颯太が学会会場に到着すると、会場の外にはすでにスーツを着た人が溢れていた。会場の入口には大きな看板が掲げられており、そこには大きく「心臓外科学会」と書かれている。多くの医師たちが数人ずつ集まり、専門的な話を交わしながら笑い合っている。その光景を見た途端、颯太は胸の中に気まずさと不安が押し寄せてくるのを感じた。
(やっぱり、居心地悪い…早めに帰ろう)
人の波に飲み込まれそうになりながら、颯太は無意識に肩をすぼめた。周囲が活気に満ちているのに対し、自分だけが場違いだ。そんな颯太とは正反対の気配を感じ、そっとそちらを見た。
「おー、今年も大盛況じゃないか~!」
真田先生の朗らかな声が耳に届いた。幽霊の真田先生が颯太の腕にしっかりとくっついている。スーツを着た医師たちの間を軽やかによける真田先生を見ながら、颯太は内心で苦笑する。
「去年は俺も症例発表して、司会までやってたから、そりゃあ忙しかったんだよな~」
真田先生はそう言って笑顔を浮かべ、過去の思い出に浸っているようだった。
「…すごいですね、真田先生。僕には到底無理ですよ」
颯太は小さく呟いたが、真田先生は気にする様子もなく、楽しそうに話を続ける。
「いやいや、あれも楽しいもんさ。ほら、あのステージ、懐かしいな。颯太、お前もここで発表したらいいんじゃないか?次はお前の番だ!」
颯太はため息をつきそうになるのを必死にこらえ、真田先生の冗談めかした言葉を聞き流すしかなかった。
颯太はため息を一つついた後、気持ちを切り替え、会場の中へ足を踏み入れた。扉を通ると、さらに多くの人々が行き交い、壁には見覚えのある有名な医師たちの顔が並んだ看板がいくつも掲げられている。
日本の心臓外科の第一線を担う人物たちの名前がズラリと並び、その中には以前から論文や学会で耳にしたことがある権威ある医師もいた。
「へぇ、すごい顔ぶれだな…」
颯太は思わず呟いた。どのポスターも、名だたる医師たちがいかにして革新的な手術を成功させたか、あるいは最新の治療法について講演する内容ばかりだ。颯太はその場に立ち止まり、じっとそれらを見つめていた。
「ん?どうした?ようやく興味が湧いてきたか?」
真田先生が、腕を組みながら楽しげに颯太を見ている。颯太は、真田先生の軽口を無視しながらも、心の中で決心を固めた。ここまで来た以上、ただの傍観者で終わるのは避けたい。学会に来るのは気乗りしなかったが、今後の自分にとっても、技術の向上や知識を得るための勉強は不可欠だ。
「せっかくだし、しっかり勉強して帰ります」
颯太は自分に言い聞かせるように呟き、改めて気合を入れ直した。会場の賑やかな空気に負けないように、心を落ち着けて歩き出す。
「そうこなくっちゃな!」
真田先生は相変わらず楽しそうにしているが、颯太はこれからの講演やディスカッションに集中することにした。
看板に記された講演スケジュールを確認しながら、颯太はどのセッションに参加するかを考えた。これからの心臓外科医として、今学ぶべきことは山ほどあるのだから。
颯太は、講演スケジュールをじっくり見ていると、数あるセッションの中で「最新の心臓外科手術技術」についての発表に目が留まる。心臓外科医としての成長に繋がる内容だと感じ、意を決してそのセッションに参加することにした。
会場内を進みながら、多くの医師や教授が行き交う中、颯太は何度か知り合いと目が合ったが、挨拶を交わすことはなく、ただ軽く頭を下げる。気まずさを感じつつ、セッションが始まる前に一息つこうと、休憩スペースに向かおうとしたその時、背後から声がかけられた。
「神崎君じゃないか?」
振り返ると、そこにはかつての恩師、村上教授の姿があった。彼は、颯太が研修医だった頃に指導をしてくれた人物だ。村上教授は優しい笑顔を浮かべ、手を差し伸べた。
「お久しぶりです。村上先生」
颯太は少し緊張しながら、手を握り返した。
「君も心臓外科の道を進んでいるようで何よりだ。研修期間を終えて海外に行ったと聞いたときはどうなることかと思ったが。今はどこにいるんだい?」
「今は地元の旭光総合病院に所属しています」
「そうか…。これから古賀先生の発表があるんだ。一緒に行かないか?」
「古賀先生…」
颯太は、村上先生に誘われるまま、古賀先生のセッションに参加することにした。古賀先生は、研修医時代に厳しく指導された恩師の一人で、当時のことを思い出すと、少しばかり憂鬱な気分になる。古賀先生は、颯太のことを決して褒めることがなく、やる気がない、覇気がない、目が死んでいるなどと厳しい言葉ばかり投げかけてきた人物だった。
(あの頃は、本当に苦しかったな…)
颯太は、古賀先生に何を言われてもなんとか食らいついたが、当時の自分がどう見られていたかもわかっていた。研修医の期間が終わるまで、彼から一度も褒められたことはなかったのだから。おそらく嫌われていたのだろう。
会場に着くと、村上先生が「さあ、前の席に座ろう」と促し、颯太はためらいながらも最前列に座らされた。背筋が自然と緊張で硬直する。会場の雰囲気は厳格な雰囲気でで、講演に対する期待感が漂っていた。颯太は心の中で深く息を吐いた。
「古賀先生の講演は相変わらず人気だな」
村上先生が隣でつぶやく。颯太も頷くが、内心では講演よりも古賀先生に会うこと自体が気が重い。そんな心の準備ができていないまま、講演が始まった。
壇上に現れた古賀先生は、相変わらず鋭い眼光で会場を見渡し、話し始めた。
「本日は、最新の心臓外科手術技術について、特に複雑な手術における新しいアプローチを紹介したいと思います。皆さんも知っているように、我々心臓外科医の仕事は常に命と向き合う過酷なものであり…」
古賀先生の声が会場全体に響く。彼の講演は、理路整然としていて、確かに説得力があった。だが、颯太はその声を聞くたびに、昔の厳しい指導が思い出され、体が緊張してしまう。
(今の自分は、あの頃から成長できているのだろうか…)
ふと、そんな疑問が頭をよぎる。颯太は、セッションの内容に集中しようと努めたが、心のどこかで古賀先生がどう自分を見ているのかが気になって仕方がなかった。
古賀先生の講演が終わると、会場には一瞬の静寂が訪れ、その後すぐに質疑応答の時間が始まった。数人の医師がすぐに手を挙げ、次々と質問をし始めた。その質問はどれも専門的かつ高度な内容で、心臓外科医としての深い知識と技術が問われるものばかりだった。
「非常に興味深いご発表でした。ですが、前述の手術手順に関しては、従来の方法も選択肢として考えられるのではないでしょうか?」
「その点については、既に別の研究で示されている通り、最新の研究では…」
質問も高度なら、古賀先生の回答もまた冷静かつ的確で、まるで疑問を寄せ付けない圧倒的な技術と経験を感じさせるものだった。会場全体がそのやり取りに引き込まれ、颯太も自然と耳を傾けていたが、その一方で、ますます自分がここにいていいのかという不安に苛まれていった。
(俺、こんなところにいて大丈夫かな…?みんな凄すぎる…)
そんな思いを抱え、颯太はできるだけ小さくなって座っていた。できるなら、このまま誰にも気づかれずに静かに終わってほしいとさえ思っていた。しかし、その願いは打ち砕かれる。
突然、古賀先生の鋭い声が会場に響いた。
「神崎!」
颯太の体がびくっと反応する。心臓が一瞬止まりそうになる。
「お前は聞きたいことはないのか?」
古賀先生はバカにしたような笑みを浮かべながら続けた。
「研修医のときよりも成長したところを見せてくれよ」
その瞬間、会場の視線が一斉に颯太に集中した。自分がどう返答すべきか、何を言えばいいのか、頭の中が一気に真っ白になった。
(何か聞かなきゃ…でも何を…)
手が震え、冷や汗が背中を伝う。質問を考える余裕もないまま、全ての目が自分に向いていることが耐えがたく、颯太は言葉を絞り出そうとしたが、口が思うように動かない。
古賀先生は、そんな颯太の様子を見ながら、さらに追い討ちをかけるように言った。
「お前、まだやる気がないのか?それとも、今でも成長してないのか?あの頃と同じで逃げてばかりなのか?」
その言葉が颯太の心に重くのしかかった。