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第5話

颯太は木村先生との会話を終えると、すぐに診療室を出て医局へ向かった。緊張感と責任感が入り混じり、足早に廊下を歩く。


医局に戻ると、周囲の雑音を遮断するようにデスクに向かい、早速心筋梗塞の手術手順を再確認し始めた。過去の資料や手術マニュアルを取り出し、細部まで目を通していく。心臓手術のマニュアルは分厚く、図解や詳細なプロセスが記されている。


(冠動脈のバイパス…手技の最適化が命運を分ける。心肺バイパス装置のセッティング、そして冠動脈の縫合)


心筋梗塞の緊急手術では、まず冠動脈の詰まりを特定し、血流を回復させるために、詰まった箇所をバイパスすることが最も重要だ。状況によっては、緊急でステントを留置するPCI(経皮的冠動脈インターベンション)が必要となるが、今回の場合はすでに心筋梗塞が進行しているため、外科的手術が不可欠だと考えられる。


次に、手術中に予期せぬ事態が発生した場合に備えるため、応急処置や合併症への対処法も確認する。


(最悪の場合、冠動脈が破れたらすぐに開胸して縫合するしかない…。ステントの挿入ミスによる動脈破裂にも備えないと)


この手術は、心臓そのものに直接関わるため、血管の状態や患者の血圧・心拍数の管理が非常に重要だ。万が一、冠動脈が破れた場合や、予期しない出血が発生した場合、即座に開胸し、手術を進めなければならない。そうなれば、時間との戦いになることは明白だった。


「心臓の停止と再始動のタイミングも…慎重にしなければ」


颯太は手術中に使用する心肺バイパス装置の操作手順も確認した。心臓を一時的に停止させ、心臓外の血管に血液を送りながら手術を進めるプロセスだ。心肺バイパスのセッティングが成功すれば、心臓の負担を軽減し、安全に手術を行うことができるが、タイミングや操作に少しでもミスがあれば、患者の命は危険にさらされる。


(緊急時の判断力が重要だ…焦らず、冷静に。今までの訓練を信じろ)


真剣な表情で資料を読み込みながら、颯太は手術に向けてのシミュレーションを何度も頭の中で繰り返した。木村先生が第一執刀医に任命したのは、自分の技術や冷静な判断力を信じているからだ。その期待に答えたい。


デスクの上には、手術の手順書や心臓の解剖図が散乱していたが、颯太はそれらを次々と確認し、シミュレーションを進める。手術の細かな手順を復習しながら、過去の経験や研修の中で学んだ技術を思い出し、自信を徐々に高めていった。


「大丈夫、俺ならできる…」


最後に深呼吸をして、マニュアルを片付け、手術室へ向かった。

手術室へ向かう廊下を颯太は一歩一歩、確かな足取りで進んでいた。過去の自分ならば、手術前の緊張感に飲み込まれていたかもしれないが、今は違う。旭光総合病院に就職し、木村先生の手術助手としてもかなりの数を執刀し、経験を積んできた。そして、学会でも褒められたことが自信へと繋がっていた。自分は成長している。その確信が、胸の中で静かに熱く燃えていた。


(大丈夫)


自分にそう言い聞かせ、手術室が近づく。だが、その瞬間、廊下の端からふわっと真田先生が現れた。颯太の腕に軽く手を置くような仕草で、いつもの口調で話しかけてきた。


「おいおい、颯太。これから大事な手術だぞ。落ち着いてやれよ、あんまり肩に力入れんな。天才心臓外科医の俺もついてるからな」


颯太は真田先生の言葉に一瞬耳を傾けたが、その直後、胸の中で抑えられない違和感が湧き上がってきた。今までは、真田先生の助言を心強く感じていたが、今日に限ってはその言葉が邪魔に思えた。


(いつまでも真田先生がいないと何もできない子どもじゃない。学会で褒められて、実力も認められている。もう…大丈夫なはず。真田先生にも認められたい)


その思いが、これまでの苦しい経験と成功が生み出した自信からくるものだと自分でもわかっていたが、それを無視することができなかった。


「真田先生…もう、俺は大丈夫です。これまでだって、学んできたし、今回もちゃんと準備しました」


颯太は意識的に真田先生の言葉を軽く流そうとした。だが、真田先生はそれも構わず続ける。


「おいおい、自信持つのもいいが、慢心するなよ。手術ってのは何が起こるかわからないんだぞ。俺が見てるから、お前がミスした時にすぐ助けてやれるんだ。初心忘れるべからず、だろ?」


その言葉は、真田先生なりの優しさだったのかもしれない。だが、颯太の中で、何かが切れた。心の中で膨らんでいたプライドが、一瞬にして表面に噴き出したのだ。


「もういいですから!」



颯太は少し強めに反論してしまった。これまでの彼なら、こんな言葉を真田先生に向けることなど考えられなかった。だが今は、自信過剰な気持ちが彼を動かししまったことに颯太自身も気が付いていなかったのだ。

真田先生は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに顔に微笑を浮かべた。その微笑みには、少しばかりの動揺と、若干の皮肉が混じっているようにも見えた。


「そうか。わかった」


真田先生は、ふわっと飛んで行ってしまった。その後姿からさっと目を逸らし歩き出す。颯太は、真田先生の言葉を思い出しながら、苛立ちを覚えた。自分は認められたはずだ。学会でも、木村先生にも。真田先生も、もっと自分を信じていいはずだ。唯一認めてくれていない真田先生に認めさせたい。

そう思いながら、颯太は真田先生を振り払うようにして、手術室へと急いだ。


(真田先生にも認めてもらう)


颯太の後ろ姿を見つめる真田先生は、静かにため息をついた。


「そんなところも俺に似ちまったか」


真田先生のひとりごとは空気に溶け込んでいった。


颯太は手術準備室に到着すると、すぐに有村栄治の検査結果を確認した。モニターには心電図や血液検査の結果が表示され、詳細な数値や画像が並んでいる。CTスキャンの結果も含め、明らかに心筋梗塞の兆候が見て取れた。


(やはり…心筋梗塞か)


心臓に異常な血流が認められ、冠動脈の詰まりが直接的な原因であることが明確にわかる。緊張が増していく中、颯太は手術の手順を頭の中で何度も確認し、準備を整えていた。

そこへ、手術準備室のドアが開き、木村先生が入ってきた。


「神崎くん、お疲れ様~」


木村先生は笑顔を浮かべながら颯太の隣に立ち、彼が確認していた検査結果に目を通した。そして、ふっと息を吐きながら、彼の肩を軽く叩いた。


「やっぱり心筋梗塞だったね…。神崎くん、ナイス判断だよ」


「ありがとうございます、木村先生。有村さんの奥様は…」


「ああ、たしか来られてたね。ご本人は手術準備をしているだろうから、奥様を呼んで手術説明をしようか」


颯太は頷き、カンファレンスルームへむかった。


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