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第1話

「学会、ですか…?」



颯太は目の前に差し出されたパンフレットを手に取り、何度か木村先生とパンフレットを見比べた。学会のロゴが鮮やかに印刷された表紙には【日本心臓外科学会】と書かれている。

心臓外科医であれば所属する人がほとんどの学会だ。颯太も、もちろん所属しているが学会の活動に参加したことはない。


そんな颯太の戸惑いを予測していたのか、木村先生は穏やかに微笑んだ。


「そう。神崎君に次の心臓外科の学会に出席してもらいたい。君のこれまでの成果を発表するのにいい機会だし、今後のキャリアにとっても大きなステップになるよ」


「でも…」


颯太は言葉に詰まりながら視線を落とした。学会という言葉を聞いただけで憂鬱になる。人が多い場所が苦手だし、人前で話すことも気が重い。それに加えて、医療業界の狭さも知っている。父親の事件。それは颯太がずっと避けてきた影のような存在だ。多くの医師たちがまだ記憶しているだろうし、その中には悪意を向けてくる者もいるだろう。

自分が注目される場所に行けば、無意識のうちにその話題が再燃するのではないかという不安があった。


「僕、あまりそういう場所には…」


颯太はポツリと呟いた。学会のような大規模な集まりは、学生の頃から意識的に避けてきた。人混みも苦手だし、知らない人たちとの交流にエネルギーを費やすことに気が進まない。それに、自分が他人の目にどう映るのかを常に気にしてしまうのも嫌だ。

木村先生はその沈んだ様子を察したのか、少し考えるように眉をひそめたが、それでも優しく言葉を続けた。


「確かに、学会は賑やかだし、プレッシャーも感じるかもしれない。でも、君の技術と知識はもっと評価されるべきだよ。今回は時間もないし症例発表をしなくてもいい。今回は出席して色々な発表を聞いて勉強をしに行くつもりで、ね。それがかんじゃさんのためにもなるわけだし」


颯太は何も言わずにパンフレットを見つめたまま、胸の中で葛藤していた。

その時、ふわっと木村先生の後ろに幽霊の真田先生が現れた。颯太にしか見えない真田先生は、木村先生の背後でふざけたように手を振り、木村先生にちょっかいを出す仕草をして爆笑している。颯太はその様子に気づいたが、木村先生の手前、当然ながら反応することはできない。


「おい、颯太。そんなに暗い顔すんなよ」


真田先生がふいに笑いながら口を開いた。


「俺もついていってやろうか?学会、楽しいぞ」


颯太は心の中で「やめてくださいよ」と念じながらも、顔には出さずに黙っていた。木村先生がまだ真剣な表情で話している最中だ。軽く相槌を打ちながら、なんとか真田先生の言葉を無視するしかない。

真田先生はそんな颯太の態度に少し不満そうに眉をひそめ、再び軽口を叩く。


「おいおい、そんなに無視するなよ。たまには俺も病院以外に連れ出してくれよ、な?」


冗談めかして笑う。真田先生は飛行機事故で命を落とした後、なぜかこの旭光総合病院から出られない幽霊となっている。最近は一緒に居酒屋に行ったりや散歩もしているが、やはり病院から出たいのだろう。


「わかりました。学会…出席します。でも、勤務のこともありますし…土曜日の半日だけ…でもいいですか?」


颯太が重い口を開いてそう告げると、木村先生はその瞬間、勢いよく立ち上がり、颯太の手をがっしりと握った。


「おおっ、よく決断してくれた!神崎君!嬉しいよ!」



木村先生は満面の笑みで大喜びし、その表情には本当に安堵と感謝が溢れている。だが、颯太はその姿を見ながら、ふと気づいた。


(これって…もしかして、木村先生が行きたくなかっただけなんじゃ…?)


心の中でそう思い、思わず苦笑してしまった。木村先生のはしゃぎぶりが、どうにも自分が面倒を押し付けられたような気分にさせる。ふわっとした気配とともに、またもや真田先生が呑気に颯太の横へきた。


「学会は今週末か~。いやぁ、楽しみだなぁ~」



そう言いながら、真田先生は木村先生の背後で浮かれた様子で手を振っている。真田先生にとっては普段の病院生活から抜け出すチャンスに見えるのだろう。


しかし、そんな真田先生の無邪気な笑顔とは裏腹に、颯太は心の中でどんよりとした気持ちが広がっていく。学会に行けば、あの人混み、人目、…そんな場所で自分が本当にやっていけるのか。


「…憂鬱だな」


颯太は声に出さないまでも、笑顔ではしゃぐ2人を尻目に、重たい気持ちを隠し切れなかった。


そしていよいよ土曜日がやってきた。颯太は朝から病棟回診、検査業務のため循環器病棟での勤務を終え、そろそろ更衣室へ着替えに行かなくてはならない時間になっていた。あれから毎日、頭の片隅には学会のことが重くのしかかり足取りも重い。


「先生、そんなに人混み嫌いなの?」



ふいに聞こえた桜の明るい声に、颯太は顔を上げた。桜はベッドの上に座りながら、彼の表情を見て笑いをこらえている。


「いや、別に…そんなに嫌いってわけじゃ…」



と、言いかけたところで、桜はおどけた顔をして笑った。


「またまた~。だって先生、さっきからすごく暗い顔してるんですもん。何か嫌なことでもあるんですか?」



桜はわざとらしく首を傾げて見せる。そのやり取りを聞いていた悠斗くんが、隣のベッドから「先生、人が多いところ、苦手なの?」と、無邪気な声で尋ねた。颯太はその無垢な問いかけに少し苦笑しながら答えた。


「うーん…そうだね。満員電車とかも嫌いだし…」と苦笑いを浮かべる。


「そっかぁ、でも先生はすごいお医者さんだから、きっと学会で大活躍だよね!」



悠斗くんが目を輝かせてそう言うと、バイタル測定のために部屋へ来ていた看護師の霧島由芽も笑って参戦する。


「そうよ、神崎先生なら大丈夫。だって、いつも冷静沈着な判断で手術も全部うまくいってるじゃない。学会なんて、先生にとっては朝飯前でしょ?」


颯太は由芽の励ましに対して、少し照れくさそうに肩をすくめた。


「いや…それほどでもないよ。発表はないんだけど、なんだかんだで出席するだけで気が重くてさ…。全然知り合いもいないし…」


桜が少し意地悪そうな笑みを浮かべて言った。


「なるほどー。一人じゃ寂しいんだー」


「そ、そういうことじゃないよっ」


すぐに返すものの、周囲からクスクス笑いが起こる。病棟の雰囲気は和やかで、そんな軽口を交わしながらも、颯太は少しだけ心が軽くなった気がした。


「先生なら大丈夫だって」


桜が手を振りながら冗談めかして言う。


「そうだよ、先生。頑張ってね!」


悠斗くんも笑顔で応援する。颯太は苦笑しつつ、彼らに手を振り返した。


「うん、ありがとう。とにかく、行ってくるよ…」


「大学の同期もいるかもよ?」


由芽とは高校も大学も同じだった。由芽も大学時代の友人たちの顔を思い浮かべたのだろう。颯太もそれを聞いて何人かを頭に浮かべる。たしか、心臓外科、心臓内科、呼吸器科にすすんだやつらがいたような気がする。すっかり連絡を取っていないが会えば笑って話せる仲間だ。


「そうだな。よし、行くか」


颯太は手をふるみんなに笑顔を向け、病棟を後にした。


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