店を出た颯太は、夜風に当たりながら真田先生と並んで歩き始めた。駅の反対側の道を歩き、静かな夜の街並みが広がる中、颯太の心は複雑な感情で揺れていた。
「真田先生…実は…」
颯太は思い切って、これまで誰にも話せなかったことを口にし始めた。父、神崎航太郎のこと。あの手術ミス。そして、自殺。
「父は…あの手術ミスの後、自分を責め続けていました。ずっと何かを抱えていたのに、家族には何も話してくれませんでした。自分一人で抱え込みすぎて…ついには…」
その瞬間、言葉が詰まり、颯太は口を閉ざした。涙がこみ上げてくるのを抑えながら、平静を装おうとしたが、胸の奥にある痛みがどうしようもなく溢れ出してくる。
真田先生の方を見ることはできなかったが、じっと聞いてくれているのがわかった。静かに歩きながら、颯太の告白を遮ることなく、ただそばにいてくれていた。
「父は、自分がしたことを悔やんでいたと思います。でも…僕は最後まで、父が本当にどうして自殺を選んだのか、理解できなかったんです。自分が医者になったのも、父を理解したくて…」
颯太は歩きながら、ずっと抱えていた胸の重荷を吐き出すように話した。手術ミスが父をどれほど追い詰め、彼の心にどれほどの傷を残したのか。そして、それが自分にとってもどれほど重いものだったのか。
話し終わる頃、ちょうど自宅に着いた。暗く静かな家が目の前に立っていた。あかりはともっていない。母は夜勤だ。
颯太は静かに家に上がると、靴を脱ぎ、まっすぐに仏壇へと向かった。暗い部屋の中、仏壇の前でそっと手を合わせる。無言のまま、父の顔を思い浮かべ、心の中で言葉を紡ごうとしたその瞬間、今までずっと黙っていた真田先生が静かに口を開いた。
「颯太…神崎先生が自殺をするきっかけになった…手術を受けた患者の名前を知っているか?」
その問いかけに、颯太は一瞬動揺したが、すぐに静かに頷き、答えた。
「はい。一度だって忘れたことはありません。西浦栄真さんという方でした」
その名前は、颯太にとって、父が犯した最大のミスを象徴する名前であり、ずっと心の奥に重くのしかかっている。忘れるはずがない。思い出すたびに苦しくなり、それでも決して忘れられない名前だった。
その時、真田先生がゆっくりと、しかし明確に告げた。
「それは…俺の兄だ」
颯太は驚いて顔を上げ、真田先生を見つめた。信じられないという表情が颯太の顔に浮かぶが、真田先生は目を閉じ、仏壇に向かって静かに手を合わせていた。その表情からは、心の中で何を思っているのかを読み取ることができない。
「真田先生の…お兄さん…?!」
真田先生の告白に驚いた颯太は、混乱しながらも、ふと疑問が頭をよぎった。
「でも、名字が…」
颯太がそう呟くと、真田先生はゆっくりと目を開け、いつもの穏やかな表情で答えた。
「ああ…兄が亡くなった後、両親が離婚したんだ。俺は母親の名字になったからな」
その言葉に、颯太は驚きを隠せなかった。自分の父が、真田先生の兄を手術し、その結果が命を奪うことになった。その事実が、目の前の真田先生の家族にどう影響を与えていたのかを考えると、言葉が見つからなかった。
颯太は深く頭を下げ、震える声で口を開いた。
「父が…本当に…申し訳ありません…」
その言葉が出た瞬間、真田先生はすぐに手を上げて颯太を止めた。
「謝るな」
その短い言葉に、颯太は驚き、顔を上げた。真田先生の表情は穏やかで、彼の目には怒りや憎しみは一切見えなかった。
「兄貴は、どこの病院からも『手術は無理だ』と断られていた。生きることに絶望していたんだ。それでも、神崎先生は兄を受け入れてくれた。神崎先生の手術で兄は一縷の望みをつなぐことができたんだ。結果は残念だったが…兄貴は本当に神崎先生には感謝していたよ」
真田先生は、目を伏せながら静かに話を続けた。
「俺たち家族は、誰一人として神崎先生を責めるような思いは持っていない。それどころか、神崎先生が兄貴を救おうとしてくれたことを本当に感謝してる」
その言葉は、颯太にとって予想もしなかったものだった。彼は、ずっと父がその手術によって責められ、追い詰められていったと思い込んでいた。だが、目の前の真田先生は、まったく違う思いを抱いていたのだ。
颯太は再び、目頭が熱くなるのを感じた。長い間心に抱えていた重たい罪悪感が、少しずつ和らいでいくような気がした。
真田先生は話を続けた。
「俺たち家族は、神崎先生を訴えたこともなければ、憎んだこともない。あの手術が兄にとって唯一の希望だったから。どんな結果だろうと受け入れる覚悟だった。だが、報道が過熱して、世間が勝手に神崎先生を悪者にした結果…素晴らしい医者をひとりを失ってしまった」
そう言って、真田先生は静かに顔を伏せた。彼の声には深い悲しみが滲んでいた。その言葉に嘘がないことは、表情からも伝わってきた。
颯太はしばらく何も言えずに、ただその場に立ち尽くしていた。父の手術ミスの報道やその後の出来事は、自分の中でも長い間触れることができない記憶として封じ込めていた。それでも、目の前にいる真田先生の話を聞くうちに、その封印が少しずつ解かれていく感覚があった。
「僕…当時のこと、よく覚えていません。無意識のうちに、父の件を遠ざけていたのかもしれません」
真田先生との出会いも、言われるまで思い出せなかった。本当に記憶がすっぽりとなくなっているようなのだ。
真田先生は、そっと颯太の肩に手を置いた。
「それは仕方がない。俺は…颯太が神崎先生の息子さんであると知っていた。知っていて、弟子にしようと提案したんだ。君を、立派な医師にしたいと思っている。それは今でもかわらない」
真田先生の言葉に、颯太は胸の奥が熱くなった。父、神崎航太郎の息子だと知りながらも、真田先生は指導をしてくれ、見守り続けてくれていたのだ。その事実を知ると、これまでの指導の厳しさや、時折見せる優しさがすべて父への尊敬と自分への期待から来ていたのだと感じられた。
颯太はしっかりとした口調で言った。
「…これからもっと頑張ります。父のように、いや、父を超えられるような医者になりたいと思います。それに真田先生も超えてみせます」
自分の言葉が決意に満ちているのを感じた。これまでも医者として真摯に努力してきたが、今の気持ちは一層強く、明確な覚悟が心を熱く燃やしている。
しかし、そんな颯太をじっと見つめる真田先生は、少し厳しい表情で続けた。
「それでいい、颯太。でも、もう一つ言わなければならないことがある」
「…なんですか?」
「俺はな、神崎先生の手術ミスには、ほかに何か要因があると思っているんだ。ただのミスとは思えない。あの手術の背後には、まだ知られていない何かが隠れているはずだ。それが何なのか、俺はずっと探り続けてきた。そして、その真実を明らかにしたいと思っている」
颯太は驚き、真田先生の顔をじっと見つめた。これまで、父の手術ミスは単なる医療ミスだと思い込んでいたが、真田先生が語るその言葉には確信と深い思いが込められていた。
「神崎先生は、そんな簡単なミスを犯すような医者じゃなかった。何か、もっと大きな理由があったに違いない。俺はそれを突き止めたいんだ」
真田先生は、颯太の目をまっすぐに見つめ、静かに問いかけた。
「協力してくれるか?」
颯太は少し戸惑ったが、すぐに心を決めた。父の死の真相を知ることは、自分にとっても避けて通れない道だ。そして、真田先生が真実を追い求める気持ちを尊重し、共に歩む覚悟を持った。
「…はい。僕も真実を知りたいです。協力させてください」
そう答えると、真田先生は少し微笑み、力強く頷いた。
「ありがとう、颯太。これから一緒に、真実を明らかにしていこう」
颯太は新たな決意を胸に抱き、真田先生と共にその先にある真実へ向かって進む覚悟を固めた。