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第6話

カンファレンスルームの扉がゆっくりと開かれた。そこには、不安そうに顔を伏せた妻の京子がいた。


「有村さん、はじめまして。心臓外科の神崎颯太です」


「木村です」


颯太が静かに声をかけ、カンファレンスルームに入るよう促す。京子は一瞬だけ顔を上げたが、すぐに視線を落とし、何も言わずにハンカチを握りしめていた。彼女の顔には不安が色濃く表れている。


彼女にとって栄治は、家族の柱としてずっと頼りにしてきた存在だったのだろう。それが今、命の危機に直面していることが、京子にとって大きな動揺を与えているのは明らかだった。


颯太は深呼吸をし、カルテに目を落としながら有村栄治の状態について説明を始めた。京子はずっと黙って聞いている。彼女の顔は依然として不安に包まれており、まるで手術の現実が現実としてまだ受け入れられないかのようだった。


「有村さんの心臓の冠動脈に重度の狭窄があります。これが心筋梗塞の原因です。手術では、その冠動脈をバイパスすることで血流を確保し、心臓の機能を正常に戻すことを目指します」


颯太は慎重に言葉を選びながら、手術のリスクや手順についても丁寧に説明を続けた。しかし、京子の反応は薄く、ただ黙ってハンカチを強く握りしめていた。


説明が終わると、しばしの沈黙がカンファレンスルームを包んだ。その静けさを破るように、京子はか細い声で問いかけた。


「それで…私は何をしたらいいんでしょうか…」


彼女の声は弱々しく、空調の音にかきけされてしまいそうなほどの小さい声。


「同意書などの書類にサインをしていただき、その後、家族待合室で手術が終わるのをお待ちいただければ大丈夫です」


京子は小さく頷いたが、その表情はまだ硬く、不安が完全に拭えない様子だった。そんな彼女に、木村先生が優しい声で話しかけた。


「不安ですよね、わかります。でもご安心ください。私たちはご主人の手術に全力で取り組みます。どうか待合室で落ち着いてお待ちください」


木村先生の言葉は、まるで優しい毛布のように京子の心を包み込んだ。その言葉を聞いて、京子の表情がようやく少しだけ柔らいだ。


「よろしくお願いいたします…」


京子は深く頭を下げ、しっかりとした声でそう告げた。彼女の目には、まだ不安は残っていたが、木村先生の言葉に少しだけ安心感を感じていたようだった。


颯太は木村先生と共に手術準備室へと急いだ。廊下を歩く二人の足音が響く中、木村先生が何度か颯太をちらりと見ているのがわかった。しかし、手術前という緊張感を考慮してか、木村先生は何も言わず黙っていた。

準備室に到着し、颯太が手術着に着替え始めると、木村先生がようやく口を開いた。


「有村さんに僕が手術の説明をしたでしょ。あのとき、有村さん、かなり苦しかったと思うけど、ぐっと我慢しててね。うめき声一つもらさなかったよ」


木村先生の言葉に、颯太は驚いた表情を浮かべた。手術の説明中、有村がどれほどの痛みを耐えていただろうか。


「頑固で我慢強いタイプなんだろうね。俺が気になることはあるか聞いたら、彼、こう言ってたんだよ。『妻が安心できるように声をかけてやってください』って」


「…そうですか」


「自分で言うのは恥ずかしいって言ってたよ…昔かたぎの…大黒柱なんだろうね」


木村先生は苦笑しながら言葉を続けたが、その声には敬意が滲んでいた。


「手術を成功させて本人も家族も安心させてあげよう」


木村先生の言葉に、颯太は深く頷いた。人の命を救うというのはその人の家族を救うのと一緒なのだ。


「はい。…いきましょう」


いよいよ颯太にとって初めての、緊急オペでの第一執刀医としての手術がまくをあけたのだった。


颯太と木村先生は、手術準備室へ入った。部屋の中は、手術直前の特有の緊張感が漂い、冷たい空気が背筋を引き締めるようだった。モニターには有村栄治の検査結果が映し出され、冠動脈の狭窄と血流の途絶が一目でわかる。心筋梗塞の痕跡が明確に示されていた。


「まず、冠動脈の閉塞部位をしっかり確認し、バイパス手術で血流を確保することが最優先ですね」


颯太が冷静な声で言ったが、その内心は抑えきれない緊張で高鳴っていた。木村先生の隣に立ちながら、自分がこの手術を率いて成功させるのだというプレッシャーが重くのしかかる。

木村先生はモニターを指し示しながら、さらに詳細を確認した。


「うん。ここが問題だね。左冠動脈主幹部に重度の狭窄がある。バイパスを作成する必要があるが、周辺組織の状態も考慮しないといけない。加えて、もし予期せぬ出血が起これば、即座に対処しなければならないよ」


木村先生の言葉には確かな経験が裏打ちされていた。颯太は頷いた。これまでの成功体験と学会での評価が、彼の自信を必要以上に高めていた。


(自分ならできる…。これまで何度も手術をしてきたし、きっと問題なくやり遂げられるはずだ)


そう自分に言い聞かせ、颯太は目を細めてモニターを見つめた。だがその自信の裏には、焦りがじわじわと広がっていた。周囲の期待、自分に課したプレッシャー――それらすべてが、颯太の心を圧迫していた。


「僕が第一執刀を担当します。木村先生、サポートよろしくお願いします」


木村先生は颯太をじっと見つめ、軽く頷いた。


「わかった。ただ、焦らず冷静に。何が起こるかわからないのが手術だからね」


木村先生の忠告を聞きながらも、颯太の中では「自分ならできる。いや、やらなければ。自分の力で結果を残さなくては」という思いがますます強くなっていた。手術に挑むための自信というよりも、周囲の期待に応えなければならないという強迫観念が彼を突き動かしていた。


「よし、時間だ。準備しよう」


木村先生が一歩引くように、颯太にリードを任せた。

颯太はを手術着に着替えながら、心の中で繰り返し手術手順を復唱した。手順は頭の中に鮮明に刻まれている。問題はない。そう反芻した。


颯太は手術室に入り、全身を包む緊張感がいつも以上に鋭く感じられた。手術台の上では、すでに麻酔を施された有村栄治が横たわり、モニターには心電図や血圧、酸素飽和度などの数値が映し出されている。今日は、経皮的冠動脈インターベンション(PCI)による治療だ。


「有村栄治さん、冠動脈バイパス手術、開始します」


颯太は手術開始を宣言し、まずはカテーテルの挿入に集中した。今回は、太ももの大腿動脈からアプローチする。手首からのアプローチも選択肢にはあったが、有村の動脈の状態を考慮し、大腿動脈からのアプローチが最適だと判断されていた。


「まずは、大腿動脈からカテーテルを挿入します」


そう言うと、颯太は慎重に太ももの付け根部分の皮膚を消毒し、カテーテルの挿入部位を確認する。大腿動脈の位置を指先で確認しながら、細かく注意深くメスを入れた。


「カテーテルを入れます」


アシスタントの手からカテーテルを受け取り、颯太は慎重にカテーテルを大腿動脈へと挿入していく。動脈を通してカテーテルを進めながら、彼は目をモニターに向け、血管内の状況を確認していた。心臓へのルートが確保されるまで、わずかなミスも許されない。


「血管内の状態を確認しつつ、カテーテルは順調に進んでいます」


看護師の報告が入る。颯太はそれを聞いて軽く頷いた。大腿動脈を通して心臓に向かうカテーテルが、細い血管内を通過する感覚が、彼の手元に微かに伝わってくる。

有村栄治の血管はあちこちで動脈硬化を感じさせる感触だ。動脈硬化が進行すると血管はもろくなる。出血に気を付けなければならない。


しばらくすると、カテーテルは冠動脈の狭窄部位に到達した。モニターに映し出される映像は、心臓の細かな血管の動きを鮮明に捉えており、冠動脈が狭窄している箇所がはっきりと見えていた。その部分は明らかに血管が狭まり、血流が阻害されている。


「冠動脈に到達しました。次にバルーンで血管を拡張します」


颯太は集中し、次のステップに移った。冠動脈に挿入されたバルーンカテーテルは、極細のチューブの先にバルーンが取り付けられており、それを血管内の狭窄部位に正確に位置づける必要がある。血管の壁を傷つけないよう、慎重かつ繊細な操作が求められる。

モニターには、バルーンがゆっくりと進み、狭窄部位に接近していく様子が映し出されている。バルーンが動くたびに、颯太の指先には微かな抵抗が伝わり、それが血管の状態を伝えるようだった。


「位置は良好だね」


木村先生が確認の声を上げたが、颯太はその言葉に頷く余裕さえなかった。心臓のわずかな動きが、バルーンの位置に大きく影響するため、全神経を集中させていた。


「バルーン、拡張します」


颯太の声は冷静だったが、手元の緊張は高まっていた。バルーンを慎重に膨らませるために、少しずつ圧力を加える。圧力をかけすぎれば、血管壁に負担がかかり、逆に破裂する危険がある。だが、圧力が足りなければ、狭窄部分を十分に広げることができない。


バルーンが膨らみ、狭窄した冠動脈を押し広げていく。モニター越しに見える動脈の内部では、バルーンが広がり、血流を通す道が次第に確保されていく様子が確認できた。モニターに映し出された血流が少しずつ改善していくのを目の当たりにし、颯太はわずかに息をついた。


「血流が回復し始めました」


看護師が淡々と報告する。颯太の頭の中は次のステップのことが頭を巡っていた。バルーンによる拡張が成功すれば、次はステントを留置し、血管を支える作業が待っている。


(これでうまくいけば、血流が完全に回復するはずだ…)


ほんのわずかなズレやミスで、状況が一変する可能性があることを常に頭に留めていた。心臓の鼓動は規則正しく続いていたが、それがいつ崩れるかはわからない。自分の手元にかかる重圧が、徐々に彼の肩にも重くのしかかってくるようだった。


「バルーンの拡張は成功です。次はステントを留置します」


颯太は自分に言い聞かせるように呟きながら、次のステップに進む。


次はステントを留置するための作業に取り掛かる。カテーテルに挿入されたステントが、慎重に冠動脈の狭窄部位へと進んでいく。モニターに映し出された映像を確認しながら、手元を動かしていたが、その瞬間、微妙な違和感が手元に伝わった。


「ん…?」


一瞬の異常を感じたが、それが何か理解する前に事態は急展開を迎える。次の瞬間、モニター上で心拍数が乱れ、血圧が急激に低下し始めた。


「出血だ!」


木村先生の鋭い声が響く。冠動脈が破れ、血液が冠動脈内に溢れ出しているのが明らかだった。ステント留置の際に血管壁に予期せぬ負荷がかかり、破裂してしまったのだ。


「神崎くん、まずい!血管が破裂している!」


木村先生の声に、颯太はさらに焦りを感じた。心臓への血流が急速に減少し、心筋が虚血状態に陥っている。モニターには心電図の異常がはっきりと映し出されていた。


(どうする…?すぐに対処しなければ…!)


颯太の心は焦りと動揺に包まれながら、次の一手を決断しなければならなかった。


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