ピーピーピーピーピー
手術中のしんと静まり返った独特の緊張感の中、静寂が一瞬にして破られた。心電図モニターのアラームが鋭く鳴り響く。
「異常な血圧低下…心拍数が低下しています!」
看護師の報告に、颯太の胸に強い焦りが走る。その瞬間、血液が視界を覆った。
「…っ!出血が!」
颯太の声が震える。心筋を取り巻く冠動脈から、異常な量の血液が噴き出していた。想定外の事態に動揺が走る。
「神崎くん、まずい!冠動脈が破れている!」
木村先生が鋭く叫ぶ。木村先生の声にも焦りが滲んでいる。颯太も出血部位を確認しようとするが血液で視界が悪く手探りの状況。
流れ出る血液は止まらない。心臓の大切な血管である冠動脈にステントを留置しようとした瞬間、血管壁が裂けたのだ。一瞬の出来事だった。
「なんてことだ…」
颯太の手が震えた。手術中のわずかな判断ミスが、患者の命を危機に陥れてしまった。心拍数は下がり続け、モニターのアラームがさらに激しく鳴り響く。看護師たちが緊急処置の準備に動き出す中、木村先生もサポートに入る。
「落ち着け、神崎!」
木村先生の声が響くが、颯太の脳裏には問いが繰り返される。
(なぜ…こんなことに…)
―2時間前―
学会を終えた週明けの月曜日。颯太は学会での手応えがまだ胸に残っていた。厳しく褒められたことのない古賀先生に褒められ、友人たちや同期たちからも祝福されたことで、少しだけ自信が芽生えた。いつもは重く感じていた白衣も、今日はどこか違う感触だ。
エレベーターに乗り、病棟に向かうと、ちょうど木村先生が病室から出てくるのが見えた。颯太が近づくと、木村先生は彼を見て微笑んだ。
「おかえり、神崎君。なんだか顔つきが変わったね。学会で何かあったのかい?」
木村先生の言葉に、颯太は少し照れくさそうに頷いた。
「ええ、まあ…ちょっとだけ自信がついたかもしれません。いろいろ学ぶことがあって…」
木村先生は満足そうに彼を見つめ、笑顔になった。
「それはいいことだ。その調子だよ。医者には自信も必要だからね」
木村先生は颯太の肩を軽く叩いた。
颯太は胸の奥で静かに湧き上がるものを感じた。これまでの不安や焦りが少しずつ薄れ、自分が医師として成長しているという実感が広がっていった。
「ありがとうございます、木村先生」
木村先生は微笑んで頷き、「じゃあ、今日も外来診療頑張ろう」といい、階段へ消えていった。颯太は心が沸き立つ感覚でいっぱいだった。認められる…医者としてのプライドとはこのようなものなのだろう。
「よし、頑張ろう」
颯太は呟き、病棟のカルテ確認に取り掛かった。その後、外来診療の部屋に入ると、カルテを手に取り、患者の情報を確認しながら一日の診察を始めた。いつもとは違い、自信が胸に湧き上がる。それに、いつもより落ち着いて診療に向かうことができている。診察室のドアがノックされ、次の患者が入ってきた。
「失礼します」
入ってきたのは有村栄治、52歳、男性。顔色が悪く疲労が浮かび、痛みや不快感を抱えている様子だ。颯太は軽く頷きながら彼を診察台に誘導した。
「有村さんですね。どうされましたか?」
颯太がカルテを見ながら尋ねると、有村はゆっくりと話し始めた。
「5日前からなんですけど、歯が痛くて…それで歯医者に行ったんです。でも、虫歯もないって言われて、もしかしたら歯周病かもしれないから、様子を見ましょうと言われて。次の日から、吐き気や胸やけが出てきて…それで内科に行ったんです」
有村は顔をしかめながら、何度も胸元を手で押さえていた。颯太はその動作に気づき、注意深く聞き続けた。
「内科では薬をもらったんですけど、全然よくならなくて、むしろ昨日からもっと悪くなって…。先生が、消化器と循環器、それから脳外科も診てもらった方がいいって言って、今、病院内を回ってるんです」
「そうでしたか…」
颯太は有村のカルテを再確認しながら、歯痛や吐き気が単なる消化器系の問題ではない可能性を感じ始めた。歯の痛みや胸の不快感が続くというのは、時に心臓の問題が隠れていることもある。
「他の科では、何か言われましたか?」
「まだ何も…。でも、内科の先生は『もしかしたら循環器系か脳神経の問題かもしれない』って言ってました」
颯太は短く頷き、慎重に思考を巡らせる。症状の経緯と彼の年齢を考えると、循環器系の問題、特に心臓に関連する疾患が疑われる。胸やけや吐き気、歯の痛みは、心筋梗塞の初期症状として現れることもあるのだ。
「有村さん、すぐにもう少し詳しい検査をしましょう。何か心臓に関係する症状かもしれません。その場合は緊急を要しますから」
「そ…そうですか…」
「ご家族に来ていただくことはできますか?」
「はい。妻が自宅にいるはずです…」
颯太は有村栄治の胸元に聴診器を当て、慎重に耳を澄ませた。呼吸音や心音に集中しながら、何か異常がないかを確認する。しばらくの沈黙の後、心臓の動きに異常な音が混じっていることに気づいた。
(Ⅲ音とⅣ音…この音は…)
Ⅲ音は心不全の兆候を示すことが多く、心臓が過剰な負担を受けていることを示唆する。一方、Ⅳ音は心筋が硬くなっている可能性を示し、左室機能障害を疑わせる。
(やはり…)
颯太の脳裏に、緊急性のある問題が浮かび上がった。心筋梗塞の可能性が高い。今すぐ検査をして、状況を確認しなければならない。一刻を争う病気だ。
「有村さん、すぐにいくつか検査をしましょう。血液検査と心電図、そして胸部レントゲンと超音波検査、それからCTスキャンもお願いしましょう。大事をとって、すべて確認させてください」
「…はい」
颯太は迅速に検査を指示し、周囲の看護師たちがすぐに動き出した。有村は少し不安げに見つめていたが、頷きながら検査を受け入れた。
その様子を見ていた真田先生が、颯太の横にふわっと現れた。幽霊の彼は、いつもの軽い調子でにやりと笑った。
「颯太。いい判断だ。あと既往歴の確認も…」
「わかってます」
真田先生の言葉にかぶせるように颯太は小さく呟いた。真田先生はそんな初めての颯太の態度に目を見開きながらにやりと笑い口をつぐんだ。
「有村さん、では看護師が検査室にご案内しますので、少しお待ちください。あと、奥様に念のためにお越しいただいたほうが良いかもしれません」
有村は緊張した表情を浮かべたが、すぐに携帯を取り出して妻に連絡を取ろうとしている。颯太はその姿を見届けながら、検査室への指示をもくもくと入力していったのだった。
午前中の外来診察を終え、颯太は診療室の片付けをしていた。外来が無事に終わったとはいえ、有村栄治の検査結果がまだすべて出揃っていないため、落ち着かない。心筋梗塞の疑いが強く、緊急オペの可能性も頭をよぎる。そんな中、診療室のドアが静かにノックされ、木村先生が入ってきた。
「神崎君、午前中の外来ご苦労様」
木村先生は穏やかに笑いかけながら、颯太の机の前に立つ。
「有村さんの判断、素晴らしかったよ。初期症状から予測して、Ⅲ音とⅣ音をしっかり聞き取って、心筋梗塞を疑ったのは正しい判断だったね」
木村先生の言葉に、颯太は頷く。
「ありがとうございます。まだ検査結果が全部出ていませんが…」
木村先生はうなずきながら言葉を続けた。
「そうだね、まだすべては揃っていないが、症状や経過を考えると、間違いなく心筋梗塞だろう。検査結果が出次第、すぐに緊急オペになるはずだ」
颯太の心拍が少し早くなるのを感じた。これからの緊張感の高まる状況が目に浮かぶ。
「神崎君、そこでお願いがある。今回の手術、君に第一執刀医をお願いできるかな?」
その言葉に、颯太は一瞬息を呑んだ。緊急手術の第一執刀医は、経験も技術も必要とされる重要な役割だ。これまで経験は積んできたものの、心筋梗塞の緊急オペでの第一執刀医をつとめたことはない。
「僕が…第一執刀医ですか…?」
木村先生は真剣な表情で頷いた。
「そうだ。君ならできる。今までの経験と冷静な判断力を信じているよ。私がサポートに入るから安心して挑んでくれ」
颯太はしばらく無言で考えたが、次第にその言葉が自分の中に力を与えてくれるのを感じた。木村先生の信頼を裏切らないためにも、ここで一歩踏み出すしかない。自分ならきっとできる。
「分かりました。全力でやります」
颯太は木村先生の目を見て、しっかりと頷いた。手術までの時間はあまりない。心筋梗塞の患者を救うための戦いが始まるのだ。