の報告に、颯太は一瞬だけ深く息をつく。


(このままなら、大丈夫だ…)


冠動脈の修復は成功し、心臓は再び正常な動きを取り戻し始めていた。モニターに映し出される心拍数も徐々に安定し、手術室全体が安堵の空気に包まれていく。


「いいぞ。よくやった、颯太」



真田先生の声が、どこか誇らしげに聞こえた。


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