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第8話

その日の業務を終えた颯太は、疲れた体を引きずるようにして病院の廊下を歩いていた。桜の手術が成功した安堵感と、木村先生とのやり取りの中で感じた複雑な感情が胸の中で渦巻いていたが、あれ以上何も話さない木村先生に聞くことはできなかった。


「颯太、帰るのか?」


ふと背後から声をかけられ、颯太は振り返った。そこにはいつもの笑みを浮かべた真田先生が立っていた。


「真田先生、お疲れ様です」


「お前、明日休みだろう?せっかくだから今夜一杯飲みに行かないか?」


颯太は真田先生の言葉に驚き、そして笑いをこらえきれずに言った。


「真田先生、幽霊なのに、ついにお酒まで飲むようになったんですか?」


真田先生は軽く肩をすくめながら、


「幽霊だからって飲めない理由はないだろう?」と軽く返してきた。その冗談のやり取りに、さっきまでの颯太の肩の力が少し緩んだ。


「じゃあ、行きましょうか。真田先生のおすすめのお店に」


そう言って、二人は病院をあとにした。夜風が心地よく、疲れた体を癒してくれるようだった。真田先生の道案内で、颯太は普段あまり通らない道へと向かった。病院から歩いて少し離れた駅の反対出口を出たところに、古びた居酒屋が見えてきた。


「ここですか?結構年季が入ってますね」


颯太は古めかしい看板を見上げながら、真田先生に尋ねた。


「ここは昔から知ってる店でな。医者が疲れたときに立ち寄るにはちょうどいい場所なんだよ」


真田先生は少し懐かしそうに言いながら、暖簾をくぐった。颯太もその後に続き、店内に入ると、落ち着いた雰囲気が広がっていた。年配の店主がカウンターの向こうで料理をしているのが見え、店内には少しいい匂いが漂っている。


「さ、座れよ」


真田先生が促し、颯太はカウンター席に腰を下ろした。


「真田先生も、どうぞ」


颯太は真田先生のために隣のカウンター席を引いてあげた。真田先生はにやりと笑い、隣の席に腰かけるように移動した。

店の中はがらんとしており、二人以外…いや、颯太以外の客はいないようだった。年配の店主がカウンターの向こうから現れ、タオルで手を拭きながら、颯太におしぼりを渡してきた。


「お客さん、初めてですね。何にしましょう?」


店主の低い声が、静かな店内に響いた。


「えっと…じゃあ、ウーロン茶を…」


しかし、真田先生はその言葉に眉をひそめ、すぐに声を荒げた。


「はぁ?!休みの日くらいお酒を飲め!こんな居酒屋に来て、ウーロン茶だと?!」


「す、すいません。じゃあ、ウーロン茶と…ビールをお願いします…」


店主は小さく笑って、「あいよ」と返事をした。

どうやらここは真田先生のお気に入りの店らしく、店主とも顔なじみのようだ。

すぐに運ばれてきたビールとウーロン茶。真田先生の前にビールをおき、それに軽くカチンとグラスをあてた。


「それでいい。さっさと楽しめ」


真田先生の物言いはぶっきらぼうだが、表情は穏やか。優し気な眼差しでウーロン茶を飲む颯太を見つめていた。


「今日の手術、よくやったな。木村先生が途中で抜けたときは、正直どうなるかと思ったが…お前は落ち着いていた」


その言葉に、颯太は少し照れながらも、謙遜した表情を浮かべた。


「いや…正直、内心はすごく焦っていました。でも、真田先生や藤井先生のサポートがあったからこそ、なんとか最後までやり遂げられました」


真田先生は軽く頷きながら、ビールグラスに目を向けた。


「それでも、あの場面で冷静さを保っていたのは大したもんだ。お前はずっと自分の力を過小評価してるが、実力はだいぶ向上してきたと思うぞ。木村先生が任せたのも、お前を信じてのことだろう」


嬉しさが胸に広がった。


「ありがとうございます。でも、僕はまだまだ未熟ですし、もっと経験を積まないと…」


「それでいい。今のその謙虚さは、これからの成長に繋がる。だが、自分を過小評価しすぎると、いざというときに足を引っ張ることになるぞ」


真田先生は穏やかな眼差しで颯太を見たが、その瞳の奥にある思いまで読み取ることはできない。


「少しずつ自信を持て。ただし、油断はするな。これからも続くんだからな」


颯太は静かにウーロン茶を飲みながら、その言葉を胸に刻み、感謝の気持ちを込めて真田先生に深く頷いた。

店主がカウンターの向こうからお通しの小鉢をそっと置いた。その動作は静かで無駄がなく、年季の入った居酒屋の雰囲気にぴったりだった。店主はふと颯太に目を向け、興味深げに話しかけてきた。


「お客さん、もしかして旭光総合病院のお医者さんかい?」


その質問に、颯太は少し驚いたが、遠慮がちに「はい」と短く答えた。自分が医者だと知られることはあまり好まないが、隠すことではない。

すると、店主は穏やかに微笑みながら続けた。


「実は俺、20年くらい前にあそこで命を救ってもらったんだ」


その言葉に、颯太は思わず店主の話に耳を傾けた。店主がカウンターの端に寄りかかり、静かに語り出す。


「仕込み中に、背中に軽い痛みがあったんだ。最初は大したことないと思っててさ、忙しくてほったらかしてたんだよ。でも、痛みがだんだんひどくなってきて、かみさんに無理やり病院に連れて行かれたんだ。それが、旭光総合病院」


店主はしばらく目を閉じて、当時を思い返すように話し続けた。


「診察してくれた医者がすぐに『これ、大動脈解離だ』って気づいて、緊急手術をしてくれたんだ。あの時見つけられなかったら、たぶんそのまま俺は死んでた。そう言われたよ。ほんと、命拾いした」


「それは…本当に大変だったんですね。でも、無事に助かって何よりです」


店主は静かに頷き、優しげな表情で続けた。

店主は少し遠くを見るような目をしながら、続けて言った。


「そのお医者さん、あんたに似てるんだ」


颯太は突然の言葉に、心臓が大きく跳ねた。どくん、どくんと胸が高鳴り、耳の奥で自分の脈が響くような感覚に襲われた。血液が一気に巡り、鼓膜のあたりまで脈が波打つ。


「…神崎航太郎って名前の心臓外科医だった。あんた、知り合いかい?」


その名前が店主の口から出た瞬間、颯太は息を飲んだ。父、神崎航太郎。心臓外科医として尊敬され、多くの患者の命を救ってきた人物。…そして、手術ミスで一人の患者の命を奪った医者。颯太は何も言えず、ただ固まってしまった。


その時、不意に真田先生の声が聞こえてきた。


「颯太、堂々としていいんだ。神崎先生はこの人の命を…いや、人生も、家族の運命も救ったんだから」


その言葉に、颯太は静かに目を閉じた。長い間、父の影から逃げていた自分。しかし、今ここで店主に話すべきかもしれない。父が救った命が、こうして目の前に存在していることに、颯太は何か運命的なものを感じていた。


しばらくの沈黙の後、颯太は覚悟を決めて、ゆっくりと店主の目を見ながら答えた。


「…はい。神崎航太郎は、僕の父です」


その言葉を口にした瞬間、重たいものが心から解けたように感じた。店主は驚いた表情を見せた後、すぐににっこりと笑い、しみじみとした声で言った。


「そうか、やっぱりそうか…どうりで似てると思ったよ。顔も、声も…雰囲気もさ。懐かしいねぇ。俺はあんたの父さんには本当に感謝してるんだ。あんたその息子だなんて、不思議な縁だな」


店主は、懐かしそうに笑いながら、医者、神崎航太郎との思い出を語り始めた。


「お前の父さん、穏やかそうな顔してるのに、塩分量とか、ちょっと体重が増えたりすると、すっげー怖いんだよ。『これは危ない』って真剣な顔して、どんどん指示を出してくるんだ。それがな、当時の俺はありがたくも怖かったなぁ。でも、本当に俺のことを思ってくれていたんだよな。感謝してもしきれねぇよ」


颯太は静かに頷きながら、その言葉を噛み締めていた。店主はさらに続けた。


「神崎先生、この店にもよく来てくれてたんだよ。一人で来ることもあれば、同僚と一緒に来ることもあった。でも、いつも優しい笑顔で『また来ますよ』って言ってくれたんだ」


その時、店主の顔が急に曇り、涙が浮かんできた。


「あの手術ミスの話も聞いた…でも、俺は信じられないんだ。神崎先生はそんなミスをするような人間じゃない。絶対に何か理由があったに違いないんだよ。俺を助けてくれたあの人が、そんな…」


涙声になりながらも、店主は懸命に言葉を続けた。その姿に、颯太は胸を締め付けられた。自分自身、父のことを完全に理解していたわけではなかったが、こうして誰かが父の人間性を信じ、尊敬してくれていることが何よりも嬉しかった。

真田先生も隣で静かにその話を聞いていた。店主の言葉は、真田にも響いているようだった。時折、目を細め、じっと何かを考えるような表情を浮かべていた。


「神崎先生は、俺の命だけじゃなくて、俺の人生も、家族の未来も救ってくれたんだ。そんな先生が…ミスなんて…」


店主の涙は止まらなかった。颯太は店主が話し終わるまで、静かに話を聞いていた。


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